市役所前の通りを東に向かいます。「中ノ門掘」跡。
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明治以降、川越城の多くの施設・建物が取り壊され、中ノ門掘跡は旧城内に残る唯一の堀跡となりました。
川越城は古賀公方足利成氏と北武蔵の覇権を巡る攻防に備える為に、1457(長禄元)年に、太田道真・道灌父子によって築城されました。
江戸時代になると、江戸の北の守りとして、川越城は重視されました。
1639(寛永16)年、藩主となった松平信綱は、城の大規模改修を行い、近世城郭としての体裁を整えました。
この際に、天下が治まって間もない時代に、戦いを想定されて中ノ門掘は整備されたと考えられています。
例えば、敵が西大手門(現:市役所)方面から攻め込んだ場合、この中ノ門掘に阻まれて、本丸(現:初雁球場)方面へ直進することが困難となります。また、堀の深さは7m、幅18m、西大手門側の勾配は30°本丸御殿側は60°になっており、堀が壁のように切り立って敵の侵入を防いでいたことが分かります。
整備された現在の中ノ門掘跡は、堀跡本体と見学広場の2つになります。
本体は、遺構保護の為に盛土して、構築当初の勾配を復元しました。
また、見学広場には、説明板とベンチを設け、入口には城を連想させる和風の冠木門を設置しております。
(この項、「
」HPより)
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人通りはぐっと少なくなります。
「郭町」交差点。
「川越市立博物館・美術館」。
「川越城本丸御殿」。
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嘉永元年(1848)、時の藩主松平斉典が造営したもので、武家風の落ち着いたつくりが印象的な江戸時代17万石を誇った川越城唯一の遺構が本丸御殿である。
川越城は扇谷上杉持朝(おうぎがやつうえすぎもちとも)が古河公方足利成氏(こがくぼうあしかがしげうじ)に対抗する為、長禄元年(1457)に家臣の太田道真・道灌父子に命じて築城されたもの。その後寛永16年(1639)、徳川幕府の重鎮として知られる川越藩主松平信綱が、川越城の大規模な拡張・整備で、台地上先端に本丸・天神郭・北に二の丸・西に八幡郭・三の丸他の曲輪・本丸西南隅に三層の富士見櫓と称する櫓を含む三つの櫓と十二の門よりなり、総坪数は堀と土塁を除いて四万六千坪にもなった。
現在に残る川越城本丸御殿は、明治維新後の解体により嘉永元年(1848)に時の藩主松平斉典により再建されたものの一部であり、現存しているのは玄関・大広間と移築復元された家老詰所のみ。玄関に入ると廊下がぐるりと部屋を取り囲んでおり、いくつかある部屋の装飾は質素で装飾などは最低限に止められているが、部屋を仕切る扉に描かれた杉戸絵や車寄せの構えは豪壮でさすがに御殿と呼ぶにふさわしい造りである。
大広間にいまだに残る松の絵の絵板戸や、現存する家老詰所には家老の人形などがあり、当時の家老たちのやりとりに思いを馳せるのも楽しい。
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(この項、「同上」HPより)
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「川越城」の全体像。
城郭は「市役所」から東に大きく広がっていた。
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「川越城 富士見櫓」跡。
川越城本丸御殿裏手に「富士見櫓跡」があります。
現在は櫓もなく、高台になっているだけですが、川越城があった頃は、城の中央には太鼓櫓、東北の隅に虎櫓、本城の北に菱櫓、南西に富士見櫓の四つの櫓があった、ということです。
高台にあった富士見櫓が天守閣の代わりで、敵からの攻撃や侵入を見張っていたのだそうです。
川越城本丸御殿の中に川越城富士見櫓模型が展示されていますので、ご覧頂くことができます。
富士見というからには、当時は富士山も見えていたのでしょうが、現在はマンションや高層ビルなどで見ることができません。
かなり薄暗く舗装もされていないので、頂上に行かれる方は足下に注意して下さい。
富士見櫓跡と同じ場所に川越城田曲輪門跡の石碑があり、山頂には御嶽神社が祀られています。
川越城の櫓の役割
■虎櫓(とらやぐら)城の出入り口を警護した建造物。
■菱櫓(ひしやぐら)食料を保管した建造物。
■富士見櫓(ふじみやぐら)天守閣の代わり。
■太鼓櫓(たいこやぐら)太鼓が置かれており時刻と非常時にはそれを乱打して城下に知らせた。
川越市のホームページによると教育委員会教育総務部文化財保護課では平成12年度から川越城富士見櫓復元整備事業に着手しているそうです。
現在は、昨年発見された富士見櫓のものと考えられる図面について検証・分析を行なっている。ということなので、もしかしたら近い将来、富士見櫓復元!なんてことにもなるかも。とても楽しみです。
検証中の富士見櫓ではないかとされる図面です。![]()
(この項、「
」HPより)
「川越城田曲輪門跡」碑。
立ち入り禁止のロープが張られていましたが、地元の方が上から降りてきて、「大丈夫ですよ。景色がいいですよ。」と。禁を犯して登ってみます。
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解説板。
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明治30年建立の「川越城趾」碑。
川越城跡
川越城は、長禄元年(1457)に太田道真、道灌父子によって築城され、上杉氏6代、北条氏4代の持城であったが、当時は後の本丸、二の丸を合わせた程度のものであった。
江戸時代になって、松平信綱が城地を拡大し、8郭・3櫓、12門をもつ徳川家の親藩、譜代の大名の居城として有名であった。
しかし、明治維新後、堀は埋められ、土塁は壊されて、現在ではこの富士見櫓の跡と本丸御殿の一部が残るのみとなった。
富士見櫓は築城当初に、本丸西南の隅櫓として建てられた3重の櫓で、城内第一の高所として天守閣の代わりをつとめた。
南を望む。
東を望む。
再び「一番街(蔵造り)」へ戻ります。

明治以降、川越城の多くの施設・建物が取り壊され、中ノ門掘跡は旧城内に残る唯一の堀跡となりました。
川越城は古賀公方足利成氏と北武蔵の覇権を巡る攻防に備える為に、1457(長禄元)年に、太田道真・道灌父子によって築城されました。
江戸時代になると、江戸の北の守りとして、川越城は重視されました。
1639(寛永16)年、藩主となった松平信綱は、城の大規模改修を行い、近世城郭としての体裁を整えました。
この際に、天下が治まって間もない時代に、戦いを想定されて中ノ門掘は整備されたと考えられています。
例えば、敵が西大手門(現:市役所)方面から攻め込んだ場合、この中ノ門掘に阻まれて、本丸(現:初雁球場)方面へ直進することが困難となります。また、堀の深さは7m、幅18m、西大手門側の勾配は30°本丸御殿側は60°になっており、堀が壁のように切り立って敵の侵入を防いでいたことが分かります。
整備された現在の中ノ門掘跡は、堀跡本体と見学広場の2つになります。
本体は、遺構保護の為に盛土して、構築当初の勾配を復元しました。
また、見学広場には、説明板とベンチを設け、入口には城を連想させる和風の冠木門を設置しております。
(この項、「




人通りはぐっと少なくなります。





嘉永元年(1848)、時の藩主松平斉典が造営したもので、武家風の落ち着いたつくりが印象的な江戸時代17万石を誇った川越城唯一の遺構が本丸御殿である。
川越城は扇谷上杉持朝(おうぎがやつうえすぎもちとも)が古河公方足利成氏(こがくぼうあしかがしげうじ)に対抗する為、長禄元年(1457)に家臣の太田道真・道灌父子に命じて築城されたもの。その後寛永16年(1639)、徳川幕府の重鎮として知られる川越藩主松平信綱が、川越城の大規模な拡張・整備で、台地上先端に本丸・天神郭・北に二の丸・西に八幡郭・三の丸他の曲輪・本丸西南隅に三層の富士見櫓と称する櫓を含む三つの櫓と十二の門よりなり、総坪数は堀と土塁を除いて四万六千坪にもなった。
現在に残る川越城本丸御殿は、明治維新後の解体により嘉永元年(1848)に時の藩主松平斉典により再建されたものの一部であり、現存しているのは玄関・大広間と移築復元された家老詰所のみ。玄関に入ると廊下がぐるりと部屋を取り囲んでおり、いくつかある部屋の装飾は質素で装飾などは最低限に止められているが、部屋を仕切る扉に描かれた杉戸絵や車寄せの構えは豪壮でさすがに御殿と呼ぶにふさわしい造りである。
大広間にいまだに残る松の絵の絵板戸や、現存する家老詰所には家老の人形などがあり、当時の家老たちのやりとりに思いを馳せるのも楽しい。

(この項、「同上」HPより)

「川越城」の全体像。



「川越城 富士見櫓」跡。
川越城本丸御殿裏手に「富士見櫓跡」があります。
現在は櫓もなく、高台になっているだけですが、川越城があった頃は、城の中央には太鼓櫓、東北の隅に虎櫓、本城の北に菱櫓、南西に富士見櫓の四つの櫓があった、ということです。
高台にあった富士見櫓が天守閣の代わりで、敵からの攻撃や侵入を見張っていたのだそうです。
川越城本丸御殿の中に川越城富士見櫓模型が展示されていますので、ご覧頂くことができます。
富士見というからには、当時は富士山も見えていたのでしょうが、現在はマンションや高層ビルなどで見ることができません。
かなり薄暗く舗装もされていないので、頂上に行かれる方は足下に注意して下さい。
富士見櫓跡と同じ場所に川越城田曲輪門跡の石碑があり、山頂には御嶽神社が祀られています。
川越城の櫓の役割
■虎櫓(とらやぐら)城の出入り口を警護した建造物。
■菱櫓(ひしやぐら)食料を保管した建造物。
■富士見櫓(ふじみやぐら)天守閣の代わり。
■太鼓櫓(たいこやぐら)太鼓が置かれており時刻と非常時にはそれを乱打して城下に知らせた。
川越市のホームページによると教育委員会教育総務部文化財保護課では平成12年度から川越城富士見櫓復元整備事業に着手しているそうです。
現在は、昨年発見された富士見櫓のものと考えられる図面について検証・分析を行なっている。ということなので、もしかしたら近い将来、富士見櫓復元!なんてことにもなるかも。とても楽しみです。
検証中の富士見櫓ではないかとされる図面です。

(この項、「


立ち入り禁止のロープが張られていましたが、地元の方が上から降りてきて、「大丈夫ですよ。景色がいいですよ。」と。禁を犯して登ってみます。

解説板。


明治30年建立の「川越城趾」碑。
川越城跡
川越城は、長禄元年(1457)に太田道真、道灌父子によって築城され、上杉氏6代、北条氏4代の持城であったが、当時は後の本丸、二の丸を合わせた程度のものであった。
江戸時代になって、松平信綱が城地を拡大し、8郭・3櫓、12門をもつ徳川家の親藩、譜代の大名の居城として有名であった。
しかし、明治維新後、堀は埋められ、土塁は壊されて、現在ではこの富士見櫓の跡と本丸御殿の一部が残るのみとなった。
富士見櫓は築城当初に、本丸西南の隅櫓として建てられた3重の櫓で、城内第一の高所として天守閣の代わりをつとめた。


再び「一番街(蔵造り)」へ戻ります。
