(10:43)「小仏関所」跡。

国指定史跡 小仏関跡
小仏関所は、戦国時代には小仏峠に設けられ富士見関ともよばれた。武田・今川・織田などの周辺の有力氏が滅ぶと麓に一度移され、その後、北条氏の滅亡により、徳川幕府の甲州街道の重要な関所として現在地に移されると共に整備された。
この関所は、道中奉行の支配下におかれ、元和9年(1623)以降4人の関所番が配備された。
関所の通過は、明け六つ(午前6時)から暮れ六つ(午後6時)までとし、しかも手形を必要とした。鉄砲手形は老中が、町人手形は名主が発行。この手形を番所の前にすえられた手形石にならべ、もう一つの手付き石に手をついて許しを待ったという。
特に「入鉄砲に出女」は幕府に対する謀反の恐れがあるとして重視し厳しくとりしまった。抜け道を通ることは「関所破り」として「はりつけ」の積みが課せられるなど厳しかったが、地元の者は下番を交替ですることもあって自由な面もあったらしい。明治2年(1869)1月の太政官布告で廃止され、建物も取り壊された。
平成10年7月1日 八王子市教育委員会
これで、「五街道」のそれぞれの「関所」をクリアしたわけです。
・東海道にある関所:箱根関、新居関。
・中山道にある関所:碓井関。
・日光・奥州道中にある関所:栗橋関。
そして、・甲州道中にある関所:小仏関。という具合。
江戸の周囲を固めているのが、以上の関所。特に、上にもある「入鉄砲に出女」といわれるように、江戸へ入る鉄砲と江戸から出る人質の大名の奥方を警戒しました。
手形石と手付石。

当時の位置関係と解説文。


左の絵図:小仏関所絵図
関所番だった4家のうち、川村家に伝わっていたものです。残念ながら戦災により焼失し、現存していません。
小仏関は、四方を木柵などで囲われ、東西に門が置かれていました。北に山、南に川という地にあり、当時ここを通行していた人々を厳重にチェックしていたようです。
右の絵図:駒關要樞
千人同心組頭塩野適斎らによって記された「桑都日記」のものです。
もともとあった小仏からここ駒木野に移され、関所の東が駒木野宿、西が小仏関と呼ばれるようになり、関所も「小仏関」や「駒木野関」と呼ばれていたようです。
跡地は広場になっています。

そこには「駒木野宿」の碑があります。

「川村」姓のおうち。

「駒木野宿」は、「小仏関」に付随した宿場で、特に遺構はなさそうです。街並み。


この先辺りから道は下り坂になります。


(10:48)坂の左手に石仏群と「「念珠坂」碑。


「思源庵」。

「浅川」の流れ。サクラが満開。

廃校になった浅川小学校・分校跡。現在は保育園。

次第に渓谷風になった「浅川」。

バス停「蛇滝」付近にある旧旅籠。軒下には蛇滝で水行を行う人達の家紋や氏名などが記された札が並んでいます。その隣には「上行講」と彫った道標。


右手の足下に「湯の花(いのはな)慰霊碑」への案内板。

(11:00)線路の方に上がっていくと、線路際に地元の有志が建てた「慰霊碑」があります。


慰霊の碑
終戦間近の昭和20年(1945)8月5日 真夏の太陽が照りつける午後12時20分頃、満員の新宿発長野行419列車が いのはなトンネル東側入口に差しかかった時、米軍戦闘機P511機または3機の銃撃を受け、52名以上の方々が死没し 133名の方々が重軽傷を負いました。この空襲は日本最大の列車銃撃といわれています。 私どもはこの戦争の惨禍を決して忘れることができません。ここに確認された犠牲者のお名前を書きとどめ、ご遺族とともに心からご冥福をお祈り申し上げ、現在の平和の日々をかみしめ戦争を知らない世代へこのことを語り伝えます。
平成4年8月5日 いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会
注:手前の慰霊碑は、昭和25年に地元の青年団が建てたもの。左側には犠牲になった氏名が刻まれている。
湯の花(いのはな)トンネル列車銃撃事件
第2次世界大戦末期の昭和20年(1945年)8月5日正午過ぎに東京都南多摩郡浅川町(現、八王子市裏高尾町)内の国鉄中央本線、湯の花トンネルでアメリカ軍のP-51戦闘機複数機が満員状態の列車に対して執拗な機銃掃射を加え、多数の死傷者が発生した事件である。
東京周辺には帝都防空用として、陸海軍ともに比較的まとまった数の航空機が配備されていたが、この時期にはすでに弾薬や燃料が底をつき、また、操縦士も極端に不足していたため、予想された本土決戦に備え飛行可能な機体を地下壕や掩体壕に温存する措置が取られるなどの惨状であった。一方、日本軍の迎撃のない中イギリス軍やアメリカ軍機は、やすやすと本土進入を果たし、鉄道施設及び列車に対しても攻撃が行われるようになっていた。そうした列車攻撃の中でも最悪の人的被害を出したのが、中央本線湯の花トンネルにおける機銃掃射事件である。
新宿発長野行きの下り419列車は、午前10時10分に新宿駅を出発する電気機関車ED16形7号機が牽引する8両編成であった。この列車には軍関係者が乗車する二等車と荷物車も連結されていたが、富士演習場に向かう19名だけで、殆どが非戦闘員の一般乗客であった。
8月5日に全面開通したこの日2本目の列車であり、また八王子駅で419列車が出発する前の列車が発車しなかったため大変な混雑だったとされていた。
419列車は八王子駅が八王子空襲により焼失していたこと、単線区間での列車交換に手間取ったことなどの事情があり、浅川駅(現在の高尾駅)を1時間遅れの午後0時15分に出発した。この時点ではすでに空襲警報が発令中であったが、停車中に乗客から「早く出せ」と怒声が飛んでいたこと、更なる遅延を回避するためや、湯の花トンネル、小仏トンネルに入った方が安全と考えたため、駅員や乗務員は発車させたものと見られている。
その後、419列車は第一浅川橋梁を通過した後、湯の花トンネルの手前で、進行方向左側の太平洋側から飛来したアメリカ軍のP-51戦闘機複数機(2機もしくは3機のいずれかだったと言われている)に捕捉され、機銃掃射と23センチロケット弾の攻撃を受けた。ロケット弾は外れたが、機関車と1両目は特に激しく攻撃され、トンネルに2両目の半分程が入ったところで列車が停止した。この措置はトンネルから出ていた車両が反復して機銃掃射に晒される結果となったため、犠牲者を増加させることとなった。
犠牲者の数については、国鉄の資料によると49名となっているが、慰霊碑では52名以上(氏名判明のみ)としている。また、事件の慰霊会は65名以上が犠牲になったとしている。負傷者は130名以上であったと言われているが、戦時体制下のため、当時の正確な記録が残されていないという。
この列車には筑摩書房創業者の古田晁が乗っており、古田が車内で目を通していた原稿用紙に、近くにいた人物から吹き出した血が付着した。この「血染めの原稿用紙」は現在、塩尻市にある市立古田晁記念館に展示されている。
なお、419列車は送電線が機銃掃射で切断されたため、蒸気機関車に牽引されて浅川駅へ回送され、この事件によって不通となった中央本線は当日夕方までに送電線の再接続を完了し、全面復旧した。
戦後、この事件に係る慰霊碑が建立され、毎年8月5日には現在でも地元の住民が主体となって慰霊祭が行われている。
「湯の花トンネル」。

(以上、写真を含め、「Wikipedia」による)
トンネル方向。頭上は、「中央道」と「圏央道」とのジャンクション。

「甲州街道」方向を見下ろす。

終戦末期(あと10日で終戦)に米軍機による列車銃撃事件。春爛漫の、のどやかな雰囲気の村里にそんな悲劇があったとは知りませんでした。
前回、八王子宿に入る手前の「大和田橋」歩道上に残された投下された、たくさんの焼夷弾の跡も強く印象に残りました。
太平洋戦争終結の13日前、昭和20年8月2日未明に、米空軍のB29爆撃機180機の空襲を受け、約450名が死没、2,000余名が負傷し、旧市街の約80%の家屋が消失する被害を受けました。