堤防の先が「利根川河口」。遠くに見えるのは「銚子港一ノ島灯台」。
今回の「利根川」歩き。快晴の一日。利根川河口から歩く、という計画。
そこで、利根川の河口・銚子港へ出かけることに。
ところが、雲一つ無い快晴ですが、吹く風が冷たく厳しく、・・・。現地の方にはこれ如きで、とひんしゅくを買いそうです。
千葉から普通電車で10時過ぎにJR総武本線「銚子駅」に着きました。そこから銚子電鉄で「本銚子(もとちょうし)駅」まで。
電車の様子。風船が一杯できらびやか。年寄りはちょっと引き気味。
遠ざかる電車。見ると、『ピンクニュージンジャー号』と。
何でも、銚子市在住のバルーンアーティスト吉井小也香さん(Little Flavor)が、クハ2500形電車の2502を、岩下食品の「岩下の新生姜ミュージアム」の公式キャラクター イワシカと岩下の新生姜アルパカをふんだんに使い、かわいくデコレーションした、とのこと。
(「
」HPより)
下車した「本銚子(もとちょうし)駅」。
駅舎は1923年(大正12年)に当駅が銚子鉄道の駅として改めて開業した際に建てられたもので、その後何回か改修が行われているが、築後百年近くが経過し、近年は老朽化が著しく、全面的な改修もしくは建て替えが望まれる状態であった。しかし、所有・管理する銚子電気鉄道には建て替えのための予算の余裕がなく、2000年代に入ると修復が行われていない箇所が目立つものとなっていた。
2017年8月26日 - 8月27日に、日本テレビ系列『24時間テレビ40』内の企画である「ヒロミの24時間リフォーム〜オンボロ駅を直そう!〜」にて、当駅の主な利用客である銚子市立清水小学校の生徒より依頼された、という形でヒロミがリフォームを手掛けた。これにより、駅舎は外壁、屋根、待合室内といった箇所を一新し、レンガ様の外壁の大正モダン風のものとなった。待合室内には清水小学校の生徒が製作したガラスを用いたステンドグラスが飾られている。しかし、一部の鉄道ファンからは「以前の雰囲気が失われた」「元の駅舎に戻してほしい」といった不評もある。
リフォームと同時に駅舎内の掛け時計も新調したが、2018年に時計が盗難に遭い、銚子電鉄が情報提供を呼びかけたが見つからなかったため、鉄道ファンから別の時計を寄贈して貰ったが、2020年10月に再度盗難に遭ったことが明らかになった。
・・・駅全体が切り通しの中にあり、周辺は林となっている。アジサイの開花シーズンにはホームの反対側の植え込みから隣駅の笠上黒生駅間にかけて多くのアジサイが咲く。
(「Wikipedia」より)
駅舎内。
(「銚子市観光協会」HPより)
(「もとちょうしえき」)
「上り調子・本調子」。
跨線橋から。
ここから約2㎞の道のりを銚子港・利根川河口まで歩きます。
「川口神社と大漁節」解説板。
・・・川口神社は、江戸時代、飯貝根(いがいね・現在の川口町周辺)を望む高台にあり、利根川の流れと出船入船を眺めることができます。漁船の守り神として漁業従事者からの信仰が篤く、旧暦6月15日に大潮祭りが盛大に執り行われ、銚子の祭りを代表するものです。1864年(元治元年)、イワシの未曾有の大漁に沸いた漁師たちが、大漁祭りにために「大漁節」を作り、川口神社に奉納したといわれ、大漁節の歌詞は、江戸時代の銚子漁業の情景が描き出されています。
全国に「大漁節」があるようです。
「大漁節」代表例
・よされ大漁節 青森県八戸市などで歌われる青森県の民謡で、「八戸大漁節」とも言う。
・銚子大漁節 千葉県銚子市の民謡で、主にイワシなどの大漁を祝い、幕末の1864年に網代久三郎らが作った。日本各地に存在する大漁節の中でも、特に著名なものの1つ。
・九十九里大漁節 地引き網漁の網を引く際に歌われた千葉県の民謡で、同県の無形民俗文化財。酒宴の歌にもなっている。九十九里大漁節保存会によって、保存伝承されている。(「Wikipedia」より)
※「銚子大漁節」歌詞
一つとせ 一番ずつに積み立てて川口押し込む大矢声 この大漁船
二つとせ 二間の沖から外川まで続いて寄り来る大鰯 この大漁船
三つとせ 皆一同に招をあげ通わせ船の賑やかさ この大漁船
四つとせ 夜昼焚いても焚き余る三杯一丁の大鰯 この大漁船
五つとせ いつ来てみても干鰯場はあき間もすき間も更になし この大漁船
六つとせ 六つから六つまで粕割が大割小割で手に追われ この大漁船
七つとせ 名高き利根川高瀬船粕や油を積み送る この大漁船
八つとせ 八手の沖合若衆が万祝揃えて宮参り この大漁船
九つとせ この浦守る川口の明神ご利益あらわせる この大漁船
十とせ 十を重ねて百となり千を飛びこす万漁年 この大漁船
十一とせ 十一日は潮がわり鯵鯖まじりの大鰯 この大漁船
十二とせ 十二のお船玉いさましく明日も三ぞう積むように この大漁船
十三とせ 十三、四つの小野郎奴メンパで鰯を通わせる この大漁船
十四とせ 十四の生網、船新造、あらすの艪櫂で漕き回る この大漁船
十五とせ 十五夜お月様夜に余る八手の鰯は昼あがる この大漁船
十六とせ 十六ササギは花ざかり八手の鰯は色ざかり この大漁船
十七とせ 十七・八の小娘があかねのたすきで塩はかる この大漁船
十八とせ 旗は白地を染めちらしこれこそ八手の大漁旗 この大漁船
十九とせ 九十九里浜から銚子浦粕たく煙が絶えやせぬ この大漁船
二十とせ この職大漁で来る職もまたも大漁するように この大漁船
(この項、「銚子市」HPより)
「大漁節」に関しては、以下の解説も。
九十九里浜の沖合いは、いわしが多く回遊し、また長く続く砂浜は遠浅のため江戸時代から地曳網漁が発達した。元禄年間(1688~1703)にはいわし漁の最盛期を迎えますが、この頃から獲れたいわしは干鰯に加工され、稲作や綿作の肥料として全国で利用されるようになった。
九十九里大漁節は、活気に沸いたいわしの地曳網漁の様子を詠みこんだ歌で、大漁の祝いの宴席などで歌われた。発生時期は、恐らく、天保10年(1839)の大漁期の頃と考えられている。
しかし、九十九里のいわし大地曳網漁は明治時代になってから不漁続きで、九十九里大漁節も一時は人々から忘れ去られていた。そして、逆に銚子の八手網漁で豊漁が続き、この頃作られた銚子大漁節が各地に広まっていった。昭和35年頃、これを憂えた人々が、九十九里町片貝屋形地区の子安貞吉氏が覚えていた唄を頼りに復元し、保存会によって伝承されるようになったのが現在の九十九里大漁節である。
「一つとせー一番袋にきめこんで朝から晩まで背負いあげる浜大漁だねコリャコリャ」から始まる数え歌で、今は宴席の最後の〆などに手踊りと一緒に歌われ、九十九里地域の人々に親しまれている。
(この項、「千葉県教育委員会」HPより)