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Channel: おやじのつぶやき
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JR武蔵野線「新座」駅~東武東上線「川越」駅。その5。(「川越街道」第2日目。)

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                          「鐘つき通り」突き当たりの通りが「蔵町通り」(一番街)。
 大きな鬼瓦の屋根に黒しっくいの壁と分厚い観音開きの扉…。まるでタイムスリップしてしまったかの様な感覚になる蔵造りの趣豊かな建物が立ち並ぶ町並み-「一番街」。
 同じように見えて一軒一軒違う造りをしており、それぞれに個性を出しながら、堂々とした風格さえ漂わせている。その中で最も古く、1792年(寛政4)に建てられた大沢家住宅は国の重要文化財に指定されている。
 江戸時代、川越藩主松平信綱の町割りによって、通りに店が向かい合う形の家並みができあがったが、度重なる大火のため幕府がかわらぶきを奨励し、火事に強い建物として江戸の町で土蔵造りが流行した。これによって商業で江戸と結び付きが強かった川越でも、蔵造りの商家が建つようになった。
 現在の蔵造りの多くは、川越大火後に建てられたもので、今も30数棟が残る。大正12年、関東大震災やその後の戦災によって東京の蔵造りが姿を消したこともあり、江戸の景観を受け継ぐ重要な歴史的遺産として、「時の鐘」をはじめとするこの一番街周辺は、平成11年12月1日に重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
 また埼玉りそな銀行の古い洋館は大正7年に建築されたもの。近年では新しい建築物も、景観を壊さないように工夫され、新しいものと古いものとが調和した街づくりが行われている。当時のたばこ問屋を整備した「蔵造り資料館」では、蔵造りの構造をはじめ、敷地内の各蔵の配置なども見る事が出来る。
(この項、「」HPより)
旧道からそれて、「一番街」を進みます。


                 「小江戸横丁」



                 国の重要文化財「大沢家住宅」。

「川越元町郵便局」。この建物も通りにマッチしている。

「札の辻」交差点。ここを右折。

「一番街」(蔵造りの街並み)を振り返る。

「旧高澤町」。
 札の辻の西で、赤間川を境としている。古くは、竹沢九郎という人が開いた町といわれる。江戸時代には、そうめんを扱う店が軒を並べていた。文化15年(1818)に描かれた絵図には、石置屋根・板屋の二階造りの街並みが見られる。この大通りに接して菓子屋横丁が大正時代から盛んとなり、現在も一年を通じてにぎわいを見せている。


「川越市役所」脇の「太田道灌像」が見えてきます。ここが街道の終点。

(14:55)「川越城大手門」碑。

「太田道灌」像。

 川越市役所庁舎前(川越城大手門跡)に弓を持った凛々しい太田道灌像が立っています。
 太田道灌:永享4年(1432年)~文明18年7月26日(1486年8月25日)
 扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家宰。相模(神奈川県)の生まれ。
 康正2年(1456年)江戸築城を開始、岩槻・河越にも築城するなど武蔵・相模の有力者になります。
 文明8年(1467年)山内上杉氏の長尾景春が上杉氏に背くと、以後数年にわたり関東各地で景春方と戦いました。
 これにより、扇谷上杉家を山内上杉家に匹敵するまで成長させましたが、相模国糟屋(かすや)(現:神奈川県伊勢原市)の主家・上杉定正邸に誘い出されて殺害されました。これは、扇谷家の内部対立と扇谷家の台頭を恐れた山内家の策略だと言われています。

 長禄元年(西暦1457年)に太田氏が川越城を築き、更に江戸城を築いて川越の文化を江戸に移したので、川越は江戸の母と呼ばれた。明治以後も引き続き埼玉県第一の都市として大正11年他に魁けて市制を施行した。ここに市制50周年を迎えるに当り市庁舎を新築し、川越市開府の始祖とも仰ぐ太田道灌公の銅像を建て、古き歴史を偲びつつ新しき未来を開こうとするものである。(川越市長「銅像銘板」より) 

 と言うことで、東京にもゆかりの深い人物です。

 「太田道灌像」は川越の他に、JR日暮里駅前、東京国際フォーラム内でも見ることが出来ます(全てポーズが違います)。また東京墨田区の法恩寺内に「太田道灌の墓」があります。
(この項、「」HPより)

ここが「川越街道」歩きの終点。これから川越の街を散策していきます。平日、さらに暮れかかった頃なのに、まだまだけっこうな人通りです。

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