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上六公園。東郷元帥記念公園。九段小学校。(震災復興52小公園。その34。)

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 続いて、「靖国通り」を西に、市ヶ谷方向へ。「東郷公園前」交差点を左折、細い路を行くと、「東郷公園」に。
「三番町」の来歴を記した説明板。
 
 江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に「大番組」と呼ばれる旗本たちを住まわせました。ここから、「番町」という地名が生まれました。
 江戸時代、この界隈には武家屋敷が立ち並んでいました。また、御厩谷坂の坂下から西に延びる谷筋には、かつて幕府の厩(馬小屋)があったと伝えられ、江戸城のお堀端近くの警備を武士たちがしっかり固めていた様子が想像できます。
 寛政5年(1793)、塙保己一が、この地に幕府の許可を得て和学講談所を開きました。保己一はわが国の古文献を集めた『群書類従』という書物の編纂で知られる学者です。幕末の兵学者村田蔵六(のちの大村益次郎)もこの地に蘭学の鳩居堂を開きました。さらに明治10年(1877)には、漢学者三島中洲が二松学舎(のちの二松学舎大学)を開くなど、文教の気風が受け継がれます。
明治になると、かつて武家屋敷であったところは、伯爵・子爵などの華族や政府役人の邸宅地となりました。
 日露戦争の折、日本海海戦で連合艦隊を率いた東郷平八郎も、明治14年(1881)から昭和9年(1934)までの53年間を過ごしています。邸宅跡は彼の事跡を記念して東郷元帥記念公園になり、四番町)との境の坂は「東郷坂」と命名されています。
 また、『濹東綺譚』で有名な永井荷風や、『武蔵野』の国木田独歩などの文学者も三番町の住人でした。与謝野晶子の夫、与謝野鉄幹も一時この地に住み、雑誌『明星』を創刊しました。
錚々たる人物の顔ぶれがそろう三番町です。国政の中心に近く、落ち着いた町並みを残したこの地だったからこそ、彼らに愛されたのでしょう。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。↓が「上六公園」、「九段小学校」付近。「上六」という名称は、「上六番町」にあったから。公園内に「三番町」の由来碑があるが、この頃の「三番町」は少し上方に位置していた。

?上六公園、東郷公園、九段小学校。

 公園内は高低差があり、昭和4年に低い部分が上六公園(※震災復興52小公園の一つ)として開園し、その後昭和13年に公園に隣接していた東郷平八郎連合艦隊司令長官(日露戦争でロシアのバルチック艦隊を破った)の私邸が東郷元帥記念会から寄付を受け、高い部分を公園として開園しました。
 園内には東郷邸にあったライオン像や力石が残され、子どもたちのための遊具も設置されています。
HPより。)

中央に見えるのが、ライオンの石像。
力石。(「佃島」などにあったのと同じようなかたちをしている!)
 説明板によると、「57貫目」(213.75?)との銘文があるが、実際に計量したところ、146.4?(約39貫目)だったとのこと。

「東郷元帥記念公園」由来碑。

 当公園は、当初関東大震災の復興計画により、上六公園として昭和4年7月最下段の部分が開園された。
 当初、東郷平八郎元帥邸が隣接しており、同元帥没後、東郷元帥記念会より寄付を受け、その地形地物を活かして造成され、昭和13年11月東郷元帥記念公園として開園した

遊具施設、健康施設があって、大人も子どもも楽しめそう。
左手が「九段小学校」。震災復興校舎で、現役の校舎。さくらの花が一輪、二輪とほころび始めていた。
「上六公園」を下に望む。けっこう高低差があり、子ども達が駆け上がったり下ったりして活発に遊んでいた。
古い樹木も多い。
学校帰りの小学生。学校と公園とが一体化している(当初の目的に適っている)。南側からの公園風景。奥の東郷元帥記念公園との高低差がはっきり分かる。


上六尋常小学校。東郷尋常小学校。九段小学校。(震災復興52小公園。その35。)

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 千代田区内では唯一残っている震災復興校舎。現存する数少ない復興校舎の中でも最古。公園側が正面玄関。



《九段小の沿革》(「九段小」HP参照)

明治36年 東京市上六尋常小学校認可。開校式。
大正12年 関東大震災のため校舎は全焼、重要書類は全部無事
15年 現在の鉄筋コンクリート建築の新校舎竣工し落成式を挙行
昭和 9年 名称を東京市東郷尋常小学校と改称
・・・
  21年 東京都九段国民学校と改称
  22年 東京都千代田区立九段小学校となる
・・・
  50年 校舎北側土手改修
平成 5年 東京都千代田区立千代田九段小学校となる
   6年 東京都千代田区立九段小学校となる
   7年 校章・校歌制定
・・・
  21年 本校校舎、経済産業省「近代化産業遺産」に認定

復興校舎の特徴をよく表している正面玄関の庇。
校庭側の外観。
円柱形の柱、放物線を描いたような丸窓、大きな窓等これまで見てきた復興校舎のスタイル(二つのパターンのうちの一つ)がうかがわれる。
通用門からの外観。外壁は塗装し直してある。
裏門の門柱と庇。
北側の階段(東郷公園からの坂)から見た景観。奥の建物の形状(土筆の塔?)が特徴的。


北側の土地(東郷公園)との高低差はかなりあり、崖になっている。
廊下には、書き初めがずらっと掲示されていた。

校内のようす。(「九段小」HPより)

 現在、施設整備計画が検討されています。基本設計計画が着々と進んでいるようです。

九段小学校・幼稚園施設整備計画

 教育委員会では、校舎・園舎の整備に計画的に取り組んでいます。このたび、竣工後約80年が経過している九段小学校・幼稚園について、施設の老朽化に対する改善と、良好な教育環境の整備の検討に着手しました。施設整備の検討にあたり、地域の皆さんや関係者等の意見を反映させるため、「九段小学校・幼稚園施設整備検討協議会(会長:田中康博氏(三番町町会会長))」を設置し、平成24年7月17日に第1回の会議を開催しました。
 これまで協議会では、施設整備における前提条件の整理について議論、整備手法の検討、校園舎整備にあたっての諸課題について検討を行い、第6回では、平成24年度に協議いただいた内容を踏まえたまとめを行いました。平成25年度初回となる第7回では、プロポーザル方式により決定した基本設計業者の紹介と、今後の検討の進め方について確認を行い、第8回及び第9回では校舎・園舎の敷地レイアウトについて検討を行いました。第10回では校園舎の建築物としての価値とその継承について委員の皆さんが感じる校舎の良さや思い入れを中心にご意見をいただきました。今後も引き続き、協議会委員の皆さんの意見を伺いながら、施設整備を進めていきます。
(「千代田区」HPより)
 
 こうした区の計画・方針に対して、同窓会や建築学会などから現状の校舎を保存すべきだ、全面改築への危惧などの意見具申や運動が起こっているようです。早急な決定を避けて、時間をかけてじっくり議論すべきです。かつての中央区立明石小などのように、行政主導での全面改築になっては取り返しがつきませんから。

有馬小。首都高浜町出口。弁慶像。久松小。(「浜町川」跡をたどる。その1。)

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 先日、「震災復興52小公園」めぐりで、「蛎殻町公園」・「有馬小」に行った際、有馬小の東、首都高下の路がかつての堀割「浜町川」であることを知り、今回、その跡を訪ねてみました。「半蔵門線・水天宮前」駅から「JR・秋葉原」駅まで。帰宅してネットを調べると、すでに何人もの方が探訪していて、写真も豊富。でも、めげずに報告。

2000年代のようす(「今昔マップ」より)。赤線が「浜町川」跡。最上部の川が「神田川」(赤丸)。神田川から分流した堀割と日本橋川から分流した堀割「龍閑川」を途中で合わせて、南下して隅田川に注いでいた川が「浜町川」。

有馬小。ここからスタート。


1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。矢印が「有馬小」。

緑道になっていて、頭上は首都高・浜町出口への道路。けっこう灌木など緑が多い印象。


舟を模した石組み。夏場などは水が流れているようす。


新大橋通りから南を望む。中央が首都高・浜町出口。
渡ると、モニュメントをくぐる。「久松警察署」まで本格的な緑道公園となる。
振り返ると、高層ビルが。
武蔵坊弁慶(歌舞伎十八番「勧進帳」)。冠木(かぶき)門が公園の出入口に。
説明板があり、「人形町」のいわれなどが記されている。
今の時期、水は流れていないが、夏場は涼しそう。
「漢方醫学復興之地」碑。
遊歩道としてゆっくり堪能できる路。

消防署出張所に突き当たって緑道は終わりになる。


通りを過ぎると、旧堀割は、久松小と道を隔てた公園に。
右が小学校側。
西側。歩行者専用道路をはさんで、こちらにも「久松児童公園」が広がる。堀割を埋め立てて作られているので、広く細長い。
併設の「久松幼稚園」側から南を望む。児童の帰りを待つ親子連れで公園は賑やか。

ビルとビルの間。路地裏の細道。龍閑児童公園。(「浜町川」跡をたどる。その2。)

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 久松小脇の公園を過ぎると、かつての堀割に民家が建ち並びます。
ここ辺りから細長く縦に二列で並んでいる風景に。町の境は、家と家。
来た道を振り返る。道の中央にくぼみに沿って地下に下水溝が通っているようす。旧河川を埋めた跡がこのようになっているのに出くわす。
右側の家屋がかつての堀割跡に建っている、と思われる(「浜町川」の東側半分)。
「問屋橋交番」(旧「堀割」の東沿い)。
交番脇の路地。(旧「堀割」上)。
交番を過ぎたあたり。細い路地の両側にパン屋、寿司屋など商店や小さな町工場などが並んでいる。昔のままのごみごみした雰囲気が残っている一角。
途中からは、ビルに変わる。
ビルとビルとの間の路地。ここもかつての堀割で、地下には下水管がつながっていて、東京都下水道局管轄の都有地となっている。

所々にこうした掲示板がある。
ほぼ直線で北に向かう。
車は通らない、自転車も通れそうもない細道。
「鞍掛橋」交差点(「江戸通り」国道6号線)。右手が浅草橋方向。
江戸通りを渡って南を望む。ビルとビルの間が来た道。
龍閑児童公園。この公園が「中央区立」と「千代田区立」という同名の公園という不思議な趣。ここが、区界ということになるため。
左から龍閑川が合流する。龍閑川は、現在、千代田区と中央区の区界の一部になっている。龍閑川跡の探訪もしてみよう!

1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。この時期には、上流部分は堀割になっていない。また、「龍閑川」もなくなっている。再掘削の直前の地図かもしれない。赤丸が合流点。

 龍(竜)閑川は、東京都中央区および千代田区にかつて存在した河川である。日本橋川より千代田区と中央区の区界に沿って北東に向かい、東神田付近から直角に折れ、浜町川を経て箱崎川、隅田川へと抜ける人工の堀であった。明治の掘割の際に神田川への流路も掘割されている。
 龍閑川が最初に掘割されたのは江戸時代の1658年である。その後一度堀は埋立てられ、1883年(明治16年)に再び掘割された。しかし戦後の残土処理のため1948年(昭和23年)から再び埋立が始まり、1950年(昭和25年)には埋立が完了し、水路としての龍閑川は完全に消滅した。

(以上、「Wikipedia」参照)

(注:「goo」昭和22年の航空写真では水路が写っている)。

 上の記事によれば、「浜町川」と「龍閑川」との関係は、「龍閑川」が「日本橋川」から北西に流れ、小伝馬町の先、現在の「龍閑児童公園」付近で直角に折れて、南下し(そこからは「浜町川」と称した。龍閑児童公園から北の部分は後に掘削され神田川と結んだ、というふうにも読み取れる。なぜ埋め立てられ、のちに再び掘削されたのか。江戸から明治、昭和前期にかけての水運との関連は興味深い。

大和橋。神田川取水口。(「浜町川」跡をたどる。その3。)

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 しばらく北上すると、神田川との合流地点になる。

1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。幅広い直線部分が、「浜町川」掘削地。

ビルの間を抜けていく。東神田1丁目付近。
正面のビルの建っているところがかつての流路。
道の真ん中にポール。都有地となっている。
「靖国通り」との三叉路。「大和橋」ガレージ。地下駐車場。
振り返って南側を望む。ひょろっとしたビルが流路跡に建っているビル。堀割の流れに沿い、微妙な曲線を描いてビルが並んで建っている。航空写真なら、整然と堀割「浜町川」上に建っていることがわかるはず。(「goo」昭和38年航空写真では、この辺り、建物が、貨物列車の一列につながっているように写っている。)
三角形の緑地が目印。
奥の路地が流路跡。
駐車場の正面奥が神田川との合流点。鉄柵が設けてある。
そこから来た道を振り返る。正面の細い道。この辺りに「柳原橋」があった。
神田川の反対岸から合流地点を望む。取水口のような趣。ここだけ緑の草が長く下がっているのが目に付く。

 それほど長い距離ではなかったが、けっこう変化に富んだ道筋。ここから西に向かってJR秋葉原駅に出ました。

 「龍閑川」(堀割)の日本橋川取水口付近の標高は約4?。「浜町川」との合流付近は約3?。「神田川」は約4?。南に流れて「有馬小」付近では約1?という標高差でした(「今昔マップ」参照)。

「龍閑橋」。「機銃掃射の跡(鎌倉橋)」。「今川横丁」。・・・(「龍閑川」跡をたどる。その1。)

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 今回は、堀割・「龍閑川」跡をたどることに。JR「神田駅」南口からJR「浅草橋駅」まで。二駅間ですからそれほどの距離はありません。約2?、歩いても25分程度の道のり。
 この川は千代田区と中央区の区界(かつての「神田区」と「日本橋区」)にもなっています。
 「龍閑川」「浜町川」の合流点「龍閑児童公園」付近からは川の流れからは関係なく、ジグザグしながら区界は浅草橋方向に進み、神田川に架かる「左右衛門橋」まで、「千代田区」と「中央区」との区界が続きます。浅草橋駅西口付近になると、「千代田区」と「台東区」との区界となります。

「竜閑橋」という名称の交差点(「外堀通り」)。
中央奥、「日本橋川」が少しカーブする辺り、赤丸のところがかつての堀割・「龍閑川」の取水口と思われる。「鎌倉橋」から望む。

 ところで、この「鎌倉橋」。
 日本橋川に架かり、大手町一・二丁目から内神田一・二丁目に通じる橋で、外堀通りにあります。関東大震災の復興橋の一つで、昭和4年(1929)4月25日の架橋で、長さ30.1m、幅22.0mのコンクリ−ト橋です。名前の由来は、江戸城を築くときに鎌倉から石材をここの河岸(内神田寄り)に陸揚げしたので、この河岸を鎌倉河岸と呼んだことによります。
「鎌倉河岸ビル」。
 また、この鎌倉橋には、日本本土土市街地への空襲が始まった痕跡が残っています。欄干には、昭和19年(1944)年11月の米軍による爆撃と機銃掃射の際に受けた銃弾の跡が大小30個ほどあり、戦争の恐ろしさを今に伝えています。
橋のたもとにある「説明板」。

(以上より。注:写真は小生の撮ったもの。)

銃弾の跡(赤丸)。
目に付くところにある(赤丸)。
 
 この橋も老朽化していて、新しく建てかえられる可能性もある。そのときに、こうした痕跡は、きちんと継承していって欲しい、と。

さて、ようやく「竜閑橋」遺構に戻ります。
説明板。

 もともと、神田の掘に架けられていた龍閑橋は、堀を埋め立てることで必要なくなりました。 同じころ、この付近に開かれた新しい川に、いらなくなった橋をそのまま架けたのが、現在の龍閑橋の地名の由来となっています。まだ無名だったその新川は、橋の名前にちなんで 「龍閑川」 と名付けられました。
今は無き龍閑川は、その昔、神田と日本橋の両区を分割するものでした。
 また、「龍閑」という名については、龍閑川の西端にあった町に、旧幕府坊主の「井上龍閑」と言う人の家があったことに由来します。

鉄筋コンクリート製のトラス橋が遺構として残されている。


1926年(大正15)年につくられた、日本最初の鉄筋コンクリート橋。
明治時代の龍閑橋(「説明板」に掲示されてあったもので、木橋。右の堀が「日本橋川」)。
1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
こじんまりとした公園に余生を送っている。
そこから日本橋川方向を望む。正面奥が取水口と思われる。

この道(「龍閑川」跡)が一直線に東に向かう。右が中央区、左が千代田区。
 

路地(区界の道)から西(日本橋川)を望む。
ビルとビルとの間に残る木造家屋。
JR線のガード。「白旗橋」とある。ガード下にあるお店は、ずばり「があどした」。
両側に小さなお店が並ぶガード下。「龍閑川」跡はこの路地を東に向かう。
振り返って望む。
「今川小路」と。立ち退きなどで昔の面影(「ガード下飲み屋小路」)はなくなりつつあるようだ。

今川橋。今川焼き。地蔵橋児童遊園。・・・(「龍閑川」跡をたどる。その2。)

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 ガードをくぐると、両側をビルに囲まれた道になります。

ビジネスホテルなどのある路地。かつての川筋が正面入口になっている建物もあるし、ビルの裏手になっていて、隠れ喫煙所になっているような所も。
再び飲み屋街に。

「今川橋跡」碑。

 元禄4年(1691)この地、東西に掘割開削され江戸城の外堀(平川)に発し、この地を通って神田川に入り隅田川に通じていた。始めは神田堀、銀堀(しろがねぼり)、八丁堀などと呼ばれていたが、後に江戸城殿中接待役井上龍閑が平川と掘割の接点に住んでいたので竜閑川とよばれるようになった。
 この運河は、江戸市中の商品流通の中枢としての役割は極めて大きく神田の職人町、日本橋の商人町は大きく栄えた。この掘割は、神田と日本橋の境界として11の橋梁がありこの地に架けられた橋は当時地元町人の代表であった名主、今川善右衛門の姓をとり、「今川橋」と名づけられたという。昔、東海道以外の街道を江戸より旅する時は、日本橋を発ち初めて渡るのが今川橋であった。
 昭和25年竜閑川の埋め立てと同時に今川橋も廃橋解体され、360年の歴史を閉じた。
 平成元年一月吉日 鍛冶町一丁目町会

1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

「今川橋由来碑」。
 
 今川橋が神田堀(別名神田八丁堀、龍閑川)に架設されたのは天和年間(1681〜83)との記録があります。橋名の由来は、当時の名主今川氏の尽力により架設されたのでその名が残りました。この橋は、日本橋から中山道に通じる重要な橋でもありました。
 神田堀は現在の千代田区神田・中央区日本橋地域の境を流れ、その役割は非常に大きく当時の運輸手段の主流でもありました。
 昭和25年(1950)龍閑川は埋め立てられ、300年近く慣れ親しんだ今川橋も撤去され、現在はその面影もありません。
 左図の絵図は江戸時代末期頃の界隈風景です。この橋辺には陶磁器をあきなう商家が立ち並び、大層賑わったといいます。

注:中山道は、「日光街道」の誤り。
中央通りを渡ったところにある記念碑。「今川橋のあとどころ」

 おなじみの「今川焼」は、今川橋付近の店で売り出されたことによる命名、らしい。

 「今川焼き」

 小麦粉、玉子、砂糖を水で溶いた生地を鉄や銅製の円形に窪んだ焼き型へ流し込み、餡を包埋して、高さの低い円筒形ないしは分厚い円盤状に焼成したものである。全国各地で同様な食品が様々に呼称され、固定や常設の店舗だけではなく神事や仏事に限らずいわゆる祭りの露天屋台で販売される場合も多く、日本人になじみ深い菓子である。
 「今川焼き」の名称の由来に確たる史料はないが、今日主流とされる説に以下が挙げられる。
 江戸時代中期の安永年間、江戸市内にかつて存在した竜閑川に当地の名主今川善右衛門が架橋した「今川橋」近隣の神田側に実在した神田西今川町や神田東今川町の店が、これらの焼き菓子を発売して高い評判を呼び、後に「今川焼き」が一般名詞化して広がったとされている。(以上「Wikipedia」参照)

 ここが発祥の地であったとは知りませんでした。ただし、我が家の近所のお店は、「大判焼き」とか名付けています。各地でいろいろな呼び名があるようです。

そこから西方向を望む。正面の細い道がたどってきた道。左が中央区、右が千代田区。
しばらく路地裏のような道を進む。
小さな祠付近から西を望む。
行く手には、首都高の橋脚。右が中央区、左が千代田区。
竜閑川埋立記念碑(千代田区神田・中央区日本橋)
裏面。そこには、龍閑川の歴史と埋立の経緯が記されている。

・明治16年に再び掘って防火用雨水用としたこと。
・戦前から下水より汚水が流れ込み悪臭を発散しゴミを捨てるため蚊やハエ等がわき衛生上宜しくなく川は無用のものとなったこと
・東京都は第二次世界大戦直後川底に下水管を埋設して戦災焼残土を以て埋め立て宅地をつくり復興を促進したこと
・昭和25年埋め立て工事が竣工し大事業(600間、幅7間、約4,800坪の埋め立て工事)が完成したこと。
・今回、地蔵橋際児童遊園の東北際に記念碑を建立したこと
・この埋立は実に千代田、中央両区の握手であって、昔は川今は竜閑新道を中心に土地の発展に尽くすこと

緑(千代田区)と白色(中央区)で両区が区分けされている。「現在地」が記念碑のある地蔵橋児童遊園。
児童遊園(「昭和通り」際)。
中央の道が「龍閑川」跡。向こう側が中央区、手前側が千代田区。 

 ただ、どうも記念碑ごとに記されている内容に微妙な違いがありそう。はたして史実はどうか?

地蔵橋。十思公園。・・・(「龍閑川」跡をたどる。その3。)

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 昭和通りを渡ると、興味深い記念碑がありました。
「神田八丁堀跡」碑。

 明暦3年(1657)本所の振袖火事の大火ののちまず防火のために8丁(約870?)にわたる土手が築かれました。
 天和3年(1683)頃になると、土手のそばに広道(明地)ができました。
 その後、元禄4年(1691)頃になると、町人達が自ら費用を負担して明地に堀割を開削しました。これが神田八丁堀です。神田と日本橋の境となっていました。
 白銀町(しろがねちょう)堀とも呼ばれ、のち竜閑川と名づけられ千代田区と中央区の区界になっています。
 堀割は東京都千代田区合同庁舎(千代田区内神田2−1)の南側あたりの外堀(現在の日本橋川)から分かれて東北東に続いていました。
 東神田1丁目の所から南南東に向きをかえ、新堀(のちの浜町川)となって日本橋浜町で大川(隅田川)に注いでいました。
 のちには東神田1丁目の所から北北西に流れる水路も開かれて神田川ともつながっていました。

 この堀には西から竜閑橋、白旗橋、西仲之橋、今川橋、東仲之橋、地蔵橋、火除橋、九道橋、甚平衛橋、小出橋が架かっていましたが、終戦後に堀が埋め立てられた時に廃橋となりました。この標識が建っている辺りにはかつて地蔵橋が架かっていました。
 平成14年3月建替 千代田区教育委員会

 おそらくこの内容が史実に即したもののように思われます。

 年表風にまとめると(ここまでの沿道のいくつかの記念碑に記されている内容を加味して)、

・明暦3年(1657)明暦の大火(振袖火事)後、防火のためにこの地域のほぼ東西方向に8丁の土手が築かれる。(「火除橋」がその事情を示している)

・天和3年(1683)土手のそば(北側)に明地ができる。

・元禄4年(1691)明地を町人の費用負担で堀割を開削し、東北東に進み、東神田1丁目付近から南南東に向きを変え、隅田川につないだ。(その時尽力した人の名が、「今川」「甚兵衛」「小出」などの橋名になった)

・安政4年(1857)土手を崩して水路を埋め立てる。

・明治16年(1883)再び開削され防火用・雨水用とした。
 その際、東神田1丁目付近から北北西に水路を開き、神田川と結んだ。(「歴史的農業環境閲覧システム」1880年頃の地図を参照)

・その後、しだいに下水が流れ込み、ゴミ捨て場と化し、悪臭漂う不衛生な川になった。

・昭和20年(1945)?第二次大戦終了直後下水管を埋設して川を埋め立て、宅地化する事業が始まる。

・昭和25年(1950)埋め立て工事が完成する。(区界として旧堀割の一部を「竜閑新道」として整備する。)

 したがって、「浜町川」は「龍(竜)閑川」の一部ととらえる方が正しいと思われます。
 その後、東神田1丁目付近から南の水路は「中央区」に属し、地域に因んで「浜町川」と呼ばれるようになった、と。
 また、神田川から隅田川までの水路全体を「浜町川」とするのは正しくないようだ。東神田1丁目から神田川までは、「新堀」というべきか。

東に向かって進みます。
ビルとビルの間に、細い道が続く。
西を望む。左が中央区、右が千代田区。
所々に古いモルタルつくりの民家が残っている。


小伝馬町付近。正面の細道が「龍閑川」跡(「龍閑新道」)。左奥に「伝馬町牢屋敷」が広がっていた。


1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 左中央の大きな空間を中心として広がる一帯が、「伝馬町牢屋敷」の跡地。空白になっているのは、なかなか跡地の土地利用が決まらなかったためのようだ。現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、旧十思小学校、十思公園一帯にあたる。上方と右の明地は、当時、埋め立てられている「龍閑川」(「浜町川」)。
 「伝馬町牢屋敷」の周囲は堀で囲まれていたとのことで、「龍閑川」の水が利用されていた可能性もある。
「十思公園」(「震災復興52小公園」の一つ)。
「十思スクエア」(旧「十思小学校」当時の震災復興校舎を生かす)。

振り返って望む。

 まもなく「龍閑児童公園」へ。

龍閑児童公園。千代田区と中央区との区界。・・・(「龍閑川」跡をたどる。その4。)

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古い家屋。屋上のコンクリート製の手すり。
奥の突き当たりが「龍閑児童公園」。この辺は、問屋街。
西側を振り返る。左が中央区、右が千代田区。
日本家屋風のトイレ。ここには、「千代田区」と表示が。
石橋のモニュメント付近が西からの流れが直角に南に折れるところ。このあたりは、「中央区」の立て看板。


1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。この時期には、上流部分は堀割になっていない。また、「龍閑川」もなくなっている。1883(明治16)年、再掘削の直前の地図だろう。赤丸が合流点。

堀割跡の道路(都有地)から北を望む。中央線が両区の区界になっている(左が中央区、右が千代田区)。この辺で、区界は広い道路を北東に向かう。
左が千代田区(北側)、右が中央区(南側)。
ビル街。
古びた街並み。「エトワール海渡」関連のビルが区界を越えてあちこちに。
古い趣の店構え。

「靖国通り」に出て、JR浅草橋駅西口へ。

神田川に架かる左右衛門橋。ここが台東区と千代田区の区界。左が千代田区、右が台東区。
神田川。左衛門橋から東を望む。右岸が中央区、左岸が台東区。
橋のたもとにある「旧町名由来案内」。「浅草上右衛門町」と「浅草左衞門町」。左衛門町は、明治25年成立。

身勝手なのはマスコミの方ではないでしょうか?

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新垣氏ざんげも高橋大輔に身勝手エール(日刊スポーツ) - goo ニュース

?桐朋学園大の新垣(にいがき)隆講師(43)
?ざんげ
?身勝手ともいえる心境
?高橋にとっては最悪のタイミング、高橋を動揺させる可能性は否定できない(「日刊スポーツ」)

?は、マスコミが容疑者扱いするときの表現。氏名・職業名。
?も同類の表現。
?、?は、断罪、批判。「ともいえる」「否定できない」と逃げを打ってはいるが。

 「物語」から生み出されたものが高く評価される、というのはしばしば起こりうること。作品そのもの評価よりも付加価値が大事。そういうことでは、NHKをはじめ、多くのマスコミは共犯者ではなかったか!

・昨年夏に来日公演し、佐村河内さんの合唱曲とされていた「レクイエム ヒロシマ」を歌った米ニューヨークの青少年合唱団の関係者からは、驚きとともに、「音楽の美しさに変わりない」との声も聞かれた。(「毎日新聞」)
 ここが大事なのではないか。

・「世間をあざむいて発表してきました。私は共犯者です」と自身を厳しく断罪した。(「デイリースポーツ」)

 新垣さん。作曲はもちろん、編曲も行う。いい曲も書いている(とは、知人の話)。作曲家として自身の名でも立派に通用する方、だとも聞く。というのも、名前が出てビックリ!この方と懇意にしている(らしい)人物と知り合いだから。

 700万円もらっていた、とかで、世間を欺いた共犯者扱いとして指弾されるのは仕方がないが、「『ゴースト』新垣」という表現は、ないでしょう(ゴーストライターはまだしも)。
 世間では、有名人の「自伝」とかはもちろん、某有名宗教団体のトップの書き物はほとんどゴーストライターのものするものだということは承知しているはずですから。

 さらに気になるのは、「耳が聞こえない」ことはなかったという証言によって、多くの聴覚障害者があらぬ疑いやからかいの対象、ひいては制度批判になりはしないか、ということ。
 また、当然のように、最初からたいした作品ではなかったと感じていた、と「HIROSHIMA」などの作品を、原爆被害者へのあてこすりなど派生しつつ、批判することになっていく。

 マスコミが自分たちへの厳しい目線をそらせるために、今度はそういう方向に走りはしないか、と。
 

港区立桜田公園。・・・そして大雪。(震災復興52小公園。その36。)

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 港区にあった「震災復興52小公園」二箇所の現状報告。それぞれ公園は大きく変化し、またどちらも併設の小学校は廃校になっています。桜田小校舎は「生涯学習センター」として大改修、南桜小の跡地はもともとの公園と一体化して、大きな公園となっています。

?桜田公園(桜田小学校)


 関東大震災後の震災復興都市計画事業でつくられた55箇所の公園のひとつです。東京市により昭和6年に開設され、昭和25年10月1日付で東京都より港区が移管を受け、管理を行っています。
 当初は桜田小学校に隣接して開設されましたが、平成3年3月に小学校は統廃合により廃止されました。(「港区」公式HPより)
 注:ここでは、公園の数が「52」ではなくて「55」となっている。

上の赤丸が桜田公園、下の○が「南桜公園」。

案内図。新橋駅から至近距離。

小学校のときの運動場のラインがそのまま残っている。

「港区生涯学習センター」。工事中のため、全面シートに覆われている。
「同」工事前のようす。(「港区」公式HPより)

遊具コーナー。サラリーマン達の憩いのスペースという感じ。グランドは駐車場としても利用されている。
かつての趣とは異なっているようだ。

1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。右手がJR「新橋」駅。校舎の西側部分は取り壊され、東側の一部が「生涯学習センター」として活用されている。



出かけたときは、真冬とは思えないぽかぽか陽気の一日でした。

 そして、今日2月8日(土)。大雪警報が出されました。北国から見ればたわいないような積雪ですが。
お昼過ぎ。
およそ1時間後。
それから1時間後。
それでも車の轍が。
柚の木にヒヨドリが来て実をついばんでいる。


これは、我が家のネコの足跡。さっと飛び出しさっと戻ってきました。

そして5時過ぎ。
独特の色合いに。

 これからまだまだ降るそうです。明日のお出かけはどうしませうか?

売られたけんかは買う、かどうか。したたかな連中を相手に、さて橋下さん。

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橋下氏、公明の対立候補に? 衆院選「とことん行く」(朝日新聞) - goo ニュース
 怒り心頭に発する、ということか。でも、公明党が自分の言うことを聞く、約束を守る、ということを「信じた」己の浅はかさな「宗教」心を反省すべきです。
 公明党は前回の総選挙で全滅。「常勝」が「全敗」なのだから関西の(全国の)学会員は意気消沈。そこで、この間の総選挙では「常勝」関西の面目に掛けて今度は一つも負けられない、と「完勝」すべく、ど素人(非宗教的人間)・橋下をうまく丸め込み、(知事選での担ぎ出しのときのことにもかこつけて)維新に近づいた。
 もちろん、自民党が憎っき民主党を打倒、政権に奪取することも計算済み。当然、選挙区でも自民党に学会票を回して、自らもかつての自公政権を再び樹立し、与党入りを目指す・・・。
 そして結果、維新が候補者を立てなかったことで、見事、完勝。もちろん、橋下の慰安婦発言によって思いがけずおもいがけず急落した橋下人気をうまく見透かして。「維新」候補が対立候補として出ても、勝ったのはこちらの方だ! あんたのおかげではないよ!
 いつしか自民党にぴったりすり寄って、自公政権復活。地方議会では自公はどこでも足並みは一緒。今回もそこに落ち着いただけのこと。
 
 ぜひ橋下さんが公明党の対立候補として「死ぬまで」立候補してほしい。これくらい脅せば、彼らはまたこちらに協力するだろうなんて、実に甘〜い考えです。
 一方で、次の選挙目当てで、橋下維新に再びすり寄る、それぐらいの無節操は彼らは平気でやりかねない。なにしろ「常勝」という言葉に縛られて、蠢く方々ばかりだから。
 彼らは。敵にすると恐ろしいほど知恵の働く「人間」らしい宗教心を持った方々です、油断召されるな!
 

南桜公園。(震災復興52小公園。その37。)

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?南桜公園(南桜小学校)



1970年頃のようす(「同」より)。↓が「南桜公園(南桜小学校」、→が「桜田公園(桜田小学校)」。

東南方向から公園を望む。けっこう広いスペース。


都会のど真ん中にこれだけの開放的な空間はなかなかありそうにもない。


ベンチ。
公園案内板。
芝地区旧町名由来板。
 
 公園内には、廃校になり、校舎自体も完全に消滅した「南桜小学校」当時のものがいくつか残されている。
安倍能成書の「みんな手をつないで」。
「創立80周年記念碑」。
二宮尊徳像。かつては多くの小学校で見かけたが。裏手が喫煙スペースになっていて尊徳さんのお尻を見ながらタバコをくゆらせている。
桜の古木。かつて、校庭・公園を彩っていた。
ソメイヨシノの古木。


南桜公園と南桜小学校の説明板。かつてのようすを示す写真を掲示してある。これは公園全景。建設当時のままに学校と公園が一体化している。
南桜小学校、在りし日の校舎(震災復興校舎)。

御徒町公園(御徒町台東中)。なんじゃもんじゃの木。朝顔市。・・・(震災復興52小公園。その38。)

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 残っていた三つ。

?台東区立御徒町公園(旧御徒町小学校→御徒町台東中)

 御徒町の賑やかな通りをちょっと入ったところ。「多慶屋」の裏手にあたります。日中のせいか、大人の姿が目立ちました。せわしなく行き交う人。たたずむ人。・・・ 
神社の脇の池。
フェンスを隔てて中学校。以前のような関連性はなさそう。
 右端に見える木が「なんじゃもんじゃの木」。10メートル以上にもあるように見えるこの大木は、有名らしい。
なんじゃもんじゃの木。

説明板。

 この木は、俗に「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれ、朝鮮・中国にも分布していますが、日本では本州木曽川流域と九州(対馬)に知られている珍しい木です。昔、代々木青山練兵場にあった大木より株分けして、台東4丁目の荒沢瑛治郎氏が大事に育てたものです。
 木の高さは10メートルを超え、4,5月頃には雪が降り積もったような白い花を咲かせます。
 珍木であるため、異称が多く、ロクドウボク(六道木)、アンニャモンニャ、フタバノキナタオラシなどとも呼ばれています。台東区

 ナンジャモンジャとは、見慣れない立派な植物、怪木や珍木に対して地元の人々が付けた愛称。すなわち、特定の植物の種名ではない。ヒトツバタゴを指すことが多いが他の樹種の場合もある。(「Wikipedia」より)
 今では、都内の公園などにも植えられているようです。
 この公園のは、「ヒトツバタゴ」。真冬なので、その名に反して、葉が一つもなく残念。小さいプロペラのような白い花をたくさん咲かせるようです。

 こんな風に咲くらしい。

http://www.hana300.com/nanjam.html様よりお借りしました(この写真は、江戸川区清新町緑道にあるもの)。
「パーゴラ(pergola)」つる棚は、健在。
右奥が中学校。
テラスのようになっている。
整然とした並び。これも復興公園にはよく見かける。
公園内外の仕切りが低くなっているのも、特徴の一つ。

「御徒町」の由来板。
 
 この付近一帯は、徳川三代将軍家光(1623〜1651)のころ、徒士(かち)組の屋敷地でああった。徒士組とは徒歩組、歩行組ともいわれ、徒歩で主君にお供したことにもとづく名称である。江戸幕府の職制では若年寄に属し、その職務は将軍外出の際の沿道警備、江戸城中玄関廊下の警戒であった。
 この地は、江戸末期に至るまで徒士組の屋敷が多かったことから、御徒町、徒町と呼ばれるようになって、明治5年(1872)徒士組屋敷および周辺の武家屋敷などと併せ、御徒町は正式に誕生した。
 文化文政(1804〜1830)のころ、この付近では朝顔作りが盛んであった。今でこそ、朝顔といえば入谷であるが、この地こそ朝顔作りの発祥の地である。

 下級武士、つまり騎乗が許可されない武士である徒士が多く住んでいたことに由来しています。彼らは、御徒町周辺において屋敷というよりも長屋に住み、禄(現在の給与)だけでは家計を賄い切れず内職をして生活していました。その内職の一つが朝顔作りであったようです。

 
 
 左が1880年頃のようす、右が1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 朝顔市
 この入谷の朝顔が有名になったのは江戸末期の文化・文政の頃です。最初は御徒町の下級武士、御徒目付の間で盛んに栽培されておりましたものが、御徒町の発展と江戸幕府の崩壊に伴いまして、入谷に居りました十数件の植木屋が造るようになります。そしてその出来栄えが大変素晴らしかったので、明治中期になりますと、往来止めをしたり、木戸銭を取って見せるほど有名になります。なぜ入谷の朝顔がこんなに盛んになったのかと言いますと、入谷田圃の土が朝顔造りに適していたこともありますけれども、当時流行しました朝顔と言いますのは「変わり咲き」です。この「変わり咲き」と言いますのは朝顔の花が、桔梗の花のように咲いたり、牡丹の花のように咲いたり、二重に咲いたりして、花粉の交配によって色々な花を咲かせる事ができたので、最盛期には一千種類もの朝顔があり、変化にとんだ花を咲かせ楽しませてくれてたのであります。
 もちろん現在のような丸い朝顔も江戸末期には大輪咲き朝顔とし盛んに栽培されておりましたが、変化咲き朝顔の不思議な美しさが江戸の人々にブームを巻き起こします。当時の模様を下谷繁盛記(大正三年明治教育社発行)によって観ますと、「入谷の朝顔の全盛を極めたりしは、明治二十四・五年頃にして、其の頃は、朝顔を造る植木屋十数件を数え、入谷の通りは、毎朝、往来止めとなる程なりし也。殊に、当時は、周囲一面の蓮田を廻らしたれば、涼しき朝風に吹かれ乍ら、朝顔を見又蓮の花を見るを得たり敷かば、観客頗る多く、非常の盛況を呈したり。」と記載されております。また、明治二十年七月五日発行の朝野新聞には、「府下にて朝顔の名所といえば誰も入谷たることを知る位なるが、同商も追々欧州植物培養の方法に倣い近年は頗る進歩し、昨年の出来に比較すれば、本年は余程の上出来にて、来る十五日より縦覧さする由なるが、本年は品数も数百種の多きに及び、頗る見事なるべしといえば、朝寝坊先生は早起きして此の美花を観玉へ。」とあるぐらい有名に成ります。
 ところが、このように大変盛んに造られておりました入谷の朝顔も、世情が怪しくなって来ました大正二年意地づくで踏み留まっていた植松(植木屋)の廃業を最後に、とうとう入谷の地から姿を消してしまいます。それに伴い変化朝顔もいつしか人々から忘れられて現在のような円形の朝顔えとその主流は変わって行きます。そしてそれから三十五年立ちました昭和二十三年、戦後のすさんだこの世の中を少しでも明るくしようと言うことで、地元有志の方と下谷観光連盟(昭和25年)の協力を得て、江戸情緒豊かな夏の風物詩、入谷の朝顔市が復活したのであります。


公式HPより)

旧御徒町小学校の跡地につくられた「御徒町台東中学校」。

京急・仲木戸駅。高島貨物線。横浜ノースドック。瑞穂橋。久々の廃線発見の旅。横浜その1。

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横浜 2月11日。
 お祝い事があって、JR「東神奈川」駅近くまで。ここは、JR線と京急線が高架橋で結ばれていて、乗り換えに大変便利。でも、近いのにまるで駅名に関連がない(都内足立区の京成線・関屋駅と東武線・牛田駅のよう)。
 終わって、帰り道。ちょっと寄り道。港の方向へ。先日の大雪が道ばたにはまだまだ残っていて、それでなくても肌寒い午後でした。そこでの発見。
 といっても、ここは廃線マニアには有名なところ、とあとで知りました。
「村雨橋」から南側を望む。運河の入り組んだ港町。
西側を望む。高速道路付近がかつての海岸線。昔の海岸線沿いに今でもお寺が並んでいる。


1880(明治13)年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「神奈川砲台」の上方、海の部分が今回歩いた辺り。左側の陸地に京急線、JR線がある。

途中の広大な「神奈川水再生センター」敷地にあった煉瓦造りの暗渠。
側面。
説明板。
 明治17年外人居留地であった関内山下町付近にあった約4?の暗渠の一部。近代下水道の模範として最も古いものだそうだ。

前方の踏切を貨物列車が通過する。
「千鳥橋」からの眺め。右に貨物線(「鶴見」と「桜木町」を結ぶ高島線)。


三井倉庫への引き込み線。海陸両面に通じる運搬手段として鉄道(貨物輸送)が大活躍していた。
三井倉庫群の裏手(運河沿い)。

「瑞穂橋」沿いに残る貨物線の橋梁。
 かつての瑞穂埠頭への貨物支線を転用した在日米軍基地「横浜ノース・ドック」専用線が高島線・信号所から分岐し、燃料輸送に使用されていた。すでに役割を終えたが、そのまま残っている。
1970年頃のようす(「同」より)。左上よりカーブして運河を越えている。

倉庫への道路に架かる鉄橋(「瑞穂橋」の手前にある)。
同。

橋梁から西北側を望む。線路は右にカーブして「高島線」と合流していた。
かつては複線で、現在残っているのは単線。

橋梁方向。
正面が在日米軍基地。
「United States Army Yokohama North Dock Gate 1」在日米軍港湾輸送施設。


管 理 在日米陸軍施設管理本部、在日米海軍横須賀基地司令部
 この施設は、第836米陸軍輸送大隊、在日米海軍横須賀補給センター、日本区域艦船支援隊等が使用している。
 ふ頭地区では、大型・小型船舶用バース、野積場、倉庫等があり、物資の搬出入や軍人・軍属等の移動に伴う貨物輸送業務等が行われている。
 郵便地区では、極東からペルシャ湾に至る米海軍関係の郵便業務を行っている。
 また、陸上自衛隊が建物 約1,870m2を共同使用している。

(参考)最近の入港実績

年度   入港実績(隻)

平成18年度 59
平成19年度 50
平成20年度 58
平成21年度 40
平成22年度 27

*昭和40〜45年の年平均 802.3隻

《経過》
昭21. 4.15 ふ頭地区と郵便地区が接収された。
昭47. 2.16 広域避難場所に指定された。
昭47.12.21 日米合同委員会において陸上自衛隊の共同使用が合意された。
昭48. 3.14 日米合同委員会においてモータープールの返還の合意がされた。
昭48. 3.31 制限水域の一部(幅30m、長さ1,046m)が返還された。
昭49. 2. 8 モータープール代替施設建設工事が完了し、モータープール (99,563.67m2)が返還された。平 7. 3.27 瑞穂橋架け替え工事が完了し、供用が開始された。
平 7.11.24 施設内への進入路建設のための共同使用を申請した。
平 7.12.12 埋立工事(第1期・約30,900m2)がしゅん工した。
平 7.12.25 水域の一部(約30,900m2)が返還された。
平 9. 1.13 グアムから機能を移転した米海軍横須賀補給センターの定期輸送業務が開始。
平 9. 6.26 沖縄の実弾射撃訓練の本土移転に伴う、砲・車両等の陸揚げが行われた。 (以後、年1、2回の陸揚げが行われている。)
平 9. 9.26 横浜冷蔵倉庫の代替倉庫が提供された。
平10. 6.18 日米合同委員会において、公共バースへの進入道路建設のための共同使用が合意された。
平11. 2.25 公共バ−ス建設の為の地先埋立工事(第2期・約138,000m2)がしゅん工した。
平12. 3.31 日米合同委員会において、神奈川ミルク・プラントの返還条件である代替冷蔵倉庫の提供について合意された。
平14. 6.25 公共バースへの進入路の供用が開始された。
平14. 8.25 米陸軍所有の舟艇5隻が保管のため、施設内に搬入された。(以後、平成16年9月までに舟艇32隻が搬入されている。)
平18. 6.30 同施設に所在していた極東地区軍事海上輸送司令部がシンガポールに移転した。
平21. 3. 5 日米合同委員会において一部土地等の返還が合意された。
平21. 3.31 土地等の一部(土地 約27,000m2、水域 約2,500m2、瑞穂橋等)が返還された。
(以上、HPより)

 全面返還されるよう、交渉も進んでいるようだが、その暁には大規模な再開発が行われるようだ。

「瑞穂橋」からの眺望。みなとみらい地区。

運河の岸壁。廃線橋梁。東高島駅。・・・久々の廃線発見の旅。横浜その2。

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 少し戻って、南から西の方へ。この道路は最近できたようだ。

 
「三井倉庫」裏手の運河沿い。
「コットンハーバータワーズ」4棟と「コットンハーバー マリナゲートタワー」1棟からなるマンション群。
「三井倉庫」の岸壁。煉瓦造りの部分などがあって、かなりの古さを感じる。左手が貨物線。
運河側から望む。右手が「三井倉庫」。
「会社道踏切」。

廃止となった鉄道線の橋梁。1959(昭和34)年までは、東神奈川駅へ向かう貨物支線として存在していた。
ゴルフ練習場(当時の地図では変電所の施設があったようになっている)の脇を通って東神奈川駅方面に向かっていた。

1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。運河を斜めに渡っているのが、「東神奈川駅」からの貨物線跡で、中央に大きく広がる「東高島駅」に通じていた(当時はすでに廃線)。

運河に架かる橋梁のみ残っている。ぜひ今後も保存してもらいたいものだ。

鉄橋を通過する電気機関車(実は、その向こうの本線を通過している)。

 その機関車の向かう先に「東高島駅」がある。
「東高島駅」という標識。
 現在は、車扱貨物の臨時取扱駅となっており、貨物列車の発着はなくなっている。


《駅の概要》(以下「Wikipedia」参照)
 鶴見と桜木町を結ぶ貨物線である「高島線」の中間駅で、当駅より鶴見方は複線、桜木町方は単線となっている。通常運転停車のできない桜木町駅に代わって一部の貨物列車が当駅で運転停車や上下交換を行う。当駅は2005年(平成17年)度を最後に貨物の発着実績がなく、信号場としてのみ機能している。

《歴史》
 当駅付近に最初に線路が敷設されたのは、横浜鉄道(後の国鉄・JR横浜線)が東神奈川駅から貨物線を延長してきたとき。
 1910年(明治43年)10月に東神奈川からの線路が延長され、海岸側に設置された海神奈川駅は1911年(明治44年)12月10日に正式開業した。これは横浜鉄道の創業者グループが別に経営していた横浜倉庫の倉庫や岸壁との連絡を狙ったもので、現在、高島線が通過している千若町二丁目の埋立地は、横浜倉庫が埋め立てを行っている。
 その後、鶴見と高島を結ぶ複線の貨物線が1917年(大正6年)6月17日に開通した。
 1923年(大正12年)9月1日には関東大震災が発生し、その復興を兼ねて1924年(大正13年)10月1日、東神奈川 - 高島間の貨物支線上の駅として東高島駅が開業した。東高島駅は構内の周囲を運河に囲まれており、水陸連絡貨物を主に扱った。敷地は、元々神奈川台場として造成されたもので、その上に覆土を行って線路を通した。

 1934年(昭和9年)6月15日に高島と山内町(後の横浜市場)を結ぶ2.6 kmの貨物線が開通した。東高島構内まで本線と並行し、そこで南へ曲がって横浜市場駅へ通じる構造であった。
 1935年(昭和10年)7月15日には入江と瑞穂を結ぶ2.8 kmの貨物線も開通した。
 1955年(昭和30年)1月17日に、東高島駅はそれまでの東神奈川 - 高島間支線の駅から、高島線上の駅に所属変更された。これに伴い、東神奈川からの線は東高島終点となった。また瑞穂への支線も東高島駅分岐になり、横浜市場への支線も東高島駅分岐になった。
 しかし、横浜線の貨物輸送量減少に伴って東神奈川と東高島を結ぶ貨物線は不要となり、1959年(昭和34年)4月1日に廃止となった。さらに米軍が占有して使うようになった瑞穂埠頭にあった瑞穂駅へ通じる貨物支線は1958年(昭和33年)5月1日付で国鉄の路線としては廃止となった。その後米軍の専用線としての使用が続けられた。
 その後、貨物輸送の形態の変化に伴って横浜臨港線関連の貨物輸送は減少していき、1982年(昭和57年)11月15日付で横浜市場への貨物支線も廃止となった。
 1987年(昭和62年)4月1日付で国鉄分割民営化により日本貨物鉄道(JR貨物)の駅となった。隣接する高島駅は1995年(平成7年)2月27日に廃止となり、同時に東高島 - 高島間が単線化された。これにより東高島駅は複線と単線の接続する駅となっている。

《年表》
1917年(大正6年) 6月17日 - 海神奈川信号扱所開設。高島線と、東神奈川駅と海神奈川駅を結ぶ貨物支線の平面交差地点。海神奈川駅構内扱い。東神奈川駅と高島駅を結ぶ連絡線が開通。
10月1日 - 横浜鉄道が正式に国有化。
1923年(大正12年)2月1日 - 専用線発着貨物の取扱を開始。
1924年(大正13年) 1月1日 - 海神奈川駅から独立、千若信号場となる。
10月1日 - 東神奈川 - 高島間の貨物支線上の駅として東高島駅開業。
1934年(昭和9年)6月15日 - 高島 - 山内町間開通、実質的には千若信号場で分岐。
1935年(昭和10年)7月15日 - 入江 - 瑞穂間開通、実質的には千若信号場で分岐。
1955年(昭和30年)1月17日 - 東高島駅の所属を高島線に変更、千若信号場を統合。瑞穂への支線、横浜市場への支線が当駅分岐扱いになる。東神奈川からの支線が当駅終点となる。
1958年(昭和33年)5月1日 - 瑞穂駅への貨物支線が廃止され、在日米軍専用線に転用。営業範囲を小口扱および車扱貨物(ただし、小口扱貨物は同停車場接続駐留軍専用線発着のものに限る。)とする。
1959年(昭和34年)4月1日 - 東神奈川駅への貨物支線が廃止。
1970年(昭和45年) 9月15日 - 高島線電化開業。
10月1日 - 電気機関車による貨物列車牽引を開始。
1982年(昭和57年)11月15日 - 横浜市場駅への貨物支線が廃止。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により日本貨物鉄道の駅となる。
1995年(平成7年)2月27日 - 当駅と高島駅の間が単線化。

(「Wikipedia」より)

右手に見えるのが、かつてのホームの屋根。
運河側は駐車スペース。
ゴルフ練習場の岸壁。煉瓦造りのところもあって、かなり古い。


「龍宮橋」大正12年の架橋。遠くに廃線となった橋梁、その奥が「三井倉庫」の建物。
「星野橋」付近にある「案内図」。上部の四角形の部分を歩いた。

2000年代初め頃のようす(「今昔マップ」より)。赤い線が1900年代初め頃の海岸線、赤丸が「神奈川砲台」のあったあたり。

 この付近はまだまだ見所満載のところ。近々また来ようと思っています。


入谷公園(入谷小学校)。現金杉公園。金杉通り。(震災復興52小公園。その39。)

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 台東区は、あと一つ「入谷公園(現・金杉公園)」が残ってしまった! そこで、先日。

?入谷公園(現金杉公園)入谷小学校(すでに廃校。現柏葉中学校)

 全面的な改修工事が行われたようで、かつての面影はなく、明るく開放的な公園。乳幼児連れの親子が大勢いて、遊んでいました。
砂場の上のふじだな。
右手が球技場、左手が遊具のある公園。奥に見えるのが、「柏葉中学校」。
中学校側から公園を望む。もともとあった「入谷小学校」の校舎はなくなり、「柏葉中学校」のグランドとなっている。


もともとあった(?)古木。
柏葉中学校用の災害用倉庫が二連。
震災復興公園の面影は見当たらなかった。

 公園の位置は、町名では「入谷」。公園名は西側の道路「金杉通り」にあやかったもの。「金杉通り」にはかつて上野駅東側から続いていた都電が通っていた。
1910年代後半から20年代前半。「昭和通り」が出来る前のようす(「今昔マップ」より)。「金杉通り」が上野から三ノ輪へ通じる幹線道路であったことがわかる。
1920年代後半から30年代。「昭和通り」が完成後のようす(「同」より)。赤丸が「入谷小学校」の位置。赤い線が市電(のち都電)の路線。

 注:昭和通りは関東大震災の復興事業として計画、建設された道路。当時東京市市長だった後藤新平の原案では道幅を108メートルとするものであったが、広い道路の重要性が当時は受け入れられず、結果現在の道幅に狭められ1928年(昭和3年)に完成した。(「Wikipedia」より)

「三ノ輪」方面を望む。
上野駅方向を望む。

昔ながらの商家。

新花公園(湯島小)。(震災復興52小公園。その40。)

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 東京地方、いやオール関東で先週の大雪が溶けないうちに、またしても大雪。夜明け前から大雨。今度は大雨洪水警報が各地に出される始末。風も強い。
 そんな中、近所の子ども達が登校する姿がちらほら。雪道で傘を差して・・・。土曜授業をやっているせいらしい。雪道で行き惑う低学年の子ども。子どもは行かないわけには(学校もやらないわけには)いかないのかね。いつも見慣れた朝方の風景も、今朝はちょっと同情。

 こちらは、先日、ちょっと肌寒かった日に出かけたところをレポート。「震災復興52小公園」巡りも、いよいよ最終回。

?文京区立新花公園(湯島小学校)





左が1880年頃のようす。赤丸が湯島天神下の「切通坂」。矢印が現在の「湯島小」付近。当時は、もう少し南側、「新花町」・霊雲寺に接する辺りにあったようだ(下の赤丸付近)。右の写真はほぼ同じ場所の1970年頃のようす。位置もそうだが、道路が130年以上経過しても現在とほとんど変化していないことに気づく。(いずれも「歴史的農業環境閲覧システム」より)

目に飛び込んでくるのは、クジラ。小さな公園なので存在感抜群。親子連れが遊んでいた。
道路を挟んで南側に「湯島小学校」。実は、震災復興52小公園建設当時は、「新花公園」は、この位置ではなかった。学校の東側に接していた。


 これまでの震災復興52小公園とは配置が異なっていることに気づく。小学校の東側にあった公園を校地として広げ、代替地として現在の位置に公園を移した。上の右の写真では工事中であることが分かる(「湯島小」沿革史参照)。
当時のイメージ(「震災復興52小公園フレーム www.geocities.jp/zouenkasyudan/52parks/」より引用)。

《湯島小学校》


明治 3(1870)東京府に6つの小学校ができる。その1校として、本郷丸山本妙寺におかれる。
   4(1871)湯島切り通し坂の麟祥院内の家に移り、小学校第4校として開校する。文部省の管理。児童数32名
   5(1872)学制がしかれ、東京府庁の管理となる。
   6(1873) 改めて公立小学校となり、第4中学区第1番小学湯島校となる。
   9(1876) 湯島新花町に新校舎落成。
   15(1882) 尋常小学校となる。
・・・
41(1908) 学制変更により、東京市湯島尋常小学校となる。(修業年限6年)
・・・
大正 12(1923) 関東大震災が起き、校舎が全焼する。
  14(1925) 新花町2番地に新校舎を作り始める。
15(1926) 鉄筋コンクリート造りの校舎落成式。
・・・
昭和 15(1940) 新花公園との境をとり去り、運動場を広げる。(紀元2600年記念事業)
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昭和 20(1945)3 9 空襲により、学校付近は全部焼失し焼け野原となった時、学校も南西の17教室と便所を焼失する。
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昭和 38(1963) 全教室にテレビが設置される。
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昭和 46(1971) 校庭東側の新花公園を校地にする。(新花公園は校舎北側の現在地に移設する)
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平成 23(2011) 開校140周年記念式典を行う。
(以上「湯島小」HPより)

 以上でも分かるように、長い歴史と伝統を誇る小学校。沿革史を見ても、実に細かく記録が残されていて興味深い。
 もともとは、江戸時代の寺子屋を起源とし、1872年(明治5年)の学制施行前からの小学校として存在。
 日本の小学校の中で、最も長い歴史と伝統を持つ学校の一つ。開校当時から、周辺には「湯島聖堂」や「昌平坂学問所(東京大学の前身)」などがあって、文化、歴史、自然に恵まれているところにある。

校庭の東側。このあたりが元の「新花公園」だったか。左に「百葉箱」がある。

※「百葉箱(ひゃくようそう、ひゃくようばこ)」
 温度計や湿度計を入れ、正確な気温を計測するために設置された(屋根付きの)箱。

古い樹木が残っている。
校庭の一角。緑が多い。
校庭(南側)から校舎を望む。グランドの隅に何やら鉄製の大きな釜状のものが置かれている。
はたして何?


 伝統と歴史のある雰囲気でした。

 これで、「震災復興52小公園(復興小学校)」巡りを終わります。

 千代田、中央、台東区などでそれぞれ数校ですが、現役のまま活躍している校舎が残っていることに感動。
 一方、公園は戦災やその後の復興、さらには近年の公園改修、校舎改築、校地拡張などで大きく変化。ほとんど昔のままの姿をしているところはありません。わずかに二連式すべり台などが数カ所残るのみ。
 一番最初に訪問した「文京区立元町公園」は、1982(昭和57)年、元の姿をよみがえらせる改修が実施され、「震災復興52小公園」当時の設計・思想が残る唯一の小公園となっています。
 ただ、「パーゴラ(つるだな)」が多くの公園にあることで、建設当時のコンセプトが引き継がれているのには驚きました。
 また、学校と一体化という当時の思想が残っていて、墨田区などでは学校のグランドと公園との仕切りが自在になっているところもあるなど、まだまだかつての趣が残っているようです。

 関東大震災からすでに90年以上経過、その復興事業としての「震災復興52小公園」。その当時の考え方のいい面を現在、継承されてきているかどうか。

・小公園の配置は、児童数・校庭の広狭・既設公園の配置などを勘案し、都市計画的に決定される。
・耐震強度を高めた小学校に隣接し、教材園及び運動場補助等の目的を有するとともに、地域の防災拠点とする。
・広場を中心に敷地の40%を植栽地とし、道路に沿う外周部分には低い鉄柵を施し、容易に出入り可能なものとする。
・植栽には防火・防音・防塵効果に優れた常緑樹を採用し、学校教材のために多種類の樹木と潅木を使用する。
・震災復興の名の下に公園を近代文化の普及・啓発のための展示場として演出する。

 児童生徒の通学・学習上の安全管理、施設管理・維持など多くの課題もありますが、地域と学校の関係において、小学校と隣接する公園との有機的な取り組みという発想の必要性を改めて感じました。

 そこで、「震災復興52小公園」ではありませんが、その発想に通じる(かもしれない)学校と地域公園の関係を示すケースを、次回は紹介。

 外を見ると、やっと雨も上がり、明るくなってきました。さて、雪かきでもしましょうか。といったん中断して再開。  

竹町公園(旧竹町小学校、現平成小学校)。(震災復興52小公園。番外編。その13。)

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1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。赤丸が「竹町小学校」の位置、赤い線がのちの「佐竹商店街」。東側の通りが現在の清洲橋通りにあたる。(「佐竹商店街」「三味線堀」跡などについては、昨年の11月11日付けで紹介済み)

1941(昭和16)年頃。赤丸が竹町小学校、下谷(現竹町)公園。「佐竹本通り」が「佐竹商店街」。
(「竹町 - DTIwww.maroon.dti.ne.jp/~satton/taitou-imamukasi/syouwa16/taketyo.html」より)。‎

 近隣の台東区立小学校では震災復興公園に関わる学校も多い。そうした土壌があったのでしょうか、竹町(たけちょう)公園と旧竹町小学校の関係は、まさに震災復興52小公園と同様の発想があったと思われます。
小学校と公園の関連が似ている。この公園は、小学校の校庭に面してつくられた公園仕様。


平成小学校南側に公園が広がっている。
校庭とのフェンスにある出入口。残念ながら校庭側は花壇で占められている。
コンクリート製の花壇が並んでいる。
西側に段差をつけて遊具がある。
東側は広場。学校側にコンクリート製の昇降台が設置されている。毎朝のラジオ体操の会場に。
古い樹木も。
フクロウ。
「佐竹商店街」のマスコットは「竹にフクロウ」。
地名にちなんで、公園の一角には、小さな竹林。
「平成小学校」正面玄関。ネーミングは? 複数の学校が統合して一校になると校名がもめますが。ただし、併設の幼稚園名に「竹町」が残っている。
(「平成2年に二長町小学校と統合されて平成小学校となり、永い歴史を閉じた竹町小学校です」mixiコミュニティより引用)

 この公園と小学校との関係は、「震災復興52小公園」当時のコンセプトを引き継いでいるように思えます。
 90年以上前の、小学校を機縁とする地域コミュニティ計画が、今も地域にとって必要なことを実感しました。

地名由来。
エリア。

 明治5年(18729秋田の久保田藩主佐竹邸、伊勢の津藩主藤堂邸、伊予の大洲藩主加藤邸、秋田の矢島藩主生駒邸と周辺の屋敷が合併して竹町はできた。町名の由来はこの地に最も広大な敷地を有した佐竹邸の西門扉に竹を用いたことにちなむという。
 この地は竹町と命名されてからめざましい発展を遂げて、佐竹邸の跡地は講談寄席や料理店がならび大変にぎわった。その後、大正12年(1923)の関東大震災で一面焼失したが、聖人や職人の町としてよみがえった。そして第二次世界大戦で二度にわたる空襲を受けたにもかかわらず他にさきがけて復興し現在の姿になった。

 学校と公園のある場所が、佐竹邸跡。また、「秋葉神社」は佐竹邸の屋敷神として、現在も公園の脇に存在しています。

公園の周囲には、古い民家がまだ残っている。

「震災復興52小公園」の現状。まとめその1。千代田区編。

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 公園名   開園年  隣接の小学校

《千代田区》

1上六公園 昭4(1929)年 上六小学校(2014,1,28掲載)
「上六公園」を下に望む。北側にある東郷元帥記念公園と一体化。樹木も多く、高低に富んでいる。大幅に改修されている。
千代田区内では唯一復興校舎が、現役の校舎として残されている。特徴的な正面玄関の庇。現九段小学校。ただし、現在、改築改修計画が進められている。

2西小川公園 昭5(1930)年 西神田小学校(2014,1,27)
大幅な改修のため面影なし。
西神田小学校も廃校、跡地(正面)は、多目的な「西神田コスモス館」に。記念碑が設置されている。

3錦華公園 昭4(1929)年 錦華小学校(2014,1,26)
このあたりは、門柱など開園当時のままの雰囲気。お茶の水幼稚園がもともとの公園の敷地内にでき、手狭な印象。
校舎も全面改築され、校名も変わり、「お茶の水小学校」へ。漱石も学んだ、歴史と伝統のある学校。

4淡路公園 昭5(1930)年 淡路小学校(2014,1,25)
開放的な芝生の広場に。一帯の再開発地域の一環として大変貌。
淡路小学校の跡地は、超高層ビル「Waterras」に大変貌。かつての面影はまったくなくなって、新たな地域交流の場所として機能させていくようだ。

5神田公園 昭6(1931)年 神田小学校(2014,1,23)
公園の西北側から。ここも復興震災公園の面影はない。水回りが豊か。
現・千代田小学校。立派な建物。

6練成公園 昭6(1931)年 練成小学校(2014,1,21)
かつての面影はなく、「アーツ千代田」と開放的かつ融合的な公園に。
旧「錬成中学校」の校章がそのまま残っている正門。

7芳林公園 昭5(1930)年 芳林小学校(2014,1,22)
立派な門柱。ここも大改修。かつての面影はない。小学校からは歩道橋で行き来する。
旧芳林小学校も校舎も解体。公園から現・昌平小校舎(豪華な印象)を望む。

(公園名等は、「kantoquake.kanagawa-u.ac.jp/pmapf/index/park.html」さんより一部引用。番号は便宜的に付した。)

 住んでいるあたりの雪はほとんど消えましたが、多摩の方はまだまだ。もっと西の山梨でも大変な状態が続いているようす。そして、今週の水/木がまた危ない。
 以前は、関東に雪が降り始めると、だんだん春が近づいてきたことが知れた。寒気と暖気のせめぎ合いで次第に春らしくなっていく。だから、少ししんどい思いをしても何とか過ごせました。
 しかし、今はそんな悠長なことは言っていられません。まさにいのちと暮らしを直撃。

 これも、温暖化のなせる「異常気象」のようです。

 「八王子」の友人、「前橋」の友人、そして「仙台」の知人からの悲鳴にも似た連絡あり。ここ数日の「苦闘」を。
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