?京橋公園(京橋小)

銀座1丁目。首都高・京橋ジャンクションのすぐ南。銀座4丁目の交差点から直線距離にして約600?。








かつて、楓川には「弾正橋」、京橋川には「白魚橋」、三十間堀に「真福寺橋」が架かり、この三橋を「三つ橋」と称し、江戸の名所の一つとなっていたようだ。



慶長8年(1603)徳川家康が幕府を開き、日比谷入江等を埋め立て造成し城下町を形成した。
慶長17年三十間堀が開削され、その東側に南北に細長い木挽町が出来た。木挽町の名の起こりは、江戸城改築にあたって木挽(木曳)職人を多く住まわせたためといわれている。木挽町の町名は東銀座、銀座と変わったが、木挽町の歌舞伎座、木挽町の柳生道場と幾多の歴史上の名を残した由緒ある町名であった。
京橋プラザの建っているこの場所は元京橋小の跡地で三十間堀が屈折して白魚橋で京橋川に注ぐ位置に在り、この新築にあたって、地中より掘り出された護岸の石が植え込みの囲いとして使われている。
おやじ注:「三十間堀」:幅が三十間(約54.5m)あったことからその名が付けられた。



蜊(あさり)河岸
所在地 中央区新富1―1・4地域
現在、ここから日本橋方面にのびている高速道路はかつての楓川で、川はこの先で京橋川と三十間堀に合流していました。そこは、それぞれの川筋に弾正橋・牛の草橋(白魚橋)・真福寺橋の三つの橋が架かっていたことから「三ツ橋」と呼ばれていました。蜊河岸は、その三ツ橋のひとつ、三十間堀に架かる真福寺橋の東岸、築地方面の河岸の呼び名です。江戸時代後期、この蜊河岸には江戸三大道場のひとつ、鏡新明智流の剣客桃井春蔵の「士学館」がありました。嘉永六年(一八五三)発行の平野屋版切絵図には、蜊河岸の築地側南端に、その名を確認することができます。
平成十二年三月 中央区教育委員会


京橋公園は(関東大)震災復興のときに整備された公園であり、コンクリート製すべり台は当時の面影を残すものとして長い間公園利用者の皆様に親しまれてきました。・・・
平成23年8月 中央区環境土木部水とみどりの課
1923年(大正12年)9月の関東大震災復興のときに設置された「二連式すべり台」が2011年3月の東日本大震災を機に安全性、老朽化のために撤去されたのも不思議な因縁を感じます。
震災復興校舎だった「京橋小学校」は、統廃合ですでになく、「京橋プラザ」という大きな複合高層住宅になっています。

階数 地上19階
高さ 73.08m
竣工 1999年06月(平成11年06月)
区民住宅の他、ホールもある区民館施設として建設された。



一階吹き抜け部分には、旧京橋小にちなんだモニュメントがあります。





一、半円形の石柱は、当時の工作室脇の階段の柱です。
一、記念レリーフの絵は、昭和10年代後半か昭和20年代初期の写真を基に彫刻いたしました。
一、記念レリーフの木枠は、当時の黒板を使用してあります。
一、喫茶室の木製の窓は当時のものです。使用し手あるガラスは昭和初期の製品で、大変に貴重なものです。今では 作っていません。よく見ると、ガラスはゆがんで見えると思います。
一、校歌の文字は第12代校長星野武之先生の書を彫刻いたしました。
平成11年6月 中央区立京橋小学校同窓会