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Channel: おやじのつぶやき
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中央区立明石小学校。築地外国人居留地。(震災復興52小公園。番外編。その5。)

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 (「http://akashisho.web.fc2.com/index.html」HPより)

 なお、「関根要太郎研究室@はこだて fkaidofudo.exblog.jp/10854674」2009/04/20に解体前の校舎が写真で詳しく紹介されている。
 そのときの文章を転載させてもらう。

 東京の築地といえば魚市場でお馴染みの場所だが、今回はその魚市場より歩いて5分ぐらいの所にある中央区立の明石小学校を紹介させていただきたい。
 この明石小学校は明治42(1908)年に開校。そして昨年創立100周年を迎えた同校の校舎は、大正15(1926)年に建てられた築83年の鉄筋コンクリート製校舎を現在も使い続けているという、まさに歴史ある小学校である。
 なお以前に中央区の明正小学校を紹介したときにも触れさせていただいたが、中央区内には10軒近くの大正末から昭和初期に建てられた小学校舎が現存しているが、その最古参がこの明石小学校である。その存在はあまり知られていないが、今日も教育の場として使われている、まさに街の生きる文化財とも言うべき存在だ。
 鉄筋コンクリート製の小学校というと、無骨とか冷たいという印象を持たれるかも知れない。この明石小も一見するとそのようにも見えるが、じっくり観察していただければ、80数年前この学校を設計した人たちの心遣いを感じていただけるのではないかと思う。例えば窓の間の柱や軒や庇、そし玄関窓や門柱まで曲線が多用されている。外観だけでも校舎内がどんな作りになっているか想像できる、やさしいデザインだ。・・・(中略)
 函館の小学校は明石小より12年後の竣工だが、明石小の設計を手掛けた東京市の技師、函館の弥生小の設計を手掛けた函館市の技師ともに、関東大震災・函館大火からの子供たちの心の復興という、共通したビジョンを持っていたのではないかと思う。当時の人々のが思いを託し作り上げた美しい校舎が、長年に渡り子供たちを育んできたと思うと感慨もひとしおである。
 この明石小は美しい搭が印象的な聖路加病院が表通りの喧騒を遮断したかのような、とても落ち着いた雰囲気。恐らくこの周辺の環境は変われど、聖路加病院と明石小の連続した佇まいは今も昔も同じなのだろう。
 しかしこの落ち着いた小学校には、唯一そうではなかった時代があった。それは太平洋戦争が激しくなった昭和20(1945)年、同校の児童たちは地方に学童疎開し、この校舎は日本軍の高射砲陣地として使われていたという過去を持つ。歴史ある建造物、そして明石小をはじめとした歴史ある校舎はその存在により、これまでの歴史を明確に後世に伝えることができる訳である。


1970年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「明石小」と「第二中」(上)が並んで建っている。下方が「聖路加病院」。西側の川は旧「築地川南支流」(埋め立てが進められ、親水公園風に)。
 その後、震災復興校舎は解体され、新築工事が始まった。卒業生などが中心となって建て替え反対・保存運動があった、明石小学校校舎。平成25年(2013年)1月24日に新校舎が完成しそこでの学校生活が始まった。
新校舎(「明石小」HPより)。

円柱など、以前の校舎の特徴を生かす工夫がうかがわれる。

校庭と校舎。アーチ状の外廊下。

正面外壁。
校庭脇の倉庫の屋根にもかつての意匠の雰囲気が。
正門前の通り。
裏手のようす。

 児童数は、全校で232名(25年9月現在)、1学年2学級規模。児童数の割には、葛飾区や足立区とは比べものにならないほど、豪華な施設・設備。さすが「金持ち」区は違います!

「旧校舎の石」。

 このベンチに使われている花崗岩は大正15年に建設された復興小学校である明石小学校・明石幼稚園の旧校舎の階段に使用されていた石材を再利用したものです。

 左に当時の昇降口の階段の写真がある。奥のレンガ塀は、築地外国人居留地のレンガ塀の遺構の一部。関東大震災や空襲による戦禍を免れ、残されたものをモニュメントとして保存してある。

「築地外国人居留地跡」碑。

雙葉学園発祥の地」記念碑。
 徳においては純真に 義務においては堅実に
 SIMPLE DANS MA VERTU FORTE DANS MON DEVOIR

歴史
1875(明治8年) 築地居留地内に修道院を開設。孤児院・寄宿学校を開設。
1909(明治42年) 雙葉高等女学校設立、築地明石町にて開校。校長メール・セン・テレーズ。(同学園のHPより)



 東京は開港場ではないが、開市場に指定されたため、1869年に築地鉄砲洲に外国人居留地を設けた。今日の中央区明石町一帯である。しかし、横浜居留地の外国商社は横浜を動かず、主にキリスト教宣教師の教会堂やミッションスクールが入った。このため、青山学院や女子学院、立教学院、明治学院、女子聖学院の発祥地となっている。また外国公館も多く、1875年にアメリカ合衆国公使館が設置され、1890年に現在の赤坂に移転するまで続いた。

1880年代のようす(「同」より)。赤丸が米国公使館。
築地居留地も1899年の治外法権撤廃で廃止されている。
 ここが発祥の学校・学園はまだ他にもたくさん。
移設されたガス街灯の柱。
旧明石小校舎脇にあった「ガス灯」(HPより)。
「ガス灯」。中央区立第2中にあったもの。現在は廃校。

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