久々に「東銀座」へ。そのついでに、「晴海通り」を「勝鬨橋」まで。実は、初めて。
「隅田川」に架かる橋の中で、最下流にある橋で「晴海通り」が通る。この先は、東京港(少し南西にある「浜離宮公園」付近が河口)。
日本で現存する数少ない可動橋(跳開橋)だが、1980年に機械部への電力供給が終了、可動部もロックされ、跳開することはない。
跳開したときのようす。
(
www.zenitaka.co.jp/bridge/kachidoki.html)より。
1905年(明治38年)1月18日、日露戦争における旅順陥落祝勝記念として有志により「勝鬨の渡し」が設置された。築地と対岸の月島の間を結ぶ渡船だった。
「かちときのわたし」碑。
説明板によると
明治38(1905)年、日露戦争の旅順要塞(中国東北部)陥落を契機に、京橋区民の有志が「かちどきの渡し」と名付けて渡船場を東京市に寄付しました。当地にある石碑は、この時に建てられた記念碑です。・・・
設置されたかちどきの渡しの渡船場は、ここから約150メートル西の波除稲荷神社辺りにありました。対岸にある月島側の渡船場は、月島西河岸9丁目(現在の勝どき1・3丁目の境)の辺りにあってこの間を渡船が運搬していました。
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1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。稲荷社(赤丸)がある。当時は、月島はまったく市街地の形をなしていない。北の石川島には、監獄があった(北から「石川島」「(新)佃島」「月島」の三つの島・埋め立て地から構成されていた。)
大正時代、勝鬨橋がないころのようす(「今昔マップ」より)。「かちどきの渡し」、「月島の渡し」、「佃の渡し」があった。「海軍兵学校」、「経理学校」、「軍医学校」等の施設が記されている(現在の「築地市場」)。
勝鬨橋架橋のころのようす(「同」より)。「月島の渡し」「佃の渡し」は、まだ健在。
大正12(1923)の関東大震災後、架橋の運動が起こり、船が通過する際に跳ね上がる可動橋が架せられることになりました。・・・かちどきの渡しは昭和15(1940)年6月勝鬨橋の開通とともに廃止されました。
※1 「かちどき」は、中世の戦などの勝負事で勝ちを収めたときに挙げる鬨(とき)の声で、士気を高める目的で多数が一緒に叫ぶ声。「いざ!出陣」のときに「エイエイ(エイ)」に呼応して「オー」と三回繰り返すのは知っていたが、勝ち戦ののときのかけ声「ときの声」は何と叫ぶのだろう?
※2 この橋も関東大震災の復興事業と関連した。
明治25(1892)年、銀座・築地方面と月島との間には「月島の渡し」が開設されたが、月島側の発展とともない、両地の交通はこれのみではさばけない状態に。
「月島の渡し」碑。
当時は隅田川を航行する船舶が多かったので、3千t級の船舶が航行させるために中央部分を開く可動橋として架橋されることになり、1933年に着工し、1940年6月14日に完成。
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勝鬨橋之記
明治三十八年の戦役に於て皇軍大捷す京橋區民は之が戦勝を記念し此處に渡船場を設け勝鬨の渡と名付け東京市に寄付す。昭和八年六月東京市は新に双葉可動橋の架設に着手し偶日支事變勃發せるも今年六月功を竣ふ即ち橋に名付くるに亦勝鬨を以てし長く皇軍戦勝の記念となす
昭和十五年十二月 東京市長大久保留次郎 撰書
1940年に「皇紀2600年」を記念して月島地区で開催予定であった「日本万国博覧会」へのアクセス路とする計画の一環でもあったため、格式ある形式、かつ日本の技術力を誇示できるような橋が求められた。博覧会そのものは日中戦争の激化などもあって中止されたが、勝鬨橋は無事完成し「東洋一の可動橋」と呼ばれるほどの評判を得た。
橋の両端部はアーチ橋で、中央部が上方に開く構造。開く角度は最大70度、約70秒で全開になる。片側だけ開く操作も可能であった。橋梁の歩道の上部には、4つの建屋があり、それぞれ運転室、見張室、宿直室などとなっている。
信号機がまだそのまま。
上部・梁の部分。
橋が開く際は、両岸アーチ部にある信号器が赤になり、橋上の往来を停止させた。
設置当初は1日に5回、1回につき20分程度開いていた。この回数はほぼ1953年頃まで続いたが、船舶通航量の減少と道路交通量が増大したことで、次第に回数は減少、特に上流に「佃大橋」が建設された1964年以降、船舶通航の需要は限定され、開閉回数は年間100回を下回るようになった。1967年には通航のための最後の跳開が行われた。その後は年に一度ほど試験のため開いていたが、航行する大型船舶がなくなったことや交通量の著しい増加などの理由で1970年11月29日を最後に開閉が停止となった。
橋梁。
河口を望む。右が「築地市場」。その奥が「浜離宮」にあたる。
上流方向。
月島方向。
1998年より夜間にライトアップが行われている。
橋のたもとの築地側には、開閉のための電力を供給していた変電所を改装し、財団法人東京都道路整備保全公社が運営する「かちどき橋の資料館」が2005年4月に開館した。
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2007(平成19)年、清洲橋・永代橋と共に勝鬨橋が国の重要文化財(建造物)に指定された。
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現在の橋が完成した年。但し、「駒方橋」は「駒形橋」。(「錢高組」HPより。)
この他に
「千住大橋」(旧)1927(昭和2)年(新)1973(昭和48)年、「白鬚橋」1914年(大正3)年、「水神大橋」1989年(平成元)年がある。
「海軍経理学校」の碑。橋の西詰のたもとにある。
海軍経理学校
大日本帝国海軍で庶務・会計・被服・糧食を受け持つ主計科要員育成のために置かれた軍学校としての養成学校である。主計科士官の基礎教育を行う初級士官養成校の機能と、主計科の専門教育を主計科士官および下士官・兵に施す術科学校としての機能を兼ね、さらに研究機関でもあった。
1907年(明治40年)に創設され、第二次世界大戦終結後に日本海軍が解体されるまで続いた。主要校舎所在地は現在の東京都中央区築地。海軍兵学校および海軍機関学校とならぶ旧海軍三校の一つ。略称は海経(かいけい)。
高校の先輩(「旧制中学」出身)でこの学校を出たあと、しばらくして終戦。「ポツダム中尉」だった、という話を聞いたことがある。
ちょっと上流、隅田川に流入する川に架かる橋で、関東大震災復興事業にかかわる橋がある。
「南高橋」。「日本橋川」から分岐した「亀島川」が隅田川に注ぐ地点にあります。
「南高橋」の説明板。
創架年代は、昭和六年(一九三一)に起工、同七年三月に竣工。
現在の南高橋の地には江戸時代には木橋は架橋されておらず、亀島川上流に高橋があったのみでした。大正十二年(一九二三)の関東大震災ののち、街路の大規模な区画整備が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前堀一丁目との間の亀島川に新しく橋を架けることになりました。
東京市は、多くの橋を改架したため、予算も乏しくなりました。そのため明治三十七年(一九〇四)に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架設したのです。
都内において、珍しくも明治三十七年のトラス橋の一部が現在に残ることとなり、その意味でも近代の土木遺産として貴重です。都内に残る鋼鉄トラス橋としては江東区に移転した八幡橋(旧弾正橋)
八幡橋(旧弾正橋)朱塗りの橋。現在は歩道橋として利用。菊の紋が見える
についで二番目に古く、車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては全国で六番目に古い橋梁になります。区民有形文化財に登録されています。
平成十四年三月 中央区教育委員会
ここにも記されているように、この橋の橋梁は、関東大震災で損害を受けた旧両国橋(明治三七年建造)の鋼鉄トラス橋の一部を使用しました。都内に残る鋼鉄トラス橋としては2番目に古い橋(車両通行可能橋梁としては最古。全国でも6番目に古い橋となっています)。
両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めたもの。
「隅田川」に架かる橋の中で、最下流にある橋で「晴海通り」が通る。この先は、東京港(少し南西にある「浜離宮公園」付近が河口)。
日本で現存する数少ない可動橋(跳開橋)だが、1980年に機械部への電力供給が終了、可動部もロックされ、跳開することはない。

(

1905年(明治38年)1月18日、日露戦争における旅順陥落祝勝記念として有志により「勝鬨の渡し」が設置された。築地と対岸の月島の間を結ぶ渡船だった。

説明板によると
明治38(1905)年、日露戦争の旅順要塞(中国東北部)陥落を契機に、京橋区民の有志が「かちどきの渡し」と名付けて渡船場を東京市に寄付しました。当地にある石碑は、この時に建てられた記念碑です。・・・
設置されたかちどきの渡しの渡船場は、ここから約150メートル西の波除稲荷神社辺りにありました。対岸にある月島側の渡船場は、月島西河岸9丁目(現在の勝どき1・3丁目の境)の辺りにあってこの間を渡船が運搬していました。






大正12(1923)の関東大震災後、架橋の運動が起こり、船が通過する際に跳ね上がる可動橋が架せられることになりました。・・・かちどきの渡しは昭和15(1940)年6月勝鬨橋の開通とともに廃止されました。
※1 「かちどき」は、中世の戦などの勝負事で勝ちを収めたときに挙げる鬨(とき)の声で、士気を高める目的で多数が一緒に叫ぶ声。「いざ!出陣」のときに「エイエイ(エイ)」に呼応して「オー」と三回繰り返すのは知っていたが、勝ち戦ののときのかけ声「ときの声」は何と叫ぶのだろう?
※2 この橋も関東大震災の復興事業と関連した。
明治25(1892)年、銀座・築地方面と月島との間には「月島の渡し」が開設されたが、月島側の発展とともない、両地の交通はこれのみではさばけない状態に。

当時は隅田川を航行する船舶が多かったので、3千t級の船舶が航行させるために中央部分を開く可動橋として架橋されることになり、1933年に着工し、1940年6月14日に完成。

勝鬨橋之記
明治三十八年の戦役に於て皇軍大捷す京橋區民は之が戦勝を記念し此處に渡船場を設け勝鬨の渡と名付け東京市に寄付す。昭和八年六月東京市は新に双葉可動橋の架設に着手し偶日支事變勃發せるも今年六月功を竣ふ即ち橋に名付くるに亦勝鬨を以てし長く皇軍戦勝の記念となす
昭和十五年十二月 東京市長大久保留次郎 撰書
1940年に「皇紀2600年」を記念して月島地区で開催予定であった「日本万国博覧会」へのアクセス路とする計画の一環でもあったため、格式ある形式、かつ日本の技術力を誇示できるような橋が求められた。博覧会そのものは日中戦争の激化などもあって中止されたが、勝鬨橋は無事完成し「東洋一の可動橋」と呼ばれるほどの評判を得た。
橋の両端部はアーチ橋で、中央部が上方に開く構造。開く角度は最大70度、約70秒で全開になる。片側だけ開く操作も可能であった。橋梁の歩道の上部には、4つの建屋があり、それぞれ運転室、見張室、宿直室などとなっている。


橋が開く際は、両岸アーチ部にある信号器が赤になり、橋上の往来を停止させた。
設置当初は1日に5回、1回につき20分程度開いていた。この回数はほぼ1953年頃まで続いたが、船舶通航量の減少と道路交通量が増大したことで、次第に回数は減少、特に上流に「佃大橋」が建設された1964年以降、船舶通航の需要は限定され、開閉回数は年間100回を下回るようになった。1967年には通航のための最後の跳開が行われた。その後は年に一度ほど試験のため開いていたが、航行する大型船舶がなくなったことや交通量の著しい増加などの理由で1970年11月29日を最後に開閉が停止となった。




1998年より夜間にライトアップが行われている。
橋のたもとの築地側には、開閉のための電力を供給していた変電所を改装し、財団法人東京都道路整備保全公社が運営する「かちどき橋の資料館」が2005年4月に開館した。

2007(平成19)年、清洲橋・永代橋と共に勝鬨橋が国の重要文化財(建造物)に指定された。


この他に
「千住大橋」(旧)1927(昭和2)年(新)1973(昭和48)年、「白鬚橋」1914年(大正3)年、「水神大橋」1989年(平成元)年がある。

海軍経理学校
大日本帝国海軍で庶務・会計・被服・糧食を受け持つ主計科要員育成のために置かれた軍学校としての養成学校である。主計科士官の基礎教育を行う初級士官養成校の機能と、主計科の専門教育を主計科士官および下士官・兵に施す術科学校としての機能を兼ね、さらに研究機関でもあった。
1907年(明治40年)に創設され、第二次世界大戦終結後に日本海軍が解体されるまで続いた。主要校舎所在地は現在の東京都中央区築地。海軍兵学校および海軍機関学校とならぶ旧海軍三校の一つ。略称は海経(かいけい)。
高校の先輩(「旧制中学」出身)でこの学校を出たあと、しばらくして終戦。「ポツダム中尉」だった、という話を聞いたことがある。
ちょっと上流、隅田川に流入する川に架かる橋で、関東大震災復興事業にかかわる橋がある。


創架年代は、昭和六年(一九三一)に起工、同七年三月に竣工。
現在の南高橋の地には江戸時代には木橋は架橋されておらず、亀島川上流に高橋があったのみでした。大正十二年(一九二三)の関東大震災ののち、街路の大規模な区画整備が行われた時に当時の本湊町と対岸の越前堀一丁目との間の亀島川に新しく橋を架けることになりました。
東京市は、多くの橋を改架したため、予算も乏しくなりました。そのため明治三十七年(一九〇四)に改架され、大震災で損害を受けた隅田川の両国橋の三連トラスの中央部分を補強し、橋幅を狭めて南高橋として架設したのです。
都内において、珍しくも明治三十七年のトラス橋の一部が現在に残ることとなり、その意味でも近代の土木遺産として貴重です。都内に残る鋼鉄トラス橋としては江東区に移転した八幡橋(旧弾正橋)

についで二番目に古く、車両通行可能な鋼鉄トラス橋としては全国で六番目に古い橋梁になります。区民有形文化財に登録されています。
平成十四年三月 中央区教育委員会
ここにも記されているように、この橋の橋梁は、関東大震災で損害を受けた旧両国橋(明治三七年建造)の鋼鉄トラス橋の一部を使用しました。都内に残る鋼鉄トラス橋としては2番目に古い橋(車両通行可能橋梁としては最古。全国でも6番目に古い橋となっています)。
