熊谷桜堤の桜並木に近づく。
堤防下に「熊谷市 ムサシトミヨ保護センター」があり、その敷地内に「元荒川」の源流があります。
ムサシトミヨはトゲウオ目トゲウオ科トミヨ属に属する体長3cm~5cm位の淡水にすむ1年魚です。オスが水草などで球形の巣を作り、子育てをする珍しい魚です。
湧き水が出ていた昭和30年代頃までは、東京と埼玉の限られた湧水に生息していました。埼玉県内では、熊谷市のほかに上里町・本庄市・川越市などでも見られました。
しかし、開発による川の汚染や湧き水の枯渇などにより、現在では熊谷市の元荒川上流域が世界で唯一の生息地となってしまいました。この周辺は豊かな地下水を利用した養鱒場があり、汲みあげられた地下水が放流されてきたため生き残ったのです。
2011年2月調査の推計生息数は22,655尾。ムサシトミヨは、環境省や埼玉県のレッドリストで「絶滅危惧IA類」※に分類され、絶滅の危機に瀕する希少な魚です。
※ごく近い初来における野生での絶滅の危険性が極めて高いもの
(HPより)
現在の荒川の流路は、江戸時代初期に行われた土木事業によってその原型が形づくられました。江戸時代以前の荒川は、元荒川筋を流れ、越谷付近で当時の利根川(古利根川)に合流していました。
荒川はその名のとおり「荒ぶる川」であり、扇状地末端の熊谷付近より下流で、しばしば流路を変えていました。
関東平野の開発は、氾濫・乱流を繰り返す川を治め、いかに川の水を利用するかにかかっていました。江戸時代の寛永六年(1629)に、伊奈備前守忠治(いなびぜんのかみただはる)が荒川を利根川から分離する付け替え工事を始めました。久下村地先(熊谷市)において元荒川の河道を締め切り、堤防を築くとともに新川を開削し、荒川の本流を当時入間川の支川であった和田吉野川の流路と合わせ、隅田川を経て東京湾に注ぐ流路に変えたのです。以来、荒川の河道は現在のものとほぼ同様の形となりました。後世「荒川の西遷(せいせん)」と呼ばれるこの河川改修事業は、埼玉平野の東部を洪水から守り新田開発を促進すること、熊谷・行田などの古い水田地帯を守ること、木材を運ぶ舟運の開発、中山道の交通確保、さらに江戸の洪水の防御などを目的にしていたと言われています。これにより埼玉東部低湿地は穀倉地帯に生まれ変わり、また、舟運による物資の大量輸送は大都市・江戸の繁栄を支え、江戸の発展は後背地の村々の暮らしを向上させていきました。
流路の付け替え前。
流路の付け替え後。
(この項、「」HPより)
「荒川の 流れを変えた 伊奈(備前守)忠治」。
見事な桜並木。ちょうど満開。
4月3日(土)。おおぜい見物に来ています。
「75.2K」ポスト。
道路も花びらでいっぱい。
河川敷運動広場。
圧巻の景色。
「荒川左岸 76.0K」。
約2㎞にわたる桜並木です。
さて、そろそろ「荒川公園」から熊谷駅へ。
花びらの絨毯。
「荒川公園」。
今回は、ここまで。桜と菜の花の共演は見事でした。次回は熊谷から寄居まで(の予定)。