副題として「歴史・文学・哲学はどう応答したか」。
第一章「他の書物と同様の仕方で読んだり消費したりしてはならない」導入―様々な視点からの考察―結論
このように極めて論理的にかつ実証的に文学(者)、歴史(学者)、哲学(者)のホロコーストへのアプローチを解明しながら「今」生きている我々にとって「ホロコースト」後の世界をどのようにとらえ直し、自らの方向性を見いだしていくか(あるいは見いだしていったか)を追究する内容。かなり大部の書ですが、示唆に富んだ内容を持っています。
歴史的事象に関わる「同一化」と「差異化」。「体験」の「追体験」(当事者としての、傍観者としての)が可能なのか、不可能なのか。そもそも「歴史」「過去」と「現在」「未来」とどのように関わっていくのか?
特に、日本の保守政治家(評論家)の、たとえば、過去の日本の侵略戦争を遂行する国家体制・戦略を「現在」と切り離し、むしろ「当時としてはやむをえなかった、当然だった」、あるいは「現在の日本」「我々」がそうした過去の責任を問われることはない!という言説がまかり通っている現実を見ると、この書のようにどこまでもこだわり続けることへの大事を感じる。
応答の仕方にもその強弱・是非などは、当然ある。しかし、それぞれが自らの依って立つ思想・世界観に基づいての関わりの中で、当事者同士が議論を続ける(論争を行う)、またそれを客観的に吟味するという、当然の姿勢が随所に見られるのがすばらしい。(どこかの知事のようにしどろもどろの言い訳に終始し、結局、真実を明らかにしなまま辞任するなどという政治風土の日本と比べて)そうした西洋の哲学的な基盤に圧倒される。
訳者の後書きにもあるように、「ホロコーストの同一化によって消費されない特異性、単独性を強調する一方で、デリダの言う『特異なもの一般』をつまり単独的なものの普遍性を思考することを示唆してい」く、そのために多くの資料(言説)を取り上げ語り掛ける著者の立場が、まさに西洋の哲学的伝統の上にあることを思いしらされた。
ホロコーストに関わって、古き良き映画シリーズで取り上げた「縞模様のパジャマの少年」の「倫理的な防壁」(あり得ない防壁という設定を通して)のありようをあらためて感じた。
※ 2013/1/10投稿「縞模様のパジャマの少年」(古きよき映画シリーズ18)を再掲。
ジョン・ボインの同名小説が原作で、ホロコーストに関わるドラマ。子供を主人公として描いた作品。
(「www.amazon.co.jp」より)
第二次大戦下のドイツ。快活で冒険好きな8歳のブルーノ(エイサ・バターフィールド)は、ナチス将校である父の転勤に伴いベルリンを遠く離れ、厳重な警戒下にある大きな屋敷へ引っ越してきた。ブルーノは、寝室の窓から遠くに見える「農場」で働く人々が昼間でも縞模様のパジャマを着ていることを不思議に思う。
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学校に行かせてもらえず、遊び相手もなくて退屈しきっていたある日、屋敷の裏庭を抜け出し林を駆け抜けていくと、有刺鉄線を張り巡らした「農場」にたどり着く。フェンスの向こうにはパジャマ姿の同い年の少年シュムエル(ジャック・スキャンロン)が一人ぼっちで座っていた。
シュムエルはユダヤ人、ナチスによってその「強制収容所」に送り込まれていた。シュムエルの存在は家族には秘密だったが、有刺鉄線越しに、シュムエルとチェスをしたり、ボール投げをしたりするうちに、子ども同士の友情が芽生えてくる。
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ブルーノの母親は、夫の職務に違和感を感じ始める。息子のブルーノも、収容所の焼却場から立ち上る異臭について、たびたび両親に聞く。ついに、母親と二人の子供達は、別の所へ引っ越すことに。しかし、ブルーノはシュムエルのことが気にかかっていた。
ブルーノは引越しの当日、収容所内で行方が分からなくなったシュムエルの父を一緒に探す為、強制収容所の有刺鉄線の下をかいくぐり、シュムエルと同じ縞模様のパジャマを着て紛れ込む。しかし間もなく、豪雨の降り注ぐ中、他のユダヤ人収容者とともに追い立てられるようにして、二人は「シャワー室」に入っていく。
ブルーノの母親は、息子がいないことに気付き、収容所挙げての捜索が始る。真っ暗なシャワー室の中で不安におののく大勢のユダヤ人、ブルーノとシュムエルは手をしっかり握り合う。
父親も半狂乱で、収容所内を調べまわる。豪雨の中、母親は、鉄条網の外で、息子が脱ぎ捨てた衣類を抱きしめながら号泣する。
ラストシーンは、閉じられたシャワー室の扉。カメラの引きとともに、脱ぎ捨てられたたくさんの縞模様のパジャマ(囚人服)が映る。次第に灯りが消えていく。・・・
この物語の原作はジョン・ボインというアイルランドの若い作家(DVD特別編では、解説に登場)が2006年に出版し、世界的ベストセラーになった。それをイギリスとアメリカの合作で映画化。
ラストシーン。ブルーノが両親にとってかけがえのない子供だったように、シュムエルもその他のたくさんのユダヤ人もそれぞれの誰かにとってかけがえのない人だった。一方では、存在そのものが忌まわしいものとして生命を奪われる(奪う)。
これまでもかけがえのない多くの人間の生命が、戦争や政策、体制の名の下で「人種」「民族」「反・・」という括りで一緒くたにされて、意図的に抹殺されていく(していく)。それは今もなお世界の隅々で起こっていることではないか。それをどうすればいいのか、空しさも残る現実。
ユダヤ人たちが明るく楽しむ収容所内での生活ぶりを映した映画(もちろん、ナチスのプロパガンダだった、と今は言えるが、当時は・・)によって、疑っていた父親に対して信頼を取り戻すブルーノ。
家庭教師によって次第に「ナチズム」に染まっていく姉。
精神的に追い詰められていく母親。・・・
シュムエルが屋敷に食器洗いでやってきたときのエピソード。
ブルーノは「こんな子は知らない」と言い放ち、その後、懲罰を受けて傷だらけのシュムエルとフェンス越しに再会するシーン。
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許しを請うブルーノに対するシュムエルの反応。
それぞれが、身につまされるシーンの積み重ね。
もちろん、強制(最終、絶滅)収容所は、アウシュビッツを含め、二重の高電圧の流れる鉄条網で囲まれ、銃を肩に掛けた監視兵が常に見張っている。映画のような出来事はぜったいにありえない。あり得ない物語をなぜ創作したのか?
ここに、映画が現在の私たちへの問題提起(ホロコーストを共有できるのか? どういうかたちで共有し継承していくのか?)。主人公が少年達であることも含めて、鋭い問いかけのような気がします。
※画像は、「YouTube」予告編より。
第一章「他の書物と同様の仕方で読んだり消費したりしてはならない」導入―様々な視点からの考察―結論
このように極めて論理的にかつ実証的に文学(者)、歴史(学者)、哲学(者)のホロコーストへのアプローチを解明しながら「今」生きている我々にとって「ホロコースト」後の世界をどのようにとらえ直し、自らの方向性を見いだしていくか(あるいは見いだしていったか)を追究する内容。かなり大部の書ですが、示唆に富んだ内容を持っています。
歴史的事象に関わる「同一化」と「差異化」。「体験」の「追体験」(当事者としての、傍観者としての)が可能なのか、不可能なのか。そもそも「歴史」「過去」と「現在」「未来」とどのように関わっていくのか?
特に、日本の保守政治家(評論家)の、たとえば、過去の日本の侵略戦争を遂行する国家体制・戦略を「現在」と切り離し、むしろ「当時としてはやむをえなかった、当然だった」、あるいは「現在の日本」「我々」がそうした過去の責任を問われることはない!という言説がまかり通っている現実を見ると、この書のようにどこまでもこだわり続けることへの大事を感じる。
応答の仕方にもその強弱・是非などは、当然ある。しかし、それぞれが自らの依って立つ思想・世界観に基づいての関わりの中で、当事者同士が議論を続ける(論争を行う)、またそれを客観的に吟味するという、当然の姿勢が随所に見られるのがすばらしい。(どこかの知事のようにしどろもどろの言い訳に終始し、結局、真実を明らかにしなまま辞任するなどという政治風土の日本と比べて)そうした西洋の哲学的な基盤に圧倒される。
訳者の後書きにもあるように、「ホロコーストの同一化によって消費されない特異性、単独性を強調する一方で、デリダの言う『特異なもの一般』をつまり単独的なものの普遍性を思考することを示唆してい」く、そのために多くの資料(言説)を取り上げ語り掛ける著者の立場が、まさに西洋の哲学的伝統の上にあることを思いしらされた。
ホロコーストに関わって、古き良き映画シリーズで取り上げた「縞模様のパジャマの少年」の「倫理的な防壁」(あり得ない防壁という設定を通して)のありようをあらためて感じた。
※ 2013/1/10投稿「縞模様のパジャマの少年」(古きよき映画シリーズ18)を再掲。
ジョン・ボインの同名小説が原作で、ホロコーストに関わるドラマ。子供を主人公として描いた作品。

第二次大戦下のドイツ。快活で冒険好きな8歳のブルーノ(エイサ・バターフィールド)は、ナチス将校である父の転勤に伴いベルリンを遠く離れ、厳重な警戒下にある大きな屋敷へ引っ越してきた。ブルーノは、寝室の窓から遠くに見える「農場」で働く人々が昼間でも縞模様のパジャマを着ていることを不思議に思う。

学校に行かせてもらえず、遊び相手もなくて退屈しきっていたある日、屋敷の裏庭を抜け出し林を駆け抜けていくと、有刺鉄線を張り巡らした「農場」にたどり着く。フェンスの向こうにはパジャマ姿の同い年の少年シュムエル(ジャック・スキャンロン)が一人ぼっちで座っていた。
シュムエルはユダヤ人、ナチスによってその「強制収容所」に送り込まれていた。シュムエルの存在は家族には秘密だったが、有刺鉄線越しに、シュムエルとチェスをしたり、ボール投げをしたりするうちに、子ども同士の友情が芽生えてくる。

ブルーノの母親は、夫の職務に違和感を感じ始める。息子のブルーノも、収容所の焼却場から立ち上る異臭について、たびたび両親に聞く。ついに、母親と二人の子供達は、別の所へ引っ越すことに。しかし、ブルーノはシュムエルのことが気にかかっていた。
ブルーノは引越しの当日、収容所内で行方が分からなくなったシュムエルの父を一緒に探す為、強制収容所の有刺鉄線の下をかいくぐり、シュムエルと同じ縞模様のパジャマを着て紛れ込む。しかし間もなく、豪雨の降り注ぐ中、他のユダヤ人収容者とともに追い立てられるようにして、二人は「シャワー室」に入っていく。
ブルーノの母親は、息子がいないことに気付き、収容所挙げての捜索が始る。真っ暗なシャワー室の中で不安におののく大勢のユダヤ人、ブルーノとシュムエルは手をしっかり握り合う。
父親も半狂乱で、収容所内を調べまわる。豪雨の中、母親は、鉄条網の外で、息子が脱ぎ捨てた衣類を抱きしめながら号泣する。
ラストシーンは、閉じられたシャワー室の扉。カメラの引きとともに、脱ぎ捨てられたたくさんの縞模様のパジャマ(囚人服)が映る。次第に灯りが消えていく。・・・
この物語の原作はジョン・ボインというアイルランドの若い作家(DVD特別編では、解説に登場)が2006年に出版し、世界的ベストセラーになった。それをイギリスとアメリカの合作で映画化。
ラストシーン。ブルーノが両親にとってかけがえのない子供だったように、シュムエルもその他のたくさんのユダヤ人もそれぞれの誰かにとってかけがえのない人だった。一方では、存在そのものが忌まわしいものとして生命を奪われる(奪う)。
これまでもかけがえのない多くの人間の生命が、戦争や政策、体制の名の下で「人種」「民族」「反・・」という括りで一緒くたにされて、意図的に抹殺されていく(していく)。それは今もなお世界の隅々で起こっていることではないか。それをどうすればいいのか、空しさも残る現実。
ユダヤ人たちが明るく楽しむ収容所内での生活ぶりを映した映画(もちろん、ナチスのプロパガンダだった、と今は言えるが、当時は・・)によって、疑っていた父親に対して信頼を取り戻すブルーノ。
家庭教師によって次第に「ナチズム」に染まっていく姉。
精神的に追い詰められていく母親。・・・
シュムエルが屋敷に食器洗いでやってきたときのエピソード。
ブルーノは「こんな子は知らない」と言い放ち、その後、懲罰を受けて傷だらけのシュムエルとフェンス越しに再会するシーン。

許しを請うブルーノに対するシュムエルの反応。
それぞれが、身につまされるシーンの積み重ね。
もちろん、強制(最終、絶滅)収容所は、アウシュビッツを含め、二重の高電圧の流れる鉄条網で囲まれ、銃を肩に掛けた監視兵が常に見張っている。映画のような出来事はぜったいにありえない。あり得ない物語をなぜ創作したのか?
ここに、映画が現在の私たちへの問題提起(ホロコーストを共有できるのか? どういうかたちで共有し継承していくのか?)。主人公が少年達であることも含めて、鋭い問いかけのような気がします。
※画像は、「YouTube」予告編より。