そのまましばらく「国道6号線」を進みます。路傍には馬頭観音像など石仏が何体か。

(11:52)左手に「故北辰一刀流大貫先生之碑」という大きな石碑が建っています。

北辰一刀流といえば、江戸時代後期に千葉周作が創始した剣術と薙刀術の流派。幕末期には門人が6千人を超えるほど。幕末の志士では坂本龍馬らが北辰一刀流を学んだといわれる。現在、水戸に伝わった北辰一刀流の道場が茨城に2箇所、東京に1箇所、徳島県に1箇所現存している。2013年(平成25年)に水戸東武館の北辰一刀流と新田宮流抜刀術が水戸市無形文化財に指定された。

コスモス畑。「秋桜」いうくらいですから、今は畝が広がるばかり。


「水準点」を見つけました。

水準点(すいじゅんてん、benchmark)とは、水準測量に用いる際に標高の基準となる点のこと。測量法で定められている測量標の一つであり、永久標識に分類される。水準点には国土地理院が基本測量として設置・管理する「~等水準点」と、地方公共団体が公共測量として設置・管理する「~級水準点」とがある。
水準点は海の潮位や河川の水位を知る水準基標又は水準拠標なども意味し、これらの意味が転じてコンピュータにおけるベンチマークという言葉遣いとして使われるようになった。
国土地理院が設置・管理する水準点は通常、国道、測量当時の旧国道や主要街道沿いに約2km間隔に埋設されており基準となる柱石又は金属標が設置されている。その数は基準、一等、二等、三等水準点合わせて約22,000点に及ぶ。これらを辿る形で水準測量が行われ、この路線網を水準網と呼ぶ。ただ交通量の激しい道路の脇に設置されている例が多く、柱石が工事や事故により破損することも多い。そのため、都会の道路脇に設置された水準点は半地下式の金属標式のものに改造される例が増えている。
全ての水準測量の基準となる日本水準原点は、東京都千代田区永田町の国会前庭洋式庭園内に設置されており、東京湾平均海面上24.3900mを原点数値として測量法施行令第2条第2項において定められている。なお、この場所は、かつて参謀本部陸地測量部(国土地理院の前身の一つ)が存在していた。
母子の石仏など。「子安信仰」?

「大曲三叉路」付近から左側に桜並木が続きます。

「東京から87㎞」ポスト。

「桜並木整備」の記念碑?

さぞかし桜の季節には見事でしょう。


(12:28)ちょうどお昼時。けっこうお腹も空いてきたので、桜並木の下、何かお店がないかと歩いてると、お蕎麦屋さん「そば処たむら」。そこに入って昼食です。量も味もほどほど。

再開。相変わらず桜並木が続きます。

(13:03)「堅倉三叉路」から左に入ります。

「明治」の工場先から「片倉宿」が始まります。宿場の入口には共同墓地や石仏群。


宿場の街並み。


車の量も少なく、静かで落ち着いたようす。「く」の字型に曲がっていく。
右手に「一本槍」という屋号。かなり古びた商家?

その左手斜め前にあるのが「加藤家復旧門」。門の左に解説碑があります。


復旧門の由来
当門は、水戸徳川藩士加藤本家より、加藤伊衛門の代に水戸から分家して当地常陸国東茨木郡堅倉に郷士として土着したとき、母屋と一緒に建てたもの物でありましたが、幕末に藩主の世継ぎ問題に端を発した天狗党の乱が起こり、元治元年(1864)当時加藤家は名主職を勤めていた関係もあり、反乱軍天狗党のために母屋と共に門も総て焼き打ちに遭い、その際門の前柱2本のみが焼け残りました。門柱上部の黒い部分が焼け跡です。そのため当時の祖先の苦労を偲び又戦乱(内乱)の歴史を後世に残すべく、焼け残った2本の前柱をそのまま氏よすシテここに復旧を完了いたしました。
平成4年 建主 加藤謙二

隣のおうちも立派なお屋敷。


その先の左手の角に「かと家」があります。旧道はここを左折して進みます。

現在も、すぐ近くの「国道6号線」沿いで宿屋を営んでいるそうです。


その先の「米穀店」も昔ながらの商家造り。



1880年代のようす。 現在のようす。東西に走る広い道は「国道6号線(現水戸街道)」。
旧道の道筋に変化はありません。