(9:42)「日光街道(千人同心街道)」と「川越街道(越生道)」との交差点(脚折才道木)角にある「道標」。
↓のところに「道標」。
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才道木日光街道道しるべ
この道しるべは、江戸時代の八王子と日光、川越と越生を結ぶ重要な街道が交わった場所にあります。形は角形の石柱で、大きさは高さ73センチ、幅23.5センチ、厚さ15センチ、刻まれた干支から文政4年(1821)のものであることがわかります。
道しるべの各面には「北 日光 さかと 道」、「東 江戸 川ごへ 道」「南 八王子 たかはぎ 道」「西 慈光 をこせ 道」と刻まれています。南北は、この道が八王子から高萩(日高市)、坂戸を経て日光へ通じる日光街道であったことを表しています。・・・また、東西は川越街道(越生道とも呼ばれた)であったことを示し、東は川越を経て江戸へ通じ、西は、越生を経て古刹慈光寺(ときがわ町)へ通じることを表しています。
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歩道橋には「日光街道」という名称が。![]()
歩道橋の向こうにはどなたかのりっぱな「顕彰碑」。![]()
「坂戸宿」へ向かいます。![]()
一番下の道が「日光街道」。
(10:11)「関越道」をくぐる。![]()
「日光街道」という標識。![]()
東武越生線、続いて東武東上線の踏切を渡ります。![]()
東武越生線。
東武東上線。
「坂戸宿」の現在のようす。![]()
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(10:30)「坂戸神社」からしばらく進んだ「日の出町」交差点の角が「旅籠角屋跡」。交差点手前の祠に「延命地蔵」。
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振り返って望む。![]()
特に宿場らしい建物などは見当たらない、近代的な家並み。![]()
と、それらしい見世蔵造りのおうち。![]()
その先に「解説板」。![]()
歴史の道・日光脇街道
近世における江戸より日光への道は、「日光街道」と将軍社参の道である「日光御成道」がよく知られていますが、この街道以外にも、裏街道、脇街道と呼ばれる道は、各地に存在しています。
坂戸を通る道は、「日光脇街道」と呼ばれ、日光東照宮の火の番(警護)をつとめた「八王子千人同心」が勤務地への往来に使った道になります。
明六つ(午前6時頃)に八王子を出発した千人同心の一行は暮六つ(午後6時頃)に「坂戸宿」に到着し、最初の宿泊地としますが、日光までの21次を3泊4日で歩き通しました。当時の坂戸宿は、坂戸神社から坂戸小学校に向かう通りで、道幅2間半(約4.5㍍)、民家180余軒が軒をつらねていたと言われ、今は宿場の面影も薄れてしまいましたが、北東へ進み坂戸小学校に突き当たった所には、往時のままの姿で道しるべ(宝暦10年)が残っています。
日光への道はここで二つに分かれ、左が脇往還になりますが、住宅開発や道路網の整備が進み、かつての道筋は、大きく変化してしまいました。
↓が「日光脇街道」の道筋。
「坂戸市文化会館」前にも「坂戸宿」の解説板。![]()
坂戸宿
「坂戸の宿はさかさ宿」と伝わるように、坂戸小学校前の交差点付近(下)から、坂戸神社方向(上)へと発展してきました。元町(4丁目)、仲町(3丁目)本町(2丁目)の順に整えられ、1丁目(本町)に宿並みが整備されたのは、江戸時代になってからです。
坂戸宿の開設は、天正12年(1584)に河越城代大道寺駿河守政繁が主君・小田原北条氏の命を受け、元坂戸(北坂戸)から、農家39軒を移して、新しく集落を整備したのが始まりといわれています。
坂戸宿を通過する街道は、八王子・高萩から坂戸を経て、高坂・松山・吹上・忍・館林に通じる当時の幹線道路で、江戸時代になると徳川幕府によって、「日光脇街道」として整備され、関東郡代配下の「八王子千人同心」が日光火の番(警備)のために往来した道で、八王子を出発して最初の宿泊地でした。しかし、当時は旅館も無く、隊員達は、周辺の農家に分宿したと伝えられ、享保8年(1723)になって、現在の日の出町交差点角に旅籠「角屋」が開業すると、同心隊の役付け隊員のみが角屋に泊まり、平隊員50人近くは、依然周辺の農家に分宿したといいます。
江戸時代の坂戸宿は半農半商の宿場で、この通りにおいて、3・8日に開かれた坂戸の市は、他の地域の市日とずれていたため、広い範囲から生産・生活物資が持ち込まれて賑わいました。後に店売りが始まり、市日以外の商売が定着して、宿通りは発展しました。
坂戸小学校前の道しるべ(↓)。
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道しるべ
道しるべは、街道の三叉路や十字路の角に建てられ、他国から来た旅人が道に迷わないようしてあります。ここに残る道しるべは、坂戸宿4丁目の皆さんが旅人の安全を願って建てたもので、この道路が江戸時代の承応元年(1652)に日光脇街道に定められ、往来する旅人が増えたためと考えられます。
道しるべは、坂戸市内に現存する最古のもので、角柱四面に「右 よしミみち、左 日光道、松山道、願主講中、坂戸町中四丁目、宝暦十庚辰六月吉日」と刻まれています。
「右よしミみち」とあるのは、右の道をたどると坂東33観音のうち11番目の札所「安楽寺吉見観音」があり、札所巡りの盛んであった当時としては、観音霊場めぐりに往来する人たちが多く、坂戸宿を出外れた三叉路で、右か左か思案する姿が見られたためと想像できます。
また、「左日光道」とあるのは、当時、八王子同心が日光東照宮の火の番(警備)にあたるため、八王子から日光への往来に使った道筋にあたったためで、今日まで多くの人々の往来を見守ってきました。
注:「宝暦10年」=西暦1760年。
振り返って宿内を望む。
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1880年代のようす。○が道しるべのある三叉路。
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2010年代のようす。西方は東武東上線。



才道木日光街道道しるべ
この道しるべは、江戸時代の八王子と日光、川越と越生を結ぶ重要な街道が交わった場所にあります。形は角形の石柱で、大きさは高さ73センチ、幅23.5センチ、厚さ15センチ、刻まれた干支から文政4年(1821)のものであることがわかります。
道しるべの各面には「北 日光 さかと 道」、「東 江戸 川ごへ 道」「南 八王子 たかはぎ 道」「西 慈光 をこせ 道」と刻まれています。南北は、この道が八王子から高萩(日高市)、坂戸を経て日光へ通じる日光街道であったことを表しています。・・・また、東西は川越街道(越生道とも呼ばれた)であったことを示し、東は川越を経て江戸へ通じ、西は、越生を経て古刹慈光寺(ときがわ町)へ通じることを表しています。


歩道橋には「日光街道」という名称が。

歩道橋の向こうにはどなたかのりっぱな「顕彰碑」。

「坂戸宿」へ向かいます。


(10:11)「関越道」をくぐる。

「日光街道」という標識。

東武越生線、続いて東武東上線の踏切を渡ります。



「坂戸宿」の現在のようす。


(10:30)「坂戸神社」からしばらく進んだ「日の出町」交差点の角が「旅籠角屋跡」。交差点手前の祠に「延命地蔵」。


振り返って望む。

特に宿場らしい建物などは見当たらない、近代的な家並み。

と、それらしい見世蔵造りのおうち。

その先に「解説板」。

歴史の道・日光脇街道
近世における江戸より日光への道は、「日光街道」と将軍社参の道である「日光御成道」がよく知られていますが、この街道以外にも、裏街道、脇街道と呼ばれる道は、各地に存在しています。
坂戸を通る道は、「日光脇街道」と呼ばれ、日光東照宮の火の番(警護)をつとめた「八王子千人同心」が勤務地への往来に使った道になります。
明六つ(午前6時頃)に八王子を出発した千人同心の一行は暮六つ(午後6時頃)に「坂戸宿」に到着し、最初の宿泊地としますが、日光までの21次を3泊4日で歩き通しました。当時の坂戸宿は、坂戸神社から坂戸小学校に向かう通りで、道幅2間半(約4.5㍍)、民家180余軒が軒をつらねていたと言われ、今は宿場の面影も薄れてしまいましたが、北東へ進み坂戸小学校に突き当たった所には、往時のままの姿で道しるべ(宝暦10年)が残っています。
日光への道はここで二つに分かれ、左が脇往還になりますが、住宅開発や道路網の整備が進み、かつての道筋は、大きく変化してしまいました。

「坂戸市文化会館」前にも「坂戸宿」の解説板。

坂戸宿
「坂戸の宿はさかさ宿」と伝わるように、坂戸小学校前の交差点付近(下)から、坂戸神社方向(上)へと発展してきました。元町(4丁目)、仲町(3丁目)本町(2丁目)の順に整えられ、1丁目(本町)に宿並みが整備されたのは、江戸時代になってからです。
坂戸宿の開設は、天正12年(1584)に河越城代大道寺駿河守政繁が主君・小田原北条氏の命を受け、元坂戸(北坂戸)から、農家39軒を移して、新しく集落を整備したのが始まりといわれています。
坂戸宿を通過する街道は、八王子・高萩から坂戸を経て、高坂・松山・吹上・忍・館林に通じる当時の幹線道路で、江戸時代になると徳川幕府によって、「日光脇街道」として整備され、関東郡代配下の「八王子千人同心」が日光火の番(警備)のために往来した道で、八王子を出発して最初の宿泊地でした。しかし、当時は旅館も無く、隊員達は、周辺の農家に分宿したと伝えられ、享保8年(1723)になって、現在の日の出町交差点角に旅籠「角屋」が開業すると、同心隊の役付け隊員のみが角屋に泊まり、平隊員50人近くは、依然周辺の農家に分宿したといいます。
江戸時代の坂戸宿は半農半商の宿場で、この通りにおいて、3・8日に開かれた坂戸の市は、他の地域の市日とずれていたため、広い範囲から生産・生活物資が持ち込まれて賑わいました。後に店売りが始まり、市日以外の商売が定着して、宿通りは発展しました。



道しるべ
道しるべは、街道の三叉路や十字路の角に建てられ、他国から来た旅人が道に迷わないようしてあります。ここに残る道しるべは、坂戸宿4丁目の皆さんが旅人の安全を願って建てたもので、この道路が江戸時代の承応元年(1652)に日光脇街道に定められ、往来する旅人が増えたためと考えられます。
道しるべは、坂戸市内に現存する最古のもので、角柱四面に「右 よしミみち、左 日光道、松山道、願主講中、坂戸町中四丁目、宝暦十庚辰六月吉日」と刻まれています。
「右よしミみち」とあるのは、右の道をたどると坂東33観音のうち11番目の札所「安楽寺吉見観音」があり、札所巡りの盛んであった当時としては、観音霊場めぐりに往来する人たちが多く、坂戸宿を出外れた三叉路で、右か左か思案する姿が見られたためと想像できます。
また、「左日光道」とあるのは、当時、八王子同心が日光東照宮の火の番(警備)にあたるため、八王子から日光への往来に使った道筋にあたったためで、今日まで多くの人々の往来を見守ってきました。
注:「宝暦10年」=西暦1760年。





1880年代のようす。○が道しるべのある三叉路。




2010年代のようす。西方は東武東上線。