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「震災復興52小公園」の現状。まとめその2。中央区編。

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 公園名   開園年  隣接の小学校

8常磐公園 昭6(1931)年 常磐小学校(2013,12,12掲載)
線路際の道と学校の建物にはさまれた小さな公園。

東側の校舎(震災復興校舎)。この校舎は東京都選定歴史的建造物に指定されている。

9久松公園 昭5(1930)年 久松小学校(2013,12,15)
公園東側。プールが隣り合っていて、細い通路。奥に運動場・児童公園が広がる。学校開校時は午後4時までは学校の校庭として使用、その後、児童公園として開放される仕組み。

校舎全景。

10十思公園 昭5(1930)年 十思小学校(2013,12,13)
緑も多く、よく整備されている。「時の鐘」や記念碑などは開園当時のまま。伝馬町牢屋敷跡にある。

十思小学校→十思スクエア。旧校舎をそのまま使用している。

11箱崎公園 昭4(1929)年 箱崎小学校(2013,12,16)
平日の昼休みなどにはサラリーマンなどで賑わうような印象。

「箱崎小」→「日本橋高」→「水天宮ピット」となったが、震災復興校舎当時のまま。

12蛎殻町公園 昭6(1931)年 有馬小学校(2013,12,17)
現在の公園正面。門構えと築地塀が特色。
 設立当初とは学校と公園の位置は異なるが、一体型というコンセプトは引き継がれている。利用に当たっては有馬小・幼稚園の児童・幼児等が使用する時間帯と一般が利用できる時間帯が区分されている。

ベランダには「祝 開校140周年 開園68周年」の文字。

13鉄砲洲公園 昭5(1930)年 鉄砲洲小学校(2013,12,22)
新校舎建設と合わせて整備されたようす。
 
鉄砲洲小学校→中央小学校(旧京華小学校と旧鉄砲洲小学校が統合されて誕生した)。外壁などのつくりは、かなり斬新なデザイン。

14京橋公園 昭5(1930)年 京橋小学校(2014,1,5)
公園の東側から。復興小公園につきものだったコンクリート製の二連式すべり台が、2011年8月、老朽化等のために撤去され、モニュメントとして写真とともに掲示されている。

 震災復興校舎だった「京橋小学校」は、統廃合ですでになく、「京橋プラザ」という大きな複合高層住宅になっている。建物の1階コンコースに旧京橋小のモニュメントがあり、かつてを偲ばせる。

15築地公園 昭5(1930)年 築地小学校(現存せず)※ 校地拡張のため、消滅。
 「築地小」は、「京橋小」と統合して、現在、「京橋築地小学校」。
(「京橋築地小」HPより)

1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。矢印が旧築地小。公園が隣接されている。右下が「築地本願寺」。

16越前堀公園 昭5(1930)年 明正小学校(2013,12,31)
四阿風。史跡・記念碑などや緑も濃く大人もゆっくりと楽しめそう。

「明正小」は旧校舎(震災復興校舎)を取り壊し、新築中。全面シートに覆われている。公園側から。

17月島第一公園 昭2(1927)年 月島小学校(2014,1,9)
広い中央広場。トイレ棟がユニーク。

 小学校はすぐ近くの工場跡地に移転。 
小学校の跡地は、「月島区民センター」「月島図書館」などの施設が入った建物になっている。

18月島第二公園 大15(1926)年 月島第二小学校(2014,1,8)
「月島第2小」側からの公園。広いスペースの公園となっていて、かつての「震災復興公園」としての面影はないが、住民の憩いの場所として賑わっている。北側には超高層マンション。

大きな校舎。それでも、児童数の増加のため増改築工事が始まる。

 ※ 2013年12月29日掲載の『第一大学区第一中学区第一番小学 阪本学校』としての歴史を持つ「阪本小」、隣接する「坂本町公園」。小学校校舎は震災復興校舎だが、ここでいう「震災復興52小公園」には含まれていない。
公園側からの校舎。
校舎側から公園の北方向を望む。

 なお、「阪本小」のように「震災復興校舎」が現役校舎として使用されているものもある。また、他の施設として転用されているケースも。それはまた別の機会に。

「震災復興52小公園」の現状。まとめその3。港区、文京区編。

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《港区》
 公園名  開園年   隣接の小学校
19桜田公園 昭6(1931)年 桜田小学校(2014,2,8掲載)
小学校時代のグランドがそのまま残っている。

「桜田小学校」→「港区生涯学習センター」。改修工事のため、全面シートに覆われている。
「同」工事前のようす。(「港区」公式HPより)

20南桜公園 昭4(1929)年 南桜小学校(2014,2,10)
 再開発で隣接していた南桜小の震災復興校舎を取り壊し、大きな公園に変貌。
都会のど真ん中にこれだけの開放的な空間。
 公園内には、「南桜小学校」当時のものがいくつか残されている。
二宮尊徳像。他にも記念碑など。

《文京区》

21新花公園 大15(1926)年 湯島小学校(2014,2,15)


道路を挟んで南側に「湯島小学校」。
 震災復興52小公園建設当時は、「新花公園」は、この位置ではなかった。学校の東側に接していた。その公園を校地として広げ、代替地として現在の位置に公園を移した。

22元町公園 昭5(1930)年 元町小学校(2013,10,8)
 昭和57年(1982年)に伊藤邦衛によって原型に忠実な改修が行われ、当時の設計思想を現在に伝える唯一の小公園となっている。
 復元されたモダンなデザインの擁壁や壁泉、太い円柱が印象的なパーゴラ(つる棚)、左右対称の2連式滑り台などは、いずれも小公園の特徴的な様式である。
壁泉。
パーゴラ(つる棚)。
二連式滑り台。

元町小正面。校章が外された跡が痛々しい。現在は、「順天堂病後児ルームみつばち」など、一部使用されている。

「震災復興52小公園」の現状。まとめその4。台東区編。

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《台東区》

公園名   開園年   隣接の小学校
23東盛公園 昭3(1928)年 東盛小学校(2013,10,21掲載)

 西に接する小学校の校名は、「東泉」(昭和21年竜泉国民学校と合併し、東盛の「東」と竜泉の「泉」の一字ずつをとり「東泉」とした)となったが、公園名は「東盛公園」。よく整備され、開放的で広い公園。

校庭との境は、開閉が出来るフェンス。学校+公園という初期の目的は残されているようです。

24山伏公園 昭6(1931)年 山伏小学校(2013,10,23)

 北側の区立駒形中学校(旧山伏小学校の敷地)と隣接し、公園の一部は、駒形中のグランドになり、当初の時よりも小さくなっている。

公園から望む駒形中学校。この中学校は運動系が盛んのようで、大きなグランドを所有している。

25入谷公園 昭6(1931)年 台東小学校(2014,2,14)
 全面的な改修工事が行われたようで、かつての面影はなく、明るく開放的な公園。公園名も「金杉公園」となっている。
右手が球技場、左手が遊具のある公園。奥に見えるのが、「柏葉中学校」。

 もともとあった「入谷小学校」の校舎はなくなり、「柏葉中学校」のグランドとなっている。


26西町公園 昭5(1930)年 西町小学校(2013,10,25)

 「西町小学校」は、1998年統合で廃校になり、跡地には、「永寿総合病院」が建っている。
上野や御徒町からも近く、行き交う人々が多い。右(北側)が病院の建物。

27御徒町公園 昭6(1931)年 御徒町小学校(201,2,11)

 ここは、かつての復興公園の面影を残している公園。パーゴラ(つる棚)などもあり。

旧「御徒町小学校」の跡地につくられた「御徒町台東中学校」。

28石浜公園 昭5(1930)年 石浜小学校(2013,10,22)
中央に運動広場。東側に遊具施設。

「石浜小学校」
 明治40年創立。校舎は長らく震災復興校舎(昭和2年竣工)を使用していたが、昭和50年に新校舎に建て直され、現在に至る(平成元年〜3年にかけて改修あり)。
 ここに校庭との出入口がありました。公園を利用することもあるようです。

29千束公園 昭5(1930)年 千束小学校(2013,10,23)
広い運動広場。

公園側からフェンス越しに校庭を望む。
 千束小学校の児童数は、現在、200名ほど。1学年1学級ということになる? 小規模校故の良さも悩みもありそう。

30小島公園 昭6(1931)年 小島小学校(2013,10,26)
「旧小島小学校」の南側に隣接する。
 旧校舎はそのまま「Taito Designers Village」(併設として「小島アートプラザ」)として利用されている。
半円柱状(丸い搭状)の外観。運動場に面した南西の角。

31富士公園 昭6(1931)年 富士小学校(2013,10,22)
公園の北側に浅草警察署の大きな建物がある。

道路を挟んだ東に「富士小学校」。正面が道路側にあり、公園とは独立した存在となっている。

32田原公園 昭6(1931)年 田原小学校(2013,11,2)

 大半を校庭にとられて、実に小さな公園となっている(戦前からこんじまりとした公園になってはいたが)。校庭との間に大きい出入口あり。

なかなかしゃれた校舎。

33金竜公園 昭6(1931)年 金竜小学校(2013,10,23)

「図書館」の南側に公園が広がる。

 「金竜小学校」は 1986(昭和61)年、100mほど北の現在地に移転。その跡地には、 2001(平成13)年、「台東区生涯学習センター(「区立中央図書館」)」が建設された。


34松葉公園 昭6(1931)年 松葉小学校(2013,10,25)
中心となる広場。
 日本では1928(昭和3)年に始まったラジオ体操。戦中戦後には休止されていたのが、戦後、1951(昭和26)年に再開したのが、ここ松葉公園だったそうだ。

道路を挟んで西側に「松葉小学校」。公園とは切り離されている。校舎は、ユニークな建物と色彩。

35精華公園 昭5(1930)年 精華小学校(2013,11,2)
公園中央広場。広いスペースの公園。校名の「精華」はなくなったが、公園の名として残っている。

「蔵前小学校」校舎。
 平成15年4月、精華小学校、小島小学校、済美小学校の統合により、「精華小学校」の跡地に「台東区立蔵前小学校」として開校。

36柳北公園 大13(1924)年 柳北小学校(2013,10,28)
広場。南側には「柳北小学校」、北側に隣接する校舎は、「都立忍岡高校」。

「柳北小学校」の廃校後、一時期、フランス人子女が通う〔東京リセ・フランコ・ジャポネ東京校〕の中等科・高等科の校舎として使用していたが、移転し、今年の4月から、一階部分には「柳北保育室」が開設されている。
南側からの眺め。震災復興校舎としての特徴がうかがわれる。
 コの字型の校舎だった。正門が公園に面していて、中庭が校庭。現在は、西側の校舎は取り壊され、「柳北スポーツプラザ」という建物になっている。

37玉姫公園 昭5(1930)年 正徳小学校(2013,10,21)
 東京大空襲で壊滅した地域。戦後、小学校は、廃校になってしまい、敷地は、「蓬莱中学校」になった。

大きな運動場があるが、厳重な囲い。北側の公園の一角では、将棋などを楽しんでいる人たち。
「蓬莱中」跡地には、「老人ホーム 浅草ほうらい」が建つ。

 なお、台東区内には震災復興校舎がいくつかあり、まだ現役校舎として活躍しているものも。その訪問記は別の機会に。

「震災復興52小公園」の現状。まとめその5。墨田区編。

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《墨田区》

38中和公園 昭4(1929)年 中和小学校(2013,10,15掲載)
西側から望む。北側には「中和小学校」。

公園との仕切りは、緑の大きな網。開閉が出来るようになっている。すでに放課後。指導員の元で数人の児童が遊んでいた。墨田区内で現存する小学校の中では最も古い歴史をもつ小学校。

39業平公園 昭5(1930)年 業平小学校(2013,10,9)
西側を望む。かつての面影はなさそう。樹木を一列に配置した、中央の大きな広場の存在が当時のコンセプトの一端を残している。道路をはさんだ向かい側が「業平小学校」。
道路をはさんでいるため、学校+公園というかたちではなく、それぞれ独立したものになっている。

40横川公園 昭6(1931)年 横川小学校(2013,10,14)

 横川小学校の南に接した東西に細長い公園。当初よりも校地を拡張したために細長く小さくなったのか?
公園側の校門。登下校時のみ開放する感じ。西側に遊具。東は広場。

41江東公園(現・両国公園) 昭4(1929)年 江東小学校(現・両国小学校)(2013,10,14)
パーゴラ(藤棚)。支柱に当時の雰囲気を残している。
公園入口付近から藤棚方向を望む。
「両国小学校(旧名「江東小学校」)(西側)と道路をはさんでいる。東側が公園。
 公園内のところどころに、「両国小」という立て札があって、植物の世話などを行っているようすあり。建設当時の学校・公園という考え方を引き継いでいる印象。

42茅場公園 昭6(1931)年 現存せず (JR錦糸町駅南口、現・丸井の南にあった。江東橋3−8。)
(2013,10,16)
 戦後、区画整理で消滅(代替公園「江東橋公園」)。今や賑やかな飲食街の一角。「丸井」、かつて大きな都電の車庫だったところの裏手。代替の「江東橋公園」は少し西に行った「都立両国高校」の近くに位置。
 学校は廃校になったが、しばらく校舎は残っていた。
パーキングタワーと隣のマンションが校舎跡地?
左の雑居ビル付近が公園跡地?
江東橋公園。

43若宮公園 昭6(1931)年 外手小学校(2013,10,14)
広場から南側を望む。正面が藤棚・テラス。
 ただ、車が通る道路をはさんでいるせいか、小学校との連関は薄いようだ。
 道路をはさんで西側には、「外手小学校」。この学校は、地元の方がつくった私立学校がはじまりとか。この地域は、石原寄りの隅田川に面する地域で、かつては「大川」(隅田川)の土手の外にあるために「外土手村」と言った。その後、「外手町」となった、とか。歴史・伝統のある学校。


44菊川公園 昭5(1930)年 菊川小学校(2013,10,15)
菊川小学校との仕切りは開かれ、ハードルが公園内まで並べられて体育の授業中。
木々もほどよく配置されている。校庭にもなる中央、東側の運動広場と遊戯施設がある西側とを明確に区分したかたち。

45永倉公園 昭5(1930)年  現存せず(「日進小学校」(現竪川中学校)の南側にあった。校地拡張のため消失。亀沢4−11。)(2013,10,16)
竪川中と「三つ目通り」との角地にある公衆トイレには、「永倉」という表示が。旧本所区永倉町。
ガード下の細長い地域に学校と接して公園があった。
 「日進小学校」は、復興公園の北側に併設された小学校。元・三笠小学校。1916年4月、日進尋常小学校に改称、1928年6月、高等科を併置、1945年、空襲で校舎全焼。
「日進公園」。右の建物は、地域のコミュニティーセンターとして存在する「家庭センター」。
 1971(昭和4)6年に竪川中の校地拡張のため消失した「永倉公園」の代替として公園をつくり、「日進」という名を付した。

「震災復興52小公園」の現状。まとめその6。江東区編。

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《江東区》

46元加賀公園 昭2(1927)年 元加賀小学校(2013,10,9掲載)
 開園当時の施設が残っている。
壁泉付露床。
藤棚から西の広場を望む(樹木は植えていないので、近所の幼稚園、子供会などの運動会・催し物には最適)。中央が「壁泉付き露床」。

校庭との間にはフェンスと植え込みがあり、それぞれの独立性が高いものになっている。学校の校庭との通用口が二カ所。それぞれ立派な門扉で、簡単に出入りできるようにはつくられていない。

47八名川公園 昭5(1930)年 八名川小学校(2013,12,2)
藤棚をあしらったテラス。
公園側の通用門。
小学校のフェンス脇には花壇があって、目を楽しませる工夫がされている。

48森下公園 昭5(1930)年 深川小学校(2013,12,3)
 公園の名称と小学校名が異なる組み合わせ。
通りをはさんで存在する。右が「深川小」。
広々とした中央広場。
藤棚のあるテラス。

49臨海公園 昭5(1930)年 臨海小学校(2013,12,4)
臨海小の校庭拡張の影響か、内側にカーブしたかたちになっている。
校庭とのフェンス。

50東陽公園 昭2(1927)年 東陽小学校(2013,12,6)
永代橋通りと高層ビルに囲まれた公園。
右奥が「東陽小学校」。
学校との関連は薄い。

51扇橋公園 昭5(1930)年 扇橋小学校(2013,12,6)
カーブした藤棚。
藤棚から小学校方向を望む。
学校は、全面改築中。

52川南公園 昭6(1931)年 川南小学校(2013,10,10)
 一体的に使われている公園。
校庭と公園の出入口。
 戦後、復興した校舎の位置は、戦前とほとんど変わりませんが、公園は、学校側にプールができ、手狭な印象。
 当時のままの二連式滑り台。
正面に子どもを描いたレリーフ。
公園の西側から東を望む。


(「震災復興52小公園」の原資料は、「kantoquake.kanagawa-u.ac.jp/pmapf/index/park.html」さんより引用。番号は便宜的に付した。)

 なお、( )内は、掲載した日付です。公園、小学校の現状や歴史、周辺地域の話題など盛りだくさんなつもり。詳しく知りたい方はぜひ訪問して下さい。

 「震災復興小学校」として鉄筋コンクリートづくりの校舎があったが、戦災で大きな被害を受けたり、その後の統廃合によって取り壊されてしまい、現在、現役校舎、あるいは他の用途として使われているものも含め、数少なくなってしまっています。
 「震災復興52小公園」の中で紹介した以外の小学校(隣接した「小公園」がないか、あるいは小規模のもの)で、当時のままの校舎が残っている小学校(他の用途に転用したものも含む)を訪れ、掲載しています。まだ行きそびれている校舎も訪ねて、別の機会にまとめる予定です。

及び腰が気になる「朝日」。それにしても「真意は違う」「誤解だ」「個人的見解だ」・・・

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首相側近、次から次へと「問題発言」 火消しに躍起(朝日新聞) - goo ニュース

 第一次安倍内閣。「お友達」内閣の構成員が次々と問題発言、不祥事を起こして叩かれ、ご本人も体調悪化で、結局、途中で放りだしてTHE END。
 今回はそれに懲りてか、閣僚の人選には配慮したようだったが、やはり「習い、性となる」で、側近にはお友達をずらり。その連中が危うい発言をものするようになった。これは、アベの思いをおもんぱかっての発言ではないかとすら言われるはめに。「驕れる者久しからず」で怪しい雲行き。

 ただ、この記事、全文を読むと、記者(朝日新聞)の取り上げるスタンスがぶれているような気が。それは百田なる人物の取り上げ方。

 「goo」ではこの部分しか掲載されていないのが、ミソ。実は、百田発言を都知事選応援演説の際の対立候補への「人間のくずだ」のみを取り上げて、弁解を載せている。
 しかし、彼の発言をアメリカなどが厳しく批判するのは、東京裁判に関わる発言の数々、のはず。それには一切触れていない。他の人間の発言は、一歩踏み込んで記事にしている、にもかかわらず。

 そういえば「朝日」。今、大ヒット中の百田尚樹原作の映画「永遠の0」の製作委員会に名を連ねているせいなのか、映画の感動、すばらしさを掲載したり、このかんの「問題」発言に関するご本人のインタビューを特集したりしている。そして、そこでも、作家としての発言だったという彼の立場を擁護する内容になっていた。

注:
「永遠の0」製作委員会
 東宝 アミューズ アミューズソフトエンタテインメント 電通 ROBOT 白組 阿部秀司事務所 ジェイ・ストーム 太田出版 講談社 双葉社 朝日新聞 日本経済新聞社 KDDI TOKYO FM 日本出版販売 GyaO! 中日新聞社 西日本新聞社
 
 大マスコミ、お得意のダブルスタンス(ダブルスタンダード)が見事に発揮された記事ではあった。
 
 それにしても、叩かれるたびに、「真意は違う」「あくまでも個人的見解」「誤解を招いた」「撤回したからいいだろう」「もうふれないでくれ」・・・、言い訳・弁解・ごまかし・逃げ・居直り・擁護・・・。
 政界、財界、それなりに国内外への影響力のある人間の「失言」発言。・・・言葉の軽さがここまで至っているとは! 

再び「仲木戸」訪問。廃線踏切跡。米軍施設。高島線。横浜その3。

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 京急「仲木戸」駅下車。神奈川宿。再び訪問。
「瑞穂橋」沿いに残る貨物線の橋梁。
 かつての瑞穂埠頭への貨物支線を転用した在日米軍基地「横浜ノース・ドック」(「在日米軍港湾輸送施設」)専用線が高島線・信号所から分岐し、燃料輸送に使用されていた。すでに役割を終えたが、そのまま残っている。
橋梁から西北側を望む。線路は右にカーブして「高島線」と合流していた。
「高島貨物線」との合流近くの踏切跡から瑞穂橋方向を望む。
廃線してもそのまま残っている踏切のレール上に車が駐車している。
踏切跡への道の入口。「駐停車禁止」の看板には、違反「者」(「車」ではない!)は米軍レッカーで撤去します、とある。もちろん、現在はそうではなさそうだが。この地域が米軍の支配下であった証。と思ったが、踏切跡を渡っていくと、こんな看板が目に入った。
「専用地に付き米軍と日本製粉に御用の方以外の立入り御遠慮下さい」。
 この奥の一角には、現在も米軍関係施設がある。地図には、「FLEETMAILCENTERYOKOHAMA」とある。そこでは、極東からペルシャ湾に至る米海軍関係の郵便業務を行っている、とのこと(「横浜ノース・ドック」の関連施設)。米軍施設が点在している地域。
奥が、「日本製粉」横浜工場。
雑草に埋もれた線路。高島線との合流付近。
鶴見駅方向に向かう貨物列車(「石油タンク」が長く連なっている)。

 高島線は、東海道本線の貨物支線のうち、神奈川県横浜市鶴見区の鶴見駅から同市神奈川区の東高島駅を経由し同市中区の桜木町駅を結ぶ貨物専用線、およびその支線の通称。
 2012年初頭時点で現存する区間は、桜木町まで。鶴見で東海道本線や貨物線の東海道貨物線、武蔵野線に接続し、新鶴見信号場や東京貨物ターミナル駅方面へと連絡している。また、桜木町では根岸線に接続している。「JR貨物」の貨物列車が運転され、鶴見以東と根岸線を結ぶ中継ルートの役割を果たしている。
 路線網がこのように縮小される前は、横浜港一帯に臨港線と貨物駅を張り巡らせており、横浜市内に発着する貨物および船舶と連絡する貨物の取り扱いを行っていた。
 かつては「新興」発着の化学薬品輸送、「東高島」発着の在日米軍基地「横浜ノース・ドック」専用線発着のジェット燃料輸送、「日本製粉専用線」発着の小麦輸送、「横浜市場」発着の鮮魚輸送などがあった。
 東神奈川駅と高島駅を結ぶ貨物支線もかつて存在し、廃線跡や橋梁は現在も残っている。

 高島線や東海道貨物支線を旅客線にしようという地元自治体の運動があり、現在、京浜臨海部再編整備協議会が東海道貨物支線の貨客併用化への取り組みを行っている。
 さらに、路線と関係する神奈川県や東京都の地元自治体により結成された東海道貨物支線貨客併用化整備検討協議会も東海道貨物支線(高島線を含む)の貨客併用化を路線所有者のJR東日本に対して要望しており、2012年には同協議会が貨客併用化の検討ルートを公表している。

「東神奈川駅」コンコースにある大正時代初期の絵図。赤丸が「現東高島駅付近」かつての神奈川砲台跡。赤く塗られた部分が「横浜倉庫」の倉庫群。

横浜鉄道。JR横浜線。東神奈川。横浜市場。廃線跡をたどる。横浜編その4。

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 もう一つ「東神奈川と東高島」とを結ぶ貨物支線の遺構探し。この路線は、前回の「鶴見」〜「桜木町」(高島線)、その支線・瑞穂埠頭への貨物線(のちの米軍専用線)とは異なり、横浜線(「東神奈川駅」)から派生した支線。
 もともとは、1908年(明治41年)、八王子や信州で生産された生糸を横浜へ輸送することを目的として、「横浜鉄道」によって開業した東神奈川駅 - 八王子駅間(現・横浜線)に由来。
 横浜鉄道は、神奈川沖の海を埋め立てて岸壁を建設し、そこに貨物線を伸ばして海陸連絡を図る構想のもと、東神奈川駅から海側へ貨物線を延長することになった。すでに東神奈川駅のすぐ海側には京浜電気鉄道(後の京急本線)の線路があったために、京浜電気鉄道の線路を高架化することになり、京浜電気鉄道・仲木戸駅の下をくぐって、横浜鉄道の線路が延長された。その時、海岸側に設置された駅が海神奈川駅(現・神奈川水再生センターの一部)で、1911年(明治44年)に開業。
(「神奈川水再生センター - 横浜市」公式HPより)
 この海陸連絡線は開業から国鉄が営業することになり、その後1917年(大正6年)、横浜鉄道は正式に国有化され、国鉄横浜線となった。
 この横浜鉄道の海陸連絡線は、横浜港において初めての臨港貨物線だったが、岸壁を造成できないままに終わって、本格的な船舶との連絡を果たすことはできなかった。
 横浜線の海陸連絡線は、東神奈川駅の東側で横浜線から分岐して南へカーブを切り、京急本線を仲木戸駅の下にあるガードでくぐって、国道15号(第一京浜)を横断して千若町の海神奈川駅へ至る構造であった。東神奈川から高島までの貨物線もこれと平行して敷かれていた。

線路の跡だと思われる駐車場。中央奥に行ったところが「東神奈川」駅構内。
京急「仲木戸」駅」ガード。この下を通って東高島駅方向に向かった。ガードの中央付近に古い煉瓦造りの部分が残っている。
旧線路脇の「仲木戸公園」煉瓦造りの門柱、塀。
「第一京浜」の歩道橋から仲木戸駅方向を望む。赤丸が京急線とのガード。そこをくぐって二つの貨物線が赤線のように進んでいた(一方はそのまま東に向かい「海神奈川」へ、もう一方は南にカーブして高島線「東高島駅」付近で合流)。
ゴルフ練習場のフェンスに沿って線路があった。右にカーブして運河を渡り、東高島駅に通じていた(「東神奈川」〜「高島」)。
現在は、民間会社の構内。
当時の橋梁が現存している。
運河に架かる橋梁。

 第一京浜に架かる歩道橋。そこに案内図がありました。
(注:上が北になるよう回転させている。)→が東高島駅。その下(南側)一帯が構内。↓付近にも引き込み線があった。現在はすっかりなくなっていて、再開発(計画)を予定しているようす。左(西)の○が「第一京浜」。
↓付近。引き込み線があったところ。現在は、かなり規模が大きい駐車場(空き地?)。
東高島駅構内。→付近。
構内は広い。
 西側部分は、線路は撤去され、陸上での物流関係の集積場になっている。
かつてのホーム跡?
頻繁に電気機関車や貨物列車が行き来している。

横浜市場へ向かう支線の跡?
線路は遮断されて、ここから市場へ向かう線路跡は見当たらなかった。
市場へ向かう支線が通っていたと思われる「星野公園」から東高島駅方向を望む。

1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。中央に大きく広がる「東高島駅」から分かれて南に進む線路が横浜市場への支線。現在は、すでに廃線。

昭和初期の頃のようす(「今昔マップ」より)。赤い線が貨物線。「仲木戸」駅付近に「御殿町」という地名があるのに注目(赤丸)。「仲木戸」駅名は、神奈川御殿の「仲木戸」の由来。
神奈川御殿。
「国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所」HPより引用)

これは、運河にうち捨てられた「廃船」!


神奈川砲台(神奈川台場)跡。台場公園。横浜編その5。

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 東高島駅付近は、かつての「神奈川砲台(台場)」のあったところ。周囲も含めてすっかり埋め立てられて、土地に変わりました。

1880(明治13)年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

「東高島駅」構内に接するところにある「史跡 神奈川台場跡」碑。

 安政6年(1859年)5月、幕府は伊豫松山藩に命じ、勝海舟の設計で海防砲台を構築した。
 当時の台場は総面積2万6千余平方メートル(約8千坪)の海に突き出た扇型で、約7万両の費用と約1年を要し、万延元年(1860年)6月竣工した。
 明治32年(1899年)2月廃止されるまで礼砲用として使われたが、大正10年(1921年)頃から埋め立てられ、現在では石垣の一部を残すのみとなった。

約7万両 幕末の頃には1両が現在の3〜4千円(現在の米価で換算。低く見積もっても)だそうで、2億5千万円くらいの費用が費やされた、となる。が、山から土を運び出し埋め立てる、という大工事を想定すると、そんな金額じゃすまされないような気もする。最低でも20億くらいはかかっている、と。

赤丸が「碑」のあるところで、「碑」の背後に石垣が保存されている。
 


(「www.katsu-iwai.com/sansaku/index.html‎」より)
矢印が神奈川砲台(台場)(「同」より)。

神奈川砲台(神奈川台場)略年表

1854年(安政元年) ペリーが軍艦7隻を率いて横浜に来航し、日米和親条約を締結
1857年(安政4年)
幕府は伊予松山藩に神奈川(横浜港と居留地)の警備を命じた
1858年(安政5年)
日米修好通商条約を締結、松山藩が幕府に神奈川砲台築立の場所指定願を提出

1859年(安政6年) 幕府は松山藩に海防砲台の構築を命じ、その後横浜港は開港し7月20日に松山藩が台場建設に着工(設計・指導は勝海舟)
1860年(万延元年) 6月神奈川台場は竣工し、松山藩主松平勝成が視察する
1866年(慶応2年) 9月天皇誕生日を祝って神奈川台場から祝砲を発射する

1899年(明治32年) 神奈川台場は廃止され、その後埋め立てが進みました
1924年(大正13年) 埋め立てられた台場の上に東高島駅(東海道線支線貨物駅)が開業

1995年(平成7年) 神奈川台場公園が完成(横浜市緑政局:現環境創造局)

2006年(平成18年) 神奈川台場西取渡り石垣発見(当社団)
2008年(平成20年) 神奈川お台場西取渡り部の発掘調査(神奈川区:埋蔵文化財センター)
2009年(平成21年) 横浜開港150周年開国祭開催、神奈川台場公園の再整備計画が神奈川区役所により推進され、神奈川区資産「わが町かながわ とっておき」に認定される
2010年(平成22年) 神奈川区は、神奈川台場をより多くの方々に知って貰う為に、星野町公園と神奈川台場公園をリニューアル


http://www.kanagawadaiba.com/%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E5%8F%B0%E5%A0%B4%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/ より引用)

「台場公園」への道ばたにある「説明板」。
残雪で隠れているが石垣の一部。遺構の大半は、公園内の地中に埋まっている。
「台場公園」内にある発掘調査の説明板。東高島駅沿いのマンション建設現場から遺構の一部が発掘され、本格的な調査が始まった、らしい。
周辺一帯の発掘調査の概要。

パネル。台場(横浜開港を含めて)の歴史を簡潔に知ることができる。
 

「台場公園」。奥に説明パネル。

JR貨物線(東高島駅構内)をはさんで反対側にある「星野町公園」にある「神奈川台場跡地」の説明パネル。右の赤い○が「台場」、中央の赤い○が「象の鼻」(西波止場)。
線路脇(横浜市場内)に保存されている石垣。
扇型に突き出した台場の護岸用の石垣。
←付近(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 なお、マンションの一室に建設中に発見された遺構(石垣)がそのまま保存されているとのこと。設計者の勝海舟にちなんだ『海舟』。訪問したときは、残念ながら閉まっていました。

神奈川宿。松並木。新旧味わいのある街並み。横浜編その6。

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注:「神奈川宿」(歌川広重『東海道五十三次』より:現在の青木橋付近から横浜駅西口方面にあった海を望む)は、「Wikipedia」より拝借。 

 仲木戸駅周辺はかつての神奈川宿。東海道の品川、川崎、そして神奈川宿と3番目の宿場町だった。旧東海道に見立てた松並木の復活、古い寺町、神奈川砲台(台場)など見所満載。
 そして、「第一京浜」を越えて、東高島駅の東側は高層マンションが建ち並ぶ一帯。ここは、もともと「神奈川砲台」の先の埋め立て地・山内埠頭周辺地区。かつては、日本鋼管・浅野造船所など、工場・倉庫が建ち並ぶ広大な敷地があったところ。
 新旧入り交じった街並みを散策。
パンフレット「神奈川宿 歴史の道」(横浜市神奈川区役所 発行)。
掲載されている案内図。

《《神奈川宿(かながわしゅく、かながわじゅく)》

 現在の神奈川県横浜市神奈川区神奈川本町付近にあり、付近には神奈川湊があった。


「国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所」HPより引用)左のまとまった集落が「神奈川宿」で、上の図にあてはまる。


1880年(明治13年)頃の横浜のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。海岸に沿った、中央の街並みが「神奈川宿」。東海道は平沼(かつては海)の上部(北側)のへりを程(保)土ケ谷へ向かった。鉄道は弓状に築かれた堤の上を通って、現桜木町駅(初代横浜駅)方向に進んでいた。現横浜駅(三代目)は弓状の付け根(上部)よりやや西のあたりになる。

《神奈川宿》

 神奈川宿は神奈川湊の傍に併設された町であり、相模国や武蔵国多摩郡方面への物資の経由地として栄えた。なお幕末には開港場に指定されたが、実際には対岸の横浜村(現在の中区関内地区)が開港となり、開国以降次第に商業の中心はこの横浜村に移っていった。
 神奈川町と青木町の二町からなり、両町の境には滝野川(現滝の川)が流れていた。
 旧東海道は現在の国道15号と宮前商店街を通り、神奈川駅及び青木橋の西側、台町、上台橋を通っていた。旧東海道はそのまま上方見附を経て芝生(しぼう)村から現在の環状1号線に沿って天王町駅、保土ヶ谷駅方面へ進む。
 台町から海を見下ろす眺望は十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や歌川広重の浮世絵にも紹介され、名所とされていた。神奈川沖の海は、葛飾北斎の『富嶽三十六景』神奈川沖浪裏にも描かれた。また、宮洲(青木町の海岸、現在の栄町)の潮干狩りも名物であった。
 明治22年(1889年)に神奈川町、青木町、芝生村が合併し神奈川町が成立、1901年(明治34年)に横浜市に編入された。
 成仏寺の東にある「神奈川地区センター」の前には高札場が再現され、館内に江戸時代の神奈川宿のジオラマが展示されている。

注:「江戸時代」とあるが、展示されてあるのは、幕末、開国の頃のもの。
左にあるのが、神奈川砲台。中央部分が現在の「仲木戸駅」付近。「第一京浜」が旧東海道に当たる。
矢印が神奈川砲台(台場)。
矢印が「神奈川地区センター」。
手前の海が神奈川湊付近。「東海道」は現在の「青木橋」付近から北へ曲がり、台町へ進んでいた。左上に上っていくのが分かる。「上台橋」付近が神奈川宿の西のはずれ。
(以上、「ジオラマ」より)

《神奈川湊(かながわみなと)》

 神奈川湊が記録に現れるのは、鎌倉に幕府が置かれた13世紀以降のことである。しかし、古代から東京湾内海交通の拠点として、六浦(神奈川県横浜市金沢区)・品川(東京都品川区)・富津(千葉県富津市)・木更津(同木更津市)などとともに、当地に港が存在したことは確認されている。
 神奈川湊とその湊町は、鎌倉時代には鶴岡八幡宮が支配し、室町時代には関東管領上杉氏の領地となった。江戸時代には東海道が整備され、慶長6年(1601年)に神奈川へ宿場が置かれた。神奈川宿と神奈川湊は、幕府の直接支配を受け、神奈川陣屋がこれを担った。神奈川湊の周辺には、北に生麦湊、新宿湊があり、南に戸部湊、野毛湊があった。
 安政5年(1858年)、神奈川湊沖・小柴(横浜八景島周辺)に碇泊していたポーハタン号上で日米修好通商条約が締結された。同条約では「神奈川」を開港すると定められていた。しかし、街道を通行する日本人と、入港する外国人との間の紛争を避けるために、神奈川湊の対岸にある横浜村に港湾施設や居留地をつくり、開港した。これが現在の横浜港となった。そのため、外国人に対しては横浜は神奈川の一部と称した。

《名所・旧跡》

神奈川陣屋跡 - 江戸幕府の付近一帯の領地を所管する機関であった。
神奈川御殿跡 - 将軍上洛や鹿狩りの際の宿泊施設。利用されなくなったため、17世紀半ばに廃止。仲木戸という地名は、御殿の木戸があったことにちなむという。
神奈川台場跡 - 現在の高島線東高島駅付近。埋め立てなどにより、構築物の大半が埋没している。
神奈川台関門跡
長延寺跡 - 江戸見附とされていた後、旧オランダ領事館も兼ねる寺であった。長延寺は1966年、横浜市緑区三保町に移転し、跡地が神奈川通東公園となっている。
能満寺 - 漁師が海中から拾い上げた霊像を供養するために建立。
東光寺 - 本尊は太田道灌の守護仏。
妙仙寺跡 - 1908年移転した、現在の妙蓮寺である。跡地は横浜線貨物線路敷跡。
成仏寺 - 旧アメリカ人宣教師の宿舎で、ヘボン式ローマ字で知られる宣教師ヘボンが滞在していた。
慶運寺 - 旧フランス領事館。浦島太郎が竜宮城から持ち帰ったとされる、観音像がある。
浄瀧寺 - 旧イギリス領事館。
宗興寺 - 宣教師ヘボンが療養所を開いていた場所。
良泉寺 - 故意に屋根を壊して外国の領事館になることを断った、という逸話を持つ。
甚行寺 - 旧フランス公使館。
本覚寺 - 旧アメリカ領事館。横浜開港の頃にアメリカ領事館員が塗った、日本初のペンキ塗装の山門が現存する。また、生麦事件で斬られたイギリス人2人が逃げ込んだ場所でもある。
豊顕寺 - 三ッ沢に所在。法華宗の三沢檀林。
笠䅣稲荷神社(「䅣(のぎ)」は、「禾(のぎへん)に皇」)
神明社
熊野神社
洲崎神社 - 洲崎大神。1191年(建久2年)に源頼朝が安房神社を勧進して創建。
大綱金刀比羅神社
大井戸跡 - 江戸時代には東海道中の名井戸に数えられた。また、井戸の水量の増減で明日の天気がわかるとされ、「お天気井戸」の異名があった。
権現山古戦場跡
滝野川・滝野橋(「滝野」は「滝の」・「滝ノ」・「滝之」とも表記)- 神奈川宿の中央を流れる川。
青木橋 - 1872年(明治5年)、新橋−横浜間に開通した鉄道の切通しにより東海道が分断されたため、少し東寄りの位置に架けられた。当初の初代横浜駅は青木橋の南側にあった。
上台橋 - 1930年(昭和5年)、道路の切通しを作るために東海道が分断されたため架けられた。
田中家 - 1863年(文久三年)創業の料亭。広重の絵に描写されている「さくらや」という茶屋の跡にできたといわれる。坂本龍馬の妻楢崎龍が仲居として働いていた記録があり、写真等が現存する。
(以上、「Wikipedia」参照)

京急線と第一京浜との間の道に「松並木」が再現されている。ただし、旧東海道はもう一本東側(第一京浜)の道だったが。
まだ細い幹だが何十年後には立派な松並木に。


よく整備された道筋。由緒ある寺院が沿道に並んでいる。
「外国宣教師宿舎跡」。成仏寺門前にある碑。ヘボン式ローマ字で有名な「ヘボン」氏が宿舎としていたらしい。

ちなみに「ヘボン式ローマ字つづり」一覧(PASSPORT)

あ A い I う U え E お O
か KA き KI く KU け KE こ KO
さ SA し SHI す SU せ SE そ SO
た TA ち CHI つ TSU て TE と TO
な NA に NI ぬ NU ね NE の NO
は HA ひ HI ふ FU へ HE ほ HO
ま MA み MI む MU め ME も MO
や YA ゆ YU よ YO
ら RA り RI る RU れ RE ろ RO
わ WA ゐ I ゑ E を O

半濁音
が GA ぎ GI ぐ GU げ GE ご GO
ざ ZA じ JI ず ZU ぜ ZE ぞ ZO
だ DA ぢ JI づ ZU で DE ど DO
ば BA び BI ぶ BU べ BE ぼ BO
ぱ PA ぴ PI ぷ PU ぺ PE ぽ PO

拗音
きゃ KYA きゅ KYU きょ KYO
しゃ SHA しゅ SHU しょ SHO
ちゃ CHA ちゅ CHU ちょ CHO
にゃ NYA にゅ NYU にょ NYO
ひゃ HYA ひゅ HYU ひょ HYO
みゃ MYA みゅ MYU みょ MYO
りゃ RYA りゅ RYU りょ RYO
ぎゃ GYA ぎゅ GYU ぎょ GYO
じゃ JA じゅ JU じょ JO
びゃ BYA びゅ BYU びょ BYO
ぴゃ PYA ぴゅ PYU ぴょ PYO

復元された「高札場」。

 高札場とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所のことです。
神奈川県の東海道では、9つの宿場にそれぞれ1カ所ずつありました。いずれも江戸から京都に向かって街道の右側に設置されています。
高札場の高さは約3メートルから4メートル、間口は約3メートルから5メートルといったところです。
横浜市神奈川区にある神奈川地区センター前には、かつて神奈川宿の瀧之橋のたもとにあった高札場が復元されています。土台を石で固め、その上を柵で囲んだ内部に数枚の高札が2段に掲げられ、風雨を避けるために屋根が設けられています。(「国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所」HPより)


「高札場」遠景。「神奈川地区センター」前。
そこから、仲木戸駅方向を望む。
東神奈川駅、仲木戸駅方向を望む。
「滝の川」。
「土橋」。流れはきれい。水鳥が群れをなして泳いでいる。
1880年頃のようす(「同」より)。赤丸が「東海道」、矢印が「滝野(の)川」(「同」より)。
「滝の橋」。「第一京浜」(旧東海道)が滝野(の)川に架かっている橋。
上流を望む。

そのほとりにあった飲み屋さん。「市民酒場」というネーミングが目を引いた。
案内図。


 「滝の川」を渡った西の宿場町のようすは、次回。その前に、「コットンハーバー」の方へ向かいます。

コットンハーバー。まだまだ課題がありそうな街づくり? 横浜編その7。

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注:葛飾北斎作「神奈川沖裏波」は、「Wikipedia」より。ただし、描いた場所は異なっている(もう少し西側、現横浜駅西方?)。

 2003年(平成15年)、横浜市神奈川区橋本町二丁目および星野町、山内町の各一部について、工場跡地や遊休化したドック(浅野造船所)跡地などの土地利用の転換により、再開発することを目的に「山内ふ頭周辺地区土地区画整理組合」が設立され、2004年6月に区画整理事業が着工された。

1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。浅野ドックが中央にみえる。左が横浜市場。線路は「東高島駅」構内。

 「コットンハーバータワーズ」4棟と「コットンハーバー マリナゲートタワー」1棟の高層マンション群が建設されている。また、その他の施設・店舗として結婚式場「コットンハーバークラブ」やプラザ栄光生鮮館コットンハーバー店(スーパーマーケット)などがある。プラザ栄光生鮮館はスーパーマーケット「コットンマム」の閉店後に同地に出店した。
 一方、天然温泉リゾート&フィットネスクラブ「INSPA(インスパ)横浜」は開業から3年が経過した2010年9月30日に閉店となったが、2013年12月から完全会員制施設として営業を再開(リニューアルオープン)している。
 また同施設の西側に計画されていたホテルは着工後に開発中止となり、この他には当地区内でオフィスビルも計画されていたが着工に至らずに中止されている。
 2010年代に入ってからの新規の開発として、ポートサイドリカー(プラザ栄光生鮮館の運営会社)による賃貸マンション「ヒストリアレジデンス海舟」が2012年に完成、また有料老人ホームの「サンシティ東神奈川(仮称)」が2014年末に完成予定である。
 この他、地区内に新しく整備された「星野町公園」があり、この公園内では神奈川台場の遺構を見ることができる。また、当地区の東端にはコットンハーバーボートヤードがある。
「コットンハーバー ヒストリアレジデンス海舟」の1階には「神奈川台場資料室」があり、神奈川台場に関する資料の他、マンション建設時に見つかった遺構がそのままの形で展示されている(注:2014年2月現在、閉鎖中)。(以上、「Wikipedia」参照)

地域一帯が超高層マンション群に大変化。


「星野町公園」。向かい側は、JR東高島駅構内。
東の海側はデッキ・テラス式の公園に。
遠くに「横浜ベイブリッジ」。
「みなとみらい地区」が目の先に見える。
振り返ってマンション群を望む。波止場の雰囲気を漂わせるテラス。
「コットンハーバー」案内表示。

 ただ、上にもあるように、今ひとつマンション住民以外の人たちを引き寄せる魅力に欠ける印象。「みなとみらい」相互のアクセスが十分でないこと、最寄りの交通機関が限られていること、さらに、東高島駅周辺地区や瑞穂埠頭にある米軍施設など、返還後の再開発のプランなど、まだまだ今後の課題が多いようだ。
開発が中断されたような敷地が広がっている。

上台橋。神奈川台関所。(神奈川宿。西から東まで。その1)。横浜編その8。

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 JR横浜駅の西口を出て、少し西に向かうと「上台橋」。ここが「神奈川宿」探索の出発点。いざ京急・神奈川新町駅まで、というわけです。

明治後期の頃のようす(「今昔マップ」より)。Aが「上台橋」付近、Bが「青木橋」付近、Cが「滝の橋」付近。この3地点を通る道が「東海道」。
2000年代初期のころのようす(「同」より)。A,B,Cは、前の図と対応している。

 「上台橋」は、1930(「昭和5)年、横浜駅方面からの切り通しの道路ができたために、その上に架けられたもの。

『神奈川駅中図会』。

 「神奈川宿歴史の道」は、この上台橋より始まります。
 かつてこのあたりは、潮騒の聞こえる海辺の道でした。この場所から見えた朝日は、ひときわ美しかったのでしょうか。『神奈川駅中図会』にも、その姿が描かれています。
 この地に橋ができたのは、昭和五年(1930)。開発がすすみ、切り通しの道路ができるとともに、その上に橋が架けられたのです。
 この橋を渡り東へ坂道を上りきると、そこに関門跡の石碑が立っています。
HPより)

上台橋。
横浜駅西口方向を望む。「青海波」という文様。このデザインは、「神奈川宿 歴史の道」としての道づくりに際して採用され、行く先々で目にする。

 「青海波」
(「www.ikiya.jp/crest/download.html」より引用)‎

橋のたもとにある案内板。

その地点から、旧東海道・西(保土ケ谷)の方向を望む。順路はこれから東(仲木戸・神奈川新町)方向に向かう。

緩やかな上り坂。
振り返って「上台橋」方向を望む。

東側(横浜駅西口方向・かつての海)を見下ろすと、かなりの急坂。高「台」という地名にふさわしい地形。この辺り、標高20メートル以上で崖下は4メートル以下(「今昔マップ」参照)。
 「東海道」はこの高台の縁に沿ってつくられ、茶屋が軒を連ねていた。「神奈川湊」を見下ろす風光明媚なところだったことがよく分かる。

「神奈川台関所跡・袖ケ浦見晴所」碑。

 「神奈川台の関門跡」

 ここよりやや西寄りに神奈川台の関門があった。開港後、外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事は幕府を激しく非難した。幕府は、安政6年(1859)横浜周辺の主要地点に関門や板書を設け、警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。そのうちの西側の関門が神奈川台の関門である。明治4年(1871)に他の関門・番所とともに廃止された。

 脇に烏丸光広の歌碑「思ひきや 袖ヶ浦波立ちかへり ここに旅寝を重ぬべしとは」がある。


碑の裏面。
裏手の高台。「見晴所」らしい雰囲気。
右手に見える高台。残念ながら上ってみることはできなかった。さぞかし眺望はいいはずだが。
 この先、青木橋に向かっては少し下り坂になる。

田中家。滝川。青木橋。(神奈川宿。西から東まで。その2)。横浜編その9。

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「臺(台)町茶屋の景」。旧東海道のポイントごとにこうした丁寧な案内板が設置されている。
 描かれている「さくらや」(櫻屋)が現在の「田中家」付近とのこと。
前方にその「田中家」が見えてくる。

坂を下ったあたりから。

門前の案内板。




田中家のはじまりは、浮世絵の中から



 海の眺めを楽しむため、台町の坂道沿いにはたくさんの腰掛け茶屋が並んでいました。その様子は、広重による「東海道五十三次」の神奈川・台之景にも描かれています。その絵をじっくり眺めますと、坂の上から三軒目に「さくらや」という看板の文字が読めます。これが、現在の田中家の前身です。

 幕末の頃、文久三年(1863年)に、田中家の初代がそのさくらやを買い取り、「田中家」がスタートしました。その少し前、安政六年(1859年)に横浜開港が決まり、各国の領事館がつぎつぎとこの近辺に置かれました。また、多くの外国人が商館を構えるなど、横浜はこのあたりを中心に国際都市として発展していきます。


長い時間の中をくぐりぬけてきた一軒

 初代の晝間弥平衛から現在の五代目女将平塚あけみまで、約150年。関東大震災、横浜大空襲など、たいへんなこともくぐりぬけてきましたが、この間、様々なお客様にごひいきいただき、現在まで続けることができました。かつて神奈川宿に1300軒あった料亭で、田中家ただ一軒が現存しております。
 著名な方もたくさんおいでいただいています。米国総領事ハリス、伊藤博文、西郷隆盛、高杉晋作などが倒幕の計画を練った場所でもあります。夏目漱石の書など、多くの記念の品々が田中家でごらんいただけます。


龍馬の妻おりょう


 幕末の偉人、坂本龍馬の妻おりょうは、龍馬亡きあと、ここで住み込みの仲居として勤めてくれていました。月琴を奏で、外国語も堪能で、物怖じしないまっすぐな性格が、ことに外国のお客様に評判だったといいます。
 横須賀に嫁いでいき、田中家をやめたあとも、ひいき客からいつまでも話題に上ったということです。
 龍馬からおりょうにあてた恋文が、今も田中家に残っております。



(以上、「田中家」HPより)

「田中家」脇の道から横浜方面を望む。けっこう急な坂道になっている。
東海道の坂道、海を見下ろす街道筋に茶店がならんでいた、そういう風情は今やなく、マンションが建ち並ぶ。

 しばらく行くと、大きな料亭が道の左側にあります。「田中家」のような古いお店ではないが、落ち着いた門構えのお店。

「神奈川宿袖ケ浦」。料亭「滝川」の通り沿いの壁にある。

 たどり行くほどに金川(神奈川)の台に来る。爰(ここ)は片側に茶店をならべ、いづれも座敷二階造り、欄干つきの廊下、桟(かけはし)などわたして、浪うちぎはの景色いたつてよし。 十返舎一九「東海道中膝栗毛」より

 古、台地の下には海(袖ケ浦)が広がり、上り坂の街道筋に沿って茶店が並んでいた。現在、風情のある大きな料亭は、「田中家」と「滝川」くらいか。

(「滝川」HPより)



「滝川」付近から横浜駅方面を望む。ここあたりでは傾斜は緩やかになっていて、標高は、9メートルほど(「今昔マップ」を参照)。

「青木橋」。
中央の道が「上台橋」からたどってきた旧東海道の道すじ。
青木橋の南側にかつて「神奈川駅」があった、らしい。

1880(明治13)年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。赤い↓「乗車場」とあるのが「神奈川駅」。
 その上、東西にほぼ直線の道が「東海道」。鉄道に架かる橋が「青木橋」。

宮前商店街。幸ケ谷小学校。(神奈川宿。西から東まで。その3。)横浜その10。

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 跨線橋「青木橋」を越えると、「京急・神奈川」駅。その先を左手に入る。
「京急神奈川駅」。
 JR線と京急線が切通し部分を並行していて、それを越す「青木橋」のたもとにある。開業時はJR線とともに横浜側のターミナルであったが、JR「神奈川駅」が廃止され、京急駅の方も各駅停車のみの小規模な駅となった。駅舎は、歴史のある街にふさわしいものをということで、改築の際、清水の舞台をイメージした、という。

 (付)「東急東横線」にも「青木橋」の西側、旧東海道脇の「高島山トンネル」の南側に「神奈川駅」という駅が存在したが、戦後、廃止された、らしい。やはり、この辺りがかつて、横浜港への入口として重要な位置を占めていたことが分かる。

西側・「本覚寺」、「高島山」方向を望む。開港時、本覚寺には、アメリカ領事館が置かれた。
 もともとは「高島山」とこの辺りは地続きの丘陵地帯、その縁を「東海道」が通っていたが、JR、京急線を横浜方面に向けて造成したために分断されてしまった。

1890年代(明治中・後期)の頃のようす(「今昔マップ」より)。薄いピンク色の部分が高台(高島山・権現山)。○が切り通し、赤丸が「青木橋」、白丸が「国鉄・神奈川駅(廃止)」。赤い線が「東海道」。

「第2京浜(国道1号線)」と「第一京浜(国道15号線)・旧東海道」と交差点付近にあるバス停「青木橋」。
京急神奈川駅にある「案内図」。上の図は、江戸幕府の道中奉行が作成した「東海道分間延絵図」。中央部分に「滝の川」。
矢印が「(京急)神奈川駅」。
「宮前商店街」入口。 
昔のままの通りのようだが、商店はほとんどなく、人通りも少ない町並み。
開港当時イギリス士官の宿舎にあてられた「普門寺」。
「洲崎大神」門前の碑。

 神社前から海に向かって延びる参道が第一京浜に突き当たるあたり、そこがかつての船着場である。横浜が開港されると、この船着場は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり、付近には宮ノ下河岸渡船場と呼ばれる海陸の警護に当たる陣屋も造られた。

参道。中央奥が「第一京浜」。その向こうが海になっていた。

お店らしきものは目立たず、マンションなどに変わり、ところどころに食べ物屋さんがあるくらい。
東側の看板。

「幸ヶ谷小学校」の外壁。かなりの高さがある。裏手の「幸ヶ谷公園」と合わせ、高島山から権現山と続く丘陵地帯の一角に位置している。
 東海道はその崖下を東北方向に向きをかえ、江戸・日本橋まで続いていた。右手側(東南側)が海になる。
1880(明治13)年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。←のあたり。

滝の川。本陣跡。オランダ領事館跡。(神奈川宿。西から東まで。その4。)横浜その11。

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 前回、「松並木」など仲木戸周辺は探訪したので、見落としたところなど補足しながら、京急・神奈川新町駅まで。

「滝の川」のほとりにある「本陣跡」碑。↓が本陣、○が権現山(西側の高島山から続く幸ケ谷公園、幸ケ谷小学校までの丘陵地帯)。

 「滝ノ橋と本陣跡」
 上の図は、「金川(注:神奈川)砂子」に描かれた江戸後期の神奈川宿の風景である。現在と同じ場所にあった滝ノ橋を中心に、江戸側には神奈川本陣、反対側に青木本陣が置かれていた。本陣とは大名や公家などが宿泊したり休息するための幕府公認の宿である。
 滝ノ橋のすぐ脇には高札場が見える。高札場は幕府の法度(はっと)や掟(おきて)を庶民に徹底させるための重要な施設である。この高札場は、現在の地区センターに復原されている。

紅白の梅が咲き始めていた。
 

水鳥の群れ。食パンをちぎってあげている近所のご婦人がいた。
「土橋寿司」。
「土橋」。昭和4年竣工。横浜も関東大震災で大きな被害を受けた地でもある。この橋も、震災復興に関わる橋だろうか。

「浄瀧寺」。開港時、イギリス領事館に充てられた。
「滝の川公園」。この川には河童の伝説があったようだ。公園内のモニュメント。
 
左:「河童の木登り」、                 右:「河童の川流れ」
 
 滝の川は、権現山から流れ出る水が、滝となって落ちていたので、滝の川といわれるようになったとの説があります。
 この川には「河童のくれたされこうべ」という伝説があります。
 昔々、滝の川には河童が住んでいました。旅人を困らせていると聞いた侍が、見事にこの河童を捕まえました。
 その河童が泣き泣きいうことには、・・・「ある年一匹のうわばみが現れて亭主は殺されてしまいました。それからというものは、二人の子どもを養うために悪いこととは知りながら、ついついご迷惑をかけました。以後いっさい悪いことはいたしません。約束のしるしに、大事な亭主の首をさしあげます。どうぞお許しください・・・」
 哀れに思った侍は許してやりました。
 その夜、河童は約束通り首を届け、以後宿場は静かになったそうです。(「神奈川宿歴史の道」より)

「神奈川小学校」脇にある「上無川」の碑。「上無川」から「神奈川」という地名ができたという説がある、らしい。関東大震災復興計画で埋め立てられたとのこと。 

タイルに描かれた「神奈川宿」・東海道全図。なかなかみごとなモニュメント。
上の赤丸がJR「東神奈川」駅、その下の赤丸が京急「仲木戸」駅、右の赤丸が「神奈川小学校」。
 この辺りは寺町になっていて、お寺が並んでいる。
 
「京急・神奈川新町」駅前の案内板。青い矢印が「神奈川新町」駅。

「神奈川通東公園」内にある「オランダ領事館跡」碑。ここには、昭和40年に移転するまで「長延寺」が建っていて、開港時、オランダ領事館に充てられた。
 このあたりが、江戸からの神奈川宿への入口にあたる。

そこから「神奈川新町」駅ホームを望む。

 「上台橋」から「神奈川通公園」までの約4キロの道のりが「神奈川宿歴史の道」となっています。よく整備され丁寧な案内板も豊富で、興味深く楽しみながら歩くことが出来ました。

                   
 神奈川台石崎楼上十五景一望之図(「神奈川宿歴史の道」より)


 帰りに立ち寄った「東京スカイツリー」みやげ。
「東京ばななツリー」 
 もちろん、お昼は崎陽軒の「シュウマイ弁当」でした(ただし、江東区の大島工場でつくったもの)。

生麦事件。その痕跡をたどる。横浜その12。

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 神奈川宿から少し川崎に戻った「生麦」。「京急生麦」駅下車。ここも訪れてみました。「生麦事件」の地。
「第一京浜」に出る手前の道を入ると、「生麦事件参考館」。訪問したときは閉まっていました。
横浜市からの「横浜まちづくり功労者賞」などさまざまな額が飾られてある。

 生麦事件参考館 浅海武夫
 表彰理由 生麦事件参考館を私設し案内を行い記念碑以外に資料館等のなかった地元において地域への関心を高め魅力あるまちづくりに貢献しました 1996年2月 横浜市

 なお、


資料館巡りや地元の方が語る歴史に耳を傾けるのも歴史旅の醍醐味。今回は生麦事件の貴重な史資料が収蔵する「生麦事件参考館」が閉館するとのことで、このコーナーでは、同館長で地元在住の研究家・淺海武夫さんに伺ったお話

rekigun.net/original/travel/namamugi/‎

 で特集しています。淺海さんの長年の「生麦事件」資料収集と研究・分析に並々ならぬ意気込みと一念を強く感じました。
 この記事によれば、昨年、閉館したようです。行ったとき、ちょうど棟続きの隣のおうちから老夫婦が出てきました。写真から見ると、どうもこの淺海さんとお見かけしたのですが・・・。お声も掛けずじまいでした。

 生麦事件は、幕末、文久2年8月21日(1862年9月14日)、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件。
 尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから薩英戦争(文久3年7月)が起こった。

 文久2年(1862年)8月21日(旧暦)、薩摩藩主島津茂久(忠義)の父で藩政の最高指導者・島津久光は、幕政改革を志して700人にのぼる軍勢を引き連れて江戸へ出向き、幕閣人事に強行介入したのち、京都へ帰ることとなった。
 行列が生麦村に差しかかった折り、騎馬のイギリス人4人と行き会った。横浜でアメリカ人経営の商店に勤めていたウッドソープ・チャールズ・クラーク、横浜在住の生糸商人ウィリアム・マーシャル、マーシャルの従姉妹で香港在住イギリス商人の妻であり、横浜へ観光に来ていたマーガレット・ボロデール夫人、そして、上海で長年商売をしていて、やはり見物のため来日していたチャールズ・レノックス・リチャードソンである。
 4人はこの日、東海道で乗馬を楽しんでいたとあるが、観光目的で川崎大師に向かっていたとの説もある。
 行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、正面から行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人たちに対し、身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したが、行列はほぼ道幅いっぱいに広がっていたので、結局4人はどんどん行列の中を逆行して進んだ。鉄砲隊も突っ切り、ついに久光の乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れたところで、供回りの藩士たちの無礼を咎める声に、さすがにどうもまずいとは気づいたらしい。しかし、あくまでも下馬する発想はなく、今度は「引き返せ」と言われたと受け取り、馬首をめぐらそうとして、あたりかまわず無遠慮に動いた。その時、数人の藩士が抜刀して斬りかかった。
 4人は驚いて逃げようとしたが時すでに遅く、リチャードソンは肩から腹へ斬り下げられ、臓腑が出るほどの深手を負い桐屋という料理屋の前から200メートルほど先で落馬し、追いかけてきた藩士にとどめを打たれた。
 マーシャルとクラークも深手を負い、ボロデール夫人に「あなたを助けることができないから、ただ馬を飛ばして逃げなさい」と叫んだ。ボロデール夫人も一撃を受けていたが、無傷だっため横浜の居留地へ駆け戻り救援を訴えた。マーシャルとクラークは血を流しながらも馬を飛ばし、神奈川宿にあった、当時アメリカ領事館として使われていた本覚寺へ駆け込んで助けを求め、ヘボン博士の手当を受けることになった。
 リチャードソンに最初の一太刀をあびせたのは奈良原喜左衛門であり、さらに逃げる途中で鉄砲隊の久木村治休が抜き打ちに斬った。落馬の後、介錯のつもりでとどめをさしたのは海江田信義であったという。
 なお、駕籠の中の久光は「瞑目して神色自若」であったが、大小の柄袋を脱し、自らも刀が抜けるよう準備をしたという。
 この事件は、大名行列の供回りの多数が抜刀したものであり、たとえ直接久光の命令がなくとも、暗黙の了解の下に行われていたことは歴然としていた。事件直後、各国公使、領事、各国海軍士官、横浜居留民が集まって開かれた対策会議でも、「島津久光、もしくはその高官を捕虜とする」という議題が挙がっていて、処理を誤れば戦争に直結しかねないだけに、イギリス公使館も対処の仕方に苦慮を重ねることとなった。
 事件直後、ボロデール夫人の要請に応えて最初に動いたのは、イギリス公使館付きの医官だったウィリアム・ウィリスである。騎馬で生麦に向かううちに、横浜在住の男たち3人が追いついてきて、やがてイギリスの神奈川領事ヴァイス大尉率いる公使館付きの騎馬護衛隊も追いついた。一行は、地元住民の妨害を受けながらも、リチャードソンの遺体を発見し、横浜へ運んで帰った。
 久光一行はその夜、横浜に近い神奈川宿に宿泊する予定を変更して程ヶ谷宿に宿泊した。生麦村の村役人はただちに事件を神奈川奉行に届け出、これを受けて調査を開始した奉行は久光一行に対して使者を派遣し、事件の報告を求めた。しかし久光一行は翌日付けで「浪人3〜4人が突然出てきて外国人1人を討ち果たしてどこかへ消えたもので、薩摩藩とは関係ない」という届出をすると、奉行が引き止めるのも意に介さずそのまま急いで京へ向かった。
 神奈川奉行からの報告を受けた老中板倉勝静は、薩摩藩江戸留守居役に対して事件の詳しい説明を求めたところ、数日後に「足軽の岡野新助が、行列に馬で乗り込んできた異人を斬って逃げた。探索に努めているが依然行方不明である」と説明した。神奈川奉行からの詳細な報告を受けて事件の概要を把握していた幕府はこの事実とは異なる説明に憤り、江戸留守居役に出頭を求め糾弾したが、薩摩藩側はしらを切り通した。
 当時の幕府においては、多数の軍勢を伴って幕府の最高人事に介入した久光に対して、敵意を持つ見方が一般であった。そのため、生麦事件の知らせに、薩摩を憎みイギリスを怖れることに終始し、対策も方針もまったく立てることができないでいた。一方、東海道筋の民衆は、「さすがは薩州さま」と歓呼して久光の行列を迎えたという。
 生麦事件をきっかけとして朝廷が攘夷一色に染まってしまった。尊攘派の支配する京都の情勢に耐えかねた久光は、23日に京都を発って鹿児島に戻った。
 文久3年(1863年)の年明け早々、生麦事件の処理に関するイギリス外務大臣ラッセル伯爵の訓令がニール代理公使の元へ届いた。これに基づき、2月19日、ニールは幕府に対して謝罪と賠償金10万ポンドを要求した。さらに、薩摩藩には幕府の統制が及んでいないとして、艦隊を薩摩に派遣して直接同藩と交渉し、犯人の処罰及び賠償金2万5千ポンドを要求することを通告した。幕府に圧力を加えるため、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四カ国艦隊が順次横浜に入港した。
 折しも将軍徳川家茂は上洛中であり、滞京中の老中格小笠原長行が急遽呼び戻され、諸外国との交渉にあたることとなった。賠償金の支払いを巡って幕議は紛糾するが、水野忠徳らの強硬な主張もあって一旦は支払い論に決する。しかし、攘夷の勅命を帯びて将軍後見職・徳川慶喜が京都から戻り、道中より賠償金支払い拒否を命じたため事態は流動化し、支払い期日の前日(5月2日)になって支払い延期が外国側に通告された。これにニールは激怒、彼は艦隊に戦闘の準備を命じ、横浜では緊張が高まった。
 再び江戸で開かれた評議においては、水戸藩の介入もあって逆に支払い拒否が決定されるが、5月8日、小笠原長行は海路横浜に赴き、独断で賠償金交付を命じた。翌9日、賠償金全額がイギリス公使館に輸送された。小笠原は、賠償金支払いを済ませたのち再度上京の途に就くが、大坂において老中を罷免された。
 幕府との交渉に続いて、イギリスは薩摩藩と直接交渉するため、6月27日に軍艦7隻を鹿児島湾に入港させた。しかし交渉は不調であり、7月2日、イギリス艦による薩摩藩船の拿捕をきっかけに薩摩藩がイギリス艦隊を砲撃、薩英戦争が勃発した。薩摩側は鹿児島市街が焼失するなど大きな被害を受けるが、イギリス艦隊側にも損傷が大きく、4日には艦隊は鹿児島湾を去り、戦闘は収束した。
 10月5日、イギリスと薩摩藩は横浜のイギリス公使館にて講和に至った。薩摩藩は幕府から借りた2万5000ポンドに相当する6万300両をイギリス側に支払い、講和条件の一つである生麦事件の加害者の処罰は「逃亡中」とされたまま行われなかった。
 肝心な点は、日英修好通商条約による治外法権の規定により、日本の側にはイギリス人を裁く権利は存在しなかったことである。つまりイギリス側から言うならば、イギリス人が日本の法律に従ういわれはなく、たとえ日本の国内法で無礼討ちが認められていようとも、当然のことながらそれはイギリス側からは認められるものではなかった。一方、薩摩藩側から見るならば、「国内法との整合性がつかない治外法権を含んだ条約は、朝廷の許しも得ず幕府が勝手に結んだもの」ということになるのである。したがってこの事件は、治外法権が日本国内にもたらす矛盾を大きく露呈させたものでもあり、以後、条約を結び直すための条件整備について模索を始めるきっかけともなった。
(以上、「Wikipedia」参照)


1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。↓「正泉寺」の位置が現在と変わらなければ、事件発生現場は○付近と思われる。南が神奈川・横浜方面。南北に続く道が「旧東海道」。左上部、斜めの線が鉄道(新橋〜横浜)の線路。

「生麦事件発生現場」碑。


 文久二年八月二十一日辛未(かのとひつじ)晴天
(薩摩藩主) 島津三郎(久光)様 の上洛の行列と異人4人内女1人、横浜より来て本宮町勘左衛門前にて行き違おうとしたとき、下馬しなかったので切りつけられた。
 直ちに逃げ去ったので、追いかけて一人を松原で討ち取った。外の3人は神奈川(宿)の方へ傷を負ったまま逃げ去った。
 お役人様が桐屋へご出当、村の役人一同も桐屋に詰めた。
右の異人の死骸は外の異人が大勢来て引き取っていった。

               生麦村名主 関口日記より

平成11年1月生麦事件参考館設置



その地点から北(品川方向)を望む。「旧東海道」。
旧東海道沿いとあって、古い家屋が残っている。
「懸崖の松」という風情。
神奈川宿寄りのはずれ、リチャードソン遺体発見現場(落馬地点)付近に建てられた生麦事件之碑。明治16年建立。碑文は中村正直による。
 ただし、現在は、横浜環状北線建設のため、仮移設されている。
移設に関する説明板。キリンビール横浜工場」に沿った旧東海道。
碑文の説明板。
中村正直による撰文(書き下し文)。 
もともとはこの道(旧東海道)が第一京浜に合流する手前に「碑」があった。
北側を望む。
第一京浜から旧東海道との合流地点を望む。左手を入ったところがリチャードソン遺体発見現場。
一歩通行路の左奥。

1970年頃のようす(「同」より)。赤丸がその付近。
正面がキリンビール横浜工場。第一京浜に架かるガードより望む。奥の左手が「碑」のもともとある場所。
「第一京浜」のガードを通過する貨物列車。石油タンクが連なって「東高島駅」方向へ。



HPより)

読書「さようなら、ゴジラたち 戦後から遠く離れて」(加藤典洋)岩波書店

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 「敗」戦後体制のくびきから解放し、新たな日本を(それは戦前とも通じる)構築しようとアベさんを先頭に政治、経済に蠢きが、一定の国民的評価を得ながら激しくなっています。
 曰く「日本国憲法、とりわけ憲法第9条」「戦後民主主義」「公教育」「靖国」「領土」問題・・・、「日本を取り戻す」をスローガンに、衆参両選挙に大勝利をした勢いをもって着々と進んでいます。
 戦後(民主主義)体制を批判、覆していく。特にソ連崩壊以降、共産主義・社会主義(運動としての)が大きく挫折していく中で、勢いづく「右翼・保守」派。「戦後」論争(歩むべき方向を見失い、なすすべもなくなったかのような「社会主義・左翼」信奉者への追撃)のさきがけとなった評論が、加藤典洋氏の『敗戦後論』でした。そこには、筆者が言うように大きな誤解もあったのですが、一定の役割を果たしたことも事実です。
 たとえば、徹底した「左翼」批判、「護憲派」批判(こちらの力点が強いように受け止められていた)。
 しかし、あくまでも筆者は、冷静です。まさに「理念と現実の落差」を追究していきます。(「憲法9条」「靖国参拝」「国家観」・・・)
 全共闘世代として「ノンセクトラジカル」の立場から運動に関わりつつ、そのギャップに自らの主体性においておののき生きてきた(生活してきた)自らの過去をどのように総括し、そして外国(言語の異なる、異文化)での生活をなど通じて、今、自らが存在しているか、そうした行きつ戻りつしつつする「思索」が彼の考え方、とらえ方の根底にあるということを受け取ることができます。
 振り返って、ほぼ同世代の、「古来稀なり」の世代になりつつある我々にとって、アベにせよそのほかの50代、60代前半の、まさに「戦争を知らない」「戦争責任のとりようもない」「70年前の出来事には関係ない」世代が多くなって(社会を担う、リードする)きて、その彼らに、今、何を語りべきか(語り残すか)を真剣に考えなければならない時を迎えていることをひしひしと感じさせられます。

 特に、尖閣、竹島巡る領土問題が一歩間違えば戦争勃発にもつながる危機感。戦争への関わりを筆者は「湾岸戦争」を契機に考えるようになったとか。政治情勢、国際情勢を眺めたときに、あっという間に事態が急変して「戦前」になりかねない今日、この評論が結果としてどう機能していくか(影響力を持つか)、まさに現代的な評論集です。

【問い3】「日本に戦前に似た形でのナショナリズムの再興はあり得ると考えますか? また日本を戦争に引き込む要因があるとして、それはどのようなものでしょうか? 極めて深刻な経済危機、強烈な反米主義の勃興、アジアでの国際関係の危機の勃発などが考えられますが」
【答え】まず日本の社会は戦前とは全く異なったものとなっている。戦前型の天皇主義も、保守主義も右翼思想もその基盤を失っている、外的にも内在的にもそういえる、というのがわたしの観測です。(中略)結論だけをいいますと、戦前型のナショナリズムの復興はありえません。ただ歴史は二度繰り返される。一度目は悲劇、二度目は喜劇として。それがキッチュな喜劇として反復される可能性は、以下の条件次第では、残されているでしょう。(中略)「経済危機」がその場合ありうる唯一の要因です。戦後社会の最大の構成因は、経済的な達成です。経済的な安定がある限り、日本社会は基本的に安定しているでしょう。逆から言えば、これがなくなったら、全てが変わってくる可能性があります。
 (P11)フランス人学生の問いかけと筆者の答えの一部

 2010年発刊。
 
 注:個人的には、痛烈な「(映画)日本戦後文化論」として、「さようなら、ゴジラたち」(「たち」に筆者の深い意味が込められている)(ゴジラが夜、靖国神社を破壊するというシチュエーションを提示する)と戦後日本の「かわいい」文化の意味するものという「グッバイ・ゴジラ ハロー・キティ」が興味深く読みました。
  

高島山トンネル〜反町駅(東急東横線地上線跡「東横フラワー緑道」。その1。)横浜その13。

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 2004年2月、みなとみらい線(横浜駅 - 元町・中華街駅)開業に伴い、直通運転を行う東急東横線の反町駅および横浜駅が地下化され、2011年、その線路跡が全区間「緑道」として整備された。
 緑道の愛称は、「東横フラワー緑道」。  
 地下化以前は、住宅街を通過する高架線、地上線だったために騒音も激しかったが、現在は静かで落ち着いた住宅街の中を緑道が続いている。花壇、樹木、水飲みが設置されているほか、木道にはモニュメントとして「線路」がはめこまれている。       





1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。↑が「高島山トンネル」。↓が「桐畑橋」。下方が横浜駅方向。JR線、京急線の跨線橋が「青木橋」。

 今回、その緑道を「高島山トンネル」から「東白楽駅」付近まで歩いてみました。

横浜駅方向を望む。かつての高架線は撤去され、緑道になっている。

反町駅−横浜駅間に位置する高島山を貫通するトンネル。
 かつてはトンネルの南側に「東急・神奈川駅」があった。
 地上線の廃止後、高島山トンネルが歩行者用に改修・整備されて開通したことで、反町駅周辺から横浜駅までの歩行所要時間が大幅に短縮された。
旧線路が旧東海道と交叉する、そのすぐ北側に高島山トンネルは位置する。案内図。


散策する人、乳母車で通る人・・・、自転車の乗り入れが禁止なので、安心して行き来できそう。
トンネル付近から横浜駅方向を望む。このトンネル、開放する時間帯が決まっている。
トンネル内。
トンネル周辺で行われる予定の「イルミネーション体験」の案内。
トンネルを出ると、線路を模したタイル張りの歩道が続く。中央の橋は「桐畑橋」。
振り返ってトンネルを望む。
線路伝いに歩く雰囲気。遠く左に見えるのが、「反町駅」駅舎。
案内図。
「反町駅」。童話調の民家仕立てで、面白い雰囲気。

反町駅〜東白楽駅。(「東横フラワー緑道」その2。)横浜その14。

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 初春の日差しの下での散策。「フラワー緑道」というネーミングの通り、大きな灌木はない代わりに、足下の花壇には草花が植えられ、緑も多く、目を楽しませてくれます。
り。、
「高架歩道橋」から眼下に国道1号線を望む。
 この「歩道橋」は、東急東横線の旧高架橋を再利用、反町駅南側から国道1号をまたいで反町駅北側の緑道へと通じている。
 地上線時代の東横線はこの先東白楽駅まで高架だった。橋桁は東横線時代に使用されていたものをそのまま流用している、らしい。
「国道1号線」東側。
「フラワー緑道」の北側を望む。
木道の部分にかつて使用されていたと思われるレールがはめ込まれている。


緑道上に等間隔で設置されているコンクリート製の換気口。真下を電車が通過すると、走行音が聞こえてくる。


緑道沿いで見かけた酒屋さん。クラシックな店構え。
線路上にまだ雪が残っていた(注:撮影 2月26日)。中央奥が1946(昭和21)年に廃止された新太田町駅の跡地。砂地の広場となっている。
広場の入口にある「東横フラワー緑道」の碑。
広場脇の案内図。高島山トンネルからここまでで、全長の約3分の2を歩いたことに。
新太田町駅跡地付近。ここからゆるい上りになって現在のトンネル入口に着く。


前方、遠くに見える白い建物は「神奈川工業、神奈川総合高校」。

1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。中央が「神奈川工業高校」。線路右手に鉄道用地が見える。

地下線化したトンネル上部の広場。来た道を振り返る。
東横線。前方が「東白楽」駅方向。右のスロープは、「二ツ谷公園」に通じ、「滝の川せせらぎ緑道」と結ばれている。



スロープを下った辺りからトンネル入口を望む。

案内図。赤い矢印から矢印まで、約1.4?の道のり。
 お手頃で、落ち着いた散歩コースでした。東京からやって来る機会もありませんが、草花の手入れを含めて、地元の方々にとってはすてきな「フラワー緑道」に違いないことを感じました。
 こうして、「JR東神奈川駅」まで戻りました。

読書「ヒトラーを支持したドイツ国民」(ロバート・ジェラテリー)みすず書房

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 ナチ独裁制がドイツ国民大多数の支持・合意を基盤に成立し、機能していたことを、ゲシュタポの残存資料と当時の新聞雑誌を分析して実証した書。もちろん、原資料が、ナチ体制を支えた組織であり、厳しい言論統制と反ナチ・敵対者への過酷な弾圧下でのマスコミ資料、という限界性を持っているのは、しかたがない。しかし、その奥底に垣間見えてくるナチ体制の内実と、時には熱狂的に支持し支えていた国民の意識のありようを厳しく検証する手法によって、時代相を解明していく。

 1933年1月のヒトラー宰相任命によって、政治的、経済的分野において、それまでの20年間、第一次世界大戦をはさんで大きな不安と不満の極地にあったドイツ国民は、失われた力強い「国家」、名誉ある「国民」を取り戻すことができ、生活の豊かさを再び味わうことができるようになった。
 大恐慌後の世界的な経済的混乱の中で、他国に先駆けて、ヒトラーは、完全雇用の実現(大赤字財政を導入しての、公共事業投資、軍備の増強、徴兵制や強制労働を伴ったもの)、所得の伸び(可処分所得の増加)等のかたちで現実化していく。また、列強としての国際的地位をとりもどす。
 こうした「国威の高揚」を実感したドイツ国民は、「古き良き時代」を再現してくれたとヒトラー・ナチに大いに感謝した。

 忘れてはならないことは、国民啓蒙、宣伝省の管轄下でつくられた「第三帝国」の賛歌が、非常に早くから、労働創出計画、アウトバーンの建設、ファミリカーの約束、安い休暇、それにオリンピックの開催と、成功した政策を伴っていたという事実。政権は、みせかけではなく、こうした行動によって、いち早く熱狂者を結集した。そのおかげで短期的に独裁制は確立された・・・。(P311)ことにある。

 もちろんヒトラーは国民に、こうした最初の安易な勝利に対して、最後は莫大な代償を払わせるのだが。

 人々は、ナチの掲げる「民族共同体(共同体としての同一性、純粋性、等質性)」を築くために、反社会分子(当初は共産主義者、のちには反ナチすべて)、反ユダヤ主義と外国人労働者(ポーランド人等)に対する人種差別主義の実施に協力していった。普通の犯罪についても密告することを躊躇しなかった。生活の身近に目にするようになった「強制収容所」に、政治犯(警察がそう断定すればいい)が新たに送られて来るのを見て喜んだ(収容所から生きて帰れる者はほとんどいない)。
 
 とりわけ、「密告」体制が社会の隅々まで張り巡らされ、その多くは「自発的」「利己的」な動機からだったことが明らかにされていく。多くの人々は、ナチズムが戦争が不可避な体制であることへの洞察力もないままに、最終局面を迎えるに至った。
 
 明らかに多くの人々は、現実として目の当たりにした残虐行為を含めて状況を理解しようはせず、ヒトラーを、あるいは少なくともドイツを支持する以外はなにもできなかった。(P316)

 特に筆者の注目すべき論点は、「ナチ独裁制が(国民多数と、社会の合意の上に成り立った)『国民投票独裁』」だと主張している点。機会あるたびに「国民投票」が実施され、国民は、圧倒的に支持した。
 それが押しつけられた、有無を言わせない「賛成投票」行為であったという側面(国民に選択の自由は与えられていなかった!)もあるが、一方で、ナチによって自分たちの経済的利益を増し、「合法的」(もちろんナチにとってのだが)にユダヤ人やポーランド人から財産を奪いとり、さらに収容所や外国人労働力を「無償で」得た結果、飛躍的に生産性を上げた大企業経営者達にとって、ナチはまさに「救い」の神であった。 そういう持ちつ持たれつの関係がヒトラー(ナチ)と国民との間に成り立ち、支持されていた。

 「ナチ独裁制とドイツ国民の共鳴・共振関係」という筆者の提起は、過去の日本、そして今の日本にも考えさせられる政治、経済情勢ではある。    
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