左手の高台に「江原刑場」跡。
しばらく進むと、「八丁坂」のゆるやかな上りになります。しだいに右手が大きく開けてきます。
広大な宅地造成中。かつては鬱蒼とした雑木林だったようです。
西南を望む。
「江原刑場跡」解説板。
かすれて読みづらい。
大きな「題目供養塔」を中心に広場になっています。![]()
国道296号線を臼井から佐倉方面へ向かうと八丁坂に至ります。
坂をのぼっていくと、左手に「南無妙法蓮華経」の髭題目を棹石に大きく深く刻み込み、台石に「法界」「講中」と刻んだ供養塔があります。
これは寛政8年(1796)9月に法華宗の題目講中により造立されたものです。 成田道の道筋に面したここは佐倉城の西端にあたり、八町森と呼ばれ、佐倉藩が罪人の処刑を行った刑場跡です。
また、この地で、天保14年(1843)に佐倉藩医で蘭方医であった鏑木仙庵らによって、刑死者の腑分け(解剖)が行われました。 このような解剖が行われたのは佐倉藩では初めてのことであり、全国的に見ても早い時期のものと考えられます。
(この項、「
」HPより)
ここは、心霊スポットとして有名らしい。
ここから佐倉の入口「鹿島川」までけっこう歩きます。振り返る。![]()
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古民家を利用したカフェ「せん」。![]()
「鹿島川」に向かってゆるやかに下っていきます。![]()
屋根が重厚なおうち。![]()
ただし、現在は黒線の通り、直線になっていますが、旧道は赤線のように屈折していました。また、鹿島川は大きな湿地帯の中を「印旛沼」に流れていました。
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1880年代のようす。佐倉城下の旧道も現在と異なって屈折しています。
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2010年代のようす。橋の位置はほとんど変わっていません。
「鹿島川」を渡ると、「佐倉城」下町へ。![]()
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京成電車が通過中。![]()
鹿島川
千葉市緑区の千葉市昭和の森公園を水源とし北流し、西印旛沼へ注ぐ。佐倉市の中心河川で、戦国時代から江戸時代にかけては高崎川とともに佐倉城の天然の外堀として利用されていました。河川名は築城主であった鹿島幹胤の名にちなんだもの。
橋のたもとに「祠」。
右手高台の森は「佐倉城」(現「佐倉城址公園」)。![]()
佐倉城は、鹿島山の西端部に築かれ、西側と南側を囲みこむように鹿島川とそれに合流する高崎川が流れ北側には印旛沼に至る低湿地が広がっていた。
戦国時代、本佐倉城主千葉親胤が大叔父にあたる鹿島幹胤[1]に命じて築城を開始したが、親胤が暗殺されたために工事は中止され、千葉邦胤の代にも工事が試みられたものの今度も邦胤の暗殺によって完成することはなかった。だが、いつしか築城予定地には鹿島親幹にちなんで「鹿島台」と呼ばれるようになったという。
1610年(慶長15年)に、徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、ついに佐倉城が完成した。江戸時代は佐倉藩の藩庁が置かれた。城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、なおかつ初期は城主の入れ替わりが多く、江戸初期に城主であった堀田正信(後に改易されている)の弟・堀田正俊の孫・堀田正亮が11万石で再入封(後期堀田氏ともいう)してからは、安定した藩の経営を行っている(詳細は佐倉藩を参照のこと)。
城郭は石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にし、三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としている。
明治維新後に廃城令により建物のほとんどが撤去された。その後帝国陸軍歩兵第2連隊、後に歩兵第57連隊(通称・佐倉連隊)の駐屯地となった。
1962年(昭和37年)3月28日に市の史跡に指定され、現在跡地は佐倉城址公園として整備されている。城の北西端に国立歴史民俗博物館が建っており、東端には出土遺物や明治初期撮影の城門・櫓の古写真、城の模型が展示され、日本100名城スタンプが置かれた佐倉城址公園センター(佐倉城址公園管理センター)がある。
本丸、二の丸、三の丸やさらにその外縁部の椎木曲輪、天神曲輪などの多くの郭の形状が広大かつ良好に残る。また、巨大な馬出空堀や天守跡、銅櫓跡の土塁形状や水堀に守られた西出丸、南出丸の形状なども良好に残っている。佐倉連隊の弾薬庫跡、訓練用施設などの遺構も残存している。
今回はここまで。佐倉城(城址公園)の見学は後日にして京成佐倉駅に向かいます。
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駅前の観光案内。
しばらく進むと、「八丁坂」のゆるやかな上りになります。しだいに右手が大きく開けてきます。
広大な宅地造成中。かつては鬱蒼とした雑木林だったようです。

「江原刑場跡」解説板。

大きな「題目供養塔」を中心に広場になっています。

国道296号線を臼井から佐倉方面へ向かうと八丁坂に至ります。
坂をのぼっていくと、左手に「南無妙法蓮華経」の髭題目を棹石に大きく深く刻み込み、台石に「法界」「講中」と刻んだ供養塔があります。
これは寛政8年(1796)9月に法華宗の題目講中により造立されたものです。 成田道の道筋に面したここは佐倉城の西端にあたり、八町森と呼ばれ、佐倉藩が罪人の処刑を行った刑場跡です。
また、この地で、天保14年(1843)に佐倉藩医で蘭方医であった鏑木仙庵らによって、刑死者の腑分け(解剖)が行われました。 このような解剖が行われたのは佐倉藩では初めてのことであり、全国的に見ても早い時期のものと考えられます。
(この項、「

ここは、心霊スポットとして有名らしい。
ここから佐倉の入口「鹿島川」までけっこう歩きます。振り返る。



古民家を利用したカフェ「せん」。

「鹿島川」に向かってゆるやかに下っていきます。

屋根が重厚なおうち。

ただし、現在は黒線の通り、直線になっていますが、旧道は赤線のように屈折していました。また、鹿島川は大きな湿地帯の中を「印旛沼」に流れていました。



1880年代のようす。佐倉城下の旧道も現在と異なって屈折しています。



2010年代のようす。橋の位置はほとんど変わっていません。
「鹿島川」を渡ると、「佐倉城」下町へ。



京成電車が通過中。

鹿島川
千葉市緑区の千葉市昭和の森公園を水源とし北流し、西印旛沼へ注ぐ。佐倉市の中心河川で、戦国時代から江戸時代にかけては高崎川とともに佐倉城の天然の外堀として利用されていました。河川名は築城主であった鹿島幹胤の名にちなんだもの。

右手高台の森は「佐倉城」(現「佐倉城址公園」)。

佐倉城は、鹿島山の西端部に築かれ、西側と南側を囲みこむように鹿島川とそれに合流する高崎川が流れ北側には印旛沼に至る低湿地が広がっていた。
戦国時代、本佐倉城主千葉親胤が大叔父にあたる鹿島幹胤[1]に命じて築城を開始したが、親胤が暗殺されたために工事は中止され、千葉邦胤の代にも工事が試みられたものの今度も邦胤の暗殺によって完成することはなかった。だが、いつしか築城予定地には鹿島親幹にちなんで「鹿島台」と呼ばれるようになったという。
1610年(慶長15年)に、徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、ついに佐倉城が完成した。江戸時代は佐倉藩の藩庁が置かれた。城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、なおかつ初期は城主の入れ替わりが多く、江戸初期に城主であった堀田正信(後に改易されている)の弟・堀田正俊の孫・堀田正亮が11万石で再入封(後期堀田氏ともいう)してからは、安定した藩の経営を行っている(詳細は佐倉藩を参照のこと)。
城郭は石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にし、三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としている。
明治維新後に廃城令により建物のほとんどが撤去された。その後帝国陸軍歩兵第2連隊、後に歩兵第57連隊(通称・佐倉連隊)の駐屯地となった。
1962年(昭和37年)3月28日に市の史跡に指定され、現在跡地は佐倉城址公園として整備されている。城の北西端に国立歴史民俗博物館が建っており、東端には出土遺物や明治初期撮影の城門・櫓の古写真、城の模型が展示され、日本100名城スタンプが置かれた佐倉城址公園センター(佐倉城址公園管理センター)がある。
本丸、二の丸、三の丸やさらにその外縁部の椎木曲輪、天神曲輪などの多くの郭の形状が広大かつ良好に残る。また、巨大な馬出空堀や天守跡、銅櫓跡の土塁形状や水堀に守られた西出丸、南出丸の形状なども良好に残っている。佐倉連隊の弾薬庫跡、訓練用施設などの遺構も残存している。
今回はここまで。佐倉城(城址公園)の見学は後日にして京成佐倉駅に向かいます。

駅前の観光案内。
