旧京橋小・京橋公園(現「京橋プラザ」)へ向かう前にちょっと寄り道。「京華スクエア」付近は、「八丁堀」。
そこで、「八丁堀」別名「桜川」跡を探索しました。
「概念図」。
(「
」H001八丁堀(はっちょうぼり=堀川の名称)、桜川(さくらがわ)編。homepage2.nifty.com/makibuchi-2/kyodoshi/.../rekisi_map_kaisetu.htm」より)
赤い色の地域が「八丁堀」町。亀島川と日本橋川(北新堀川)に囲まれた地域が霊岸島。その中央の堀割が「新川」。
![]()
![]()
![]()
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。上の図から下の図へとつながる。上の図で、左(西)の堀が「楓川(もみじがわ)」。中央の堀が「八丁堀」。「白魚橋」の西の堀は「京橋川」。南に屈折している堀が「三十間堀」。
下の図。西から東に流れて合流する川が「亀島川」。
「桜川」と呼ばれたのは、「楓川(もみじがわ)」に対応させたものか。「楓川」と「桜川」が交叉するあたり、「楓川」に架かる橋が「弾正橋」(現在、「鍛冶橋通り」にある「弾正橋」よりも少し南)。
現「弾正橋」。
弾正橋公園にある旧弾正橋(都内最古の鉄骨の橋)のモニュメント(本物は、深川八幡宮の東のところ現存。)
「鍛冶橋通り」沿いにあった案内図。黒い枠のところが「八丁堀(桜川)」。右の赤丸は「明正小」左上が「京華小(現京華スクエア)」左下が「中央小(旧鉄砲洲小)」。明治時代から現代まで堀割が埋め立てられた以外には、大きな変化はない。
「桜橋ポンプ場」。
道路を挟んで東側(下流)は下水道工事中。
「桜川公園」。埋め立てられ、公園や保育園、地域センターなどになっています。一方で、もともと水流があった堀割だったようで、上流と下流の二箇所に大きな下水道処理施設があります。
東西に幅広く長い公園。
保育園。正面が区の施設。建物の幅が水路の幅。かなり幅広い堀であったことが分かります。戦後も昭和40年代までは水運として賑わったようです。
亀島川合流地点にある「桜橋第2ポンプ場」。
合流地点。コンクリートの護岸がかつての八丁堀の河口か? 奥に見える橋が「南高橋」。都内で二番目に古い橋。
「鉄砲洲通り」。
「京華スクエア」前に設置されている与力・同心組屋敷跡 説明板。現在の八丁堀から茅場町の一帯に組屋敷があった。
所在地 中央区八丁堀1〜2丁目・日本橋茅場町1〜3丁目の一帯。
江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町でした。寛永12年に江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転し、そこに与力・同心の組屋敷の町が成立しました。その範囲は茅場町から八丁堀の一帯に集中しています。
八丁堀といえば捕物帖で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた、江戸町奉行配下の与力・同心の町。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆。着流に羽織姿で懐手(ふところで)、帯に差した十手の朱房もいきな庶民の味方として人々の信頼を得ていました。
初期には江戸町奉行板倉勝重の配下として与力10人、同心50人から始まってのち、南北両町奉行が成立すると与力50人、同心280人と増加し、両町奉行所に分かれて勤務していました。与力は知行200石、屋敷は300〜500坪、同心は30俵2人扶持(ぶち)で、100坪ほどの屋敷地でした。
これらの与力・同心たちが江戸の治安に活躍しましたが、生活費を得るため町民に屋敷地を貸す者も多く、与力で歌人の加藤枝直・千蔭父子や医者で歌人の井上文雄などの文化人や学者を輩出した町としても知られています。
平成13年3月 中央区教育委員会
「八丁堀」付近は、史跡に富んだところのようです。
この周辺には、近代的ビルの中に、戦前を思わせるコンクリート製の高層建物が残っています。
![]()
そこで、「八丁堀」別名「桜川」跡を探索しました。

(「

赤い色の地域が「八丁堀」町。亀島川と日本橋川(北新堀川)に囲まれた地域が霊岸島。その中央の堀割が「新川」。




下の図。西から東に流れて合流する川が「亀島川」。
「桜川」と呼ばれたのは、「楓川(もみじがわ)」に対応させたものか。「楓川」と「桜川」が交叉するあたり、「楓川」に架かる橋が「弾正橋」(現在、「鍛冶橋通り」にある「弾正橋」よりも少し南)。












所在地 中央区八丁堀1〜2丁目・日本橋茅場町1〜3丁目の一帯。
江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町でした。寛永12年に江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転し、そこに与力・同心の組屋敷の町が成立しました。その範囲は茅場町から八丁堀の一帯に集中しています。
八丁堀といえば捕物帖で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた、江戸町奉行配下の与力・同心の町。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆。着流に羽織姿で懐手(ふところで)、帯に差した十手の朱房もいきな庶民の味方として人々の信頼を得ていました。
初期には江戸町奉行板倉勝重の配下として与力10人、同心50人から始まってのち、南北両町奉行が成立すると与力50人、同心280人と増加し、両町奉行所に分かれて勤務していました。与力は知行200石、屋敷は300〜500坪、同心は30俵2人扶持(ぶち)で、100坪ほどの屋敷地でした。
これらの与力・同心たちが江戸の治安に活躍しましたが、生活費を得るため町民に屋敷地を貸す者も多く、与力で歌人の加藤枝直・千蔭父子や医者で歌人の井上文雄などの文化人や学者を輩出した町としても知られています。
平成13年3月 中央区教育委員会
「八丁堀」付近は、史跡に富んだところのようです。

