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Channel: おやじのつぶやき
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JR川越線「武蔵高萩」駅~東武東上線「東松山」駅。その4。(「日光千人同心街道」をゆく。第3日目。)

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                           街道は小学校の敷地内(右手)を進んでいたようです。

「薬師堂」。

 この先で旧道は消滅し、その先も、住宅公団(UR)の北坂戸団地の開発によって消滅しています。東武線の跨線橋を越えて線路の西側にあるの団地へ。

 跨線橋から南側を望むと、遠くに富士山が(↓)。

左下の小学校から分かれた旧道も○では不明。

北坂戸団地。

(11:16)団地のはずれ、県道の向こうに「昔を偲ぶよすがの場所」。

「上吉田の座標」。

「𦾔(旧)日光街道の碑」。
 上吉田の起原については明らかでないが、正代氏文書に拠れば承元4(1210)年3月29日の記録に沙弥行速が小代有平に与えた譲り状によしだむらの四至として東こさむのつつみ南あとかは西大とうのふるみち北たむきのさかひを挙げてすでに集落が存在した事を示し居る 降って天正10(1582)年武田勝頼の敗死によりその家臣が此処に帰農し江戸中期には49戸を数える集落となった 又この街道は戦国時代、小田原北条氏が鉢形厩橋忍城との連絡路として利用し、江戸初期日光東照宮造営15年後の慶安4(1651)年八王子千人同心がその火の番役を仰せつかり、勤務の為50人ずつ半年交代で日光へ往来した為日光街道と名付けられ、八王子から始まって坂戸宿を通り当集落付近を横切り松山吹上忍を経て例幣使街道に合流した
 この街道に沿うむらの入口に雨降山の石灯籠と馬頭観世音供養塔が建てられた頃植えた吉田の松はその樹形が美しいことで道往く人々に永く親しまれて来た
 慶応6(1866)米価暴騰に堪えかねて飯能暴動と云われる吾野谷等の山村民の蜂起による「打ちこわし」が日光街道を坂戸宿まで押し寄せたとの情報に急遽むら中の家々で炊き出しを行い、これを両問屋に持ち寄り酒と握り飯を振る舞ったため一揆は乱暴することなく過ぎたと言い伝えて居る 明治以降近衛第1第14師団の秋季演習の都度在郷軍人青年団員が湯茶の接待に当り、また行軍の靴音に子供達が胸躍らされたのもこの吉田の松付近であった
 昭和農業恐慌の救農事業として道路改修が行われ昭和40年代北坂戸団地が日本住宅公団の手によって造成され街道は全くその姿を失うに至った 今むらの人々相諮り協力して「吉田の松」周辺の荒廃を修復し且つ𦾔日光街道の碑を建て後世に伝えると共に昔を偲ぶよすがとする次第である 

さらに「石灯籠」、「馬頭観音」や形のいい松が植わっています。

            

来た道。ただし、この道が旧道どうかは定かではない。  

県道を渡って道なりに進みます。

「昔を偲ぶよすがの場所」(↓)を振り返る。  

田んぼの中の道に向かいます。

                           

この辺りの道も不明。


 さきほどの県道に突き当たります。旧道はそのまま「越辺川(おっぺがわ)」に向かったのか? 


                       

振り返って望む。

 土手で行き止まりになるので、県道で東武線の下をくぐり、「国道407号線」へ向かいます。(11:35)「越辺川」に架かる「高坂橋」を渡り、「高坂宿」へ入ります。


                         

                                 

西方の鉄橋(上流)を通る東武線。その付近に渡し場があったか?

 国道をしばらく進むと、左に広い分かれ道。ついその道へ進んでしまいましたが、この道は「高坂駅入口」交差点に通じる道で、旧道ではありません。途中で気づいて国道に戻ります(ロスタイム)。 


                    注:このルートではありません。
  
国道を進み、「東松山市高坂市民活動センター」を左に曲がります。 



 (11:50)「川越・児玉往還」と合流して、「九十九川」に架かる「坂下橋」を渡ると、「高坂宿」。


ゆるい上り坂を行きます。左手に祠。 

宿場らしい雰囲気はないが、りっぱなおうちが目立つ。

            

時に昔の雰囲気が残るおうちも。

ほぼ直線に進む街道。

先の方に旧家らしい建物が。

宿内でも一番立派なおうち。

                        

新しいおうちが目立ちます。

かつての家紋入りの鬼瓦が門前に。

門と古木を残してあります。

 (12:20)街道は新しい道で遮られます。そのまま進むと「都幾川」の広い「リバーサイドパーク」内に。
 

 「高坂駅」を中心に、周囲一帯が区画整理され、道路の拡幅整備が進み、大きく様変わりしている印象。そのためか、かつての街道の面影はほとんど見られなくなっています。
 宿内の途中にあった「六地蔵」「馬頭観音」以外、かつて路傍にあった石仏や道標などは見つけられませんでした。

        
         
                
1880年代のようす。                    2010年代のようす。

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