(09:25)「幸橋」を渡ったとたん、前方にすばらしい景観が目の前に広がります。近代的ビル(ホテル)を借景にし、風格のある存在感を示す「旧篠原家住宅」。国の重要文化財に指定されています。
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篠原家は奥州街道口の豪商で、江戸時代から第二次世界大戦までは醤油醸造業・肥料商をを営んでいた。明治28年(1895)に建てられたこの店蔵は、店舗と住居部分を一体化した蔵造りになっている。市内の店蔵の中で、改造がほとんどせれておらず、かつ、石蔵を伴って残されているものは数少ない。
住宅の一階部分の両側には、暑さ約8㎝の大谷石が貼ってあり、この店蔵の特色になっている。帳場の奥に約45㎝角のケヤキの大黒柱がある。これは二階の大広間(20畳敷き)の床柱を兼ね、さらに棟木まで延びており、建築的に大変珍しいものである。全体的には装飾性は少ないが、よい材料を贅沢に使っており、美しく豪華に造られている。なお石蔵3棟のうち最も古いものは、嘉永4年(1851)に建てられたものである。
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ここを左折して「県道125号線」を北東に進みます。「新幹線」の高架の手前で右への分岐がありますが、そのまま直進して「新幹線」の高架下を抜けます。この県道は、「白沢街道」と銘打たれています。
両側には立派な門構えや大谷石を用いた蔵造りのあるお屋敷が続いています。(09:53)
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「巨峰直売します」。
先達によると、沿道には「松並木」名残りの松が一本立っているとのことでしたが、県道の拡幅整備工事のためでしょうか、見当たりません。すでに切り倒されたようです。
また、この付近には、「根来塚」「土堂原地蔵」といった「宇都宮藩」、「旧奥州街道」にまつわる史跡があるとのことでしたが、沿道には案内表示もなく、そのまま見過ごしてしまいました。この先の「旧奥州街道」。「一里塚」、「鬼怒川渡船場」跡など、近年の道路整備、沿道の住宅整備などで失われてしまったもの(ところ)が多いようです。先達の記録を参考にして歩き回りましたが、空振り! に。
「白沢宿」内以外は、ほとんど案内表示も見当たらず、旧道歩きは迷いやすくなっています。
松の木があった(らしい)地点から振り返って望む。![]()
しばらく進むと「地蔵前」というバス停。(10:25)
この付近に「土堂原地蔵尊」があるのかと思って「栃木銀行」裏など探してみましたが、見当たりませんでした。はてさて?
その先辺りから「海道」という名称が出てきます。![]()
「海道」という漢字は、文字通り「海」沿いの大道で、「東海道」はそれに当てはまりますが、「海」沿いではない、その他の大道も「・・・海道」と記していたようで、「五街道」が定まった後でも、「奥州街道(道中)」は、奥州「海道」と称しましたが、享保元年(1716)、江戸幕府は東海道以外は「海道」ではないとして、公式的には「奥州道中」となりました。しかし、「日光」や「甲州」と同じように「街道」と表記する(言う)こともあったようです。
また、それまでと同様に「海道」と記すことや町名として「海道」と称した地もあったようです。(そういえば、日光道中・「小山宿」の先の道沿いの小さな公園の名が「海道公園」とありました。)
(10:41)![]()
県道(「白沢街道」)を北上し、「下川俣町」交差点で「国道119線」の高架下をくぐると、周囲が開けてきます。
今にも降ってきそうな厚く黒い雲。
足元には「ツユクサ」。![]()
しばらくして「海道町」に入ります。
「おとり鮎」。鮎の友釣りのための? 後に「鬼怒川」を渡ったときに、たくさんの釣り人を見かけました。
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沿道には桜あるいは杉などの並木が現れはじめます。
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ナシ狩り。![]()
「海道小学校」案内板。![]()
(10:58)「馬頭尊」。![]()
「下野菓心庵 高林堂」付近の並木。車の通りも少なく、天気さえよければ快適な散歩道。
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「海道端霊園」。![]()
田園風景が広がります。すでに稲刈りも終わったところも。![]()
道はゆるい上り坂にさしかかります。
(11:24)「稚ヶ坂」バス停。
約800年前の建久二年、伊沢家景が初代奥州惣奉行に任命され、妻子や家臣を連れ陸奥国へ向かったが、子の菊丸が発病し奥州街道「奥州道中」の稚児ヶ坂(現在の王子板紙㈱日光工場近く)で病状が悪化し亡くなった。街道脇に葬って供養されたが、里人はこれを哀れみ、誰言うことなく、この坂を稚ヶ坂と呼ぶようになった。
今も面影を残す稚ヶ坂に沿う西側歩道には大木となった桜並木がある。悲話と共に満開の桜並木の景観は住民と通行者の心を癒してくれる、私たちのロマンチックポイントとして大切に保存していかなけばならない。
(以上、「稚ヶ坂(ちがさか)第一自治会」HPより)
桜並木。
坂の上、右手に稚児を祀った「地蔵堂」?![]()
(11:30)振り返って望む。![]()
坂上の左に広がる工場は「王子マテリア日光工場」。主に段ボール原紙を製造しています。
坂上から10分ほど進むと、「白沢宿」入口になります。![]()


篠原家は奥州街道口の豪商で、江戸時代から第二次世界大戦までは醤油醸造業・肥料商をを営んでいた。明治28年(1895)に建てられたこの店蔵は、店舗と住居部分を一体化した蔵造りになっている。市内の店蔵の中で、改造がほとんどせれておらず、かつ、石蔵を伴って残されているものは数少ない。
住宅の一階部分の両側には、暑さ約8㎝の大谷石が貼ってあり、この店蔵の特色になっている。帳場の奥に約45㎝角のケヤキの大黒柱がある。これは二階の大広間(20畳敷き)の床柱を兼ね、さらに棟木まで延びており、建築的に大変珍しいものである。全体的には装飾性は少ないが、よい材料を贅沢に使っており、美しく豪華に造られている。なお石蔵3棟のうち最も古いものは、嘉永4年(1851)に建てられたものである。


ここを左折して「県道125号線」を北東に進みます。「新幹線」の高架の手前で右への分岐がありますが、そのまま直進して「新幹線」の高架下を抜けます。この県道は、「白沢街道」と銘打たれています。
両側には立派な門構えや大谷石を用いた蔵造りのあるお屋敷が続いています。(09:53)





先達によると、沿道には「松並木」名残りの松が一本立っているとのことでしたが、県道の拡幅整備工事のためでしょうか、見当たりません。すでに切り倒されたようです。
また、この付近には、「根来塚」「土堂原地蔵」といった「宇都宮藩」、「旧奥州街道」にまつわる史跡があるとのことでしたが、沿道には案内表示もなく、そのまま見過ごしてしまいました。この先の「旧奥州街道」。「一里塚」、「鬼怒川渡船場」跡など、近年の道路整備、沿道の住宅整備などで失われてしまったもの(ところ)が多いようです。先達の記録を参考にして歩き回りましたが、空振り! に。
「白沢宿」内以外は、ほとんど案内表示も見当たらず、旧道歩きは迷いやすくなっています。
松の木があった(らしい)地点から振り返って望む。


この付近に「土堂原地蔵尊」があるのかと思って「栃木銀行」裏など探してみましたが、見当たりませんでした。はてさて?
その先辺りから「海道」という名称が出てきます。

「海道」という漢字は、文字通り「海」沿いの大道で、「東海道」はそれに当てはまりますが、「海」沿いではない、その他の大道も「・・・海道」と記していたようで、「五街道」が定まった後でも、「奥州街道(道中)」は、奥州「海道」と称しましたが、享保元年(1716)、江戸幕府は東海道以外は「海道」ではないとして、公式的には「奥州道中」となりました。しかし、「日光」や「甲州」と同じように「街道」と表記する(言う)こともあったようです。
また、それまでと同様に「海道」と記すことや町名として「海道」と称した地もあったようです。(そういえば、日光道中・「小山宿」の先の道沿いの小さな公園の名が「海道公園」とありました。)
(10:41)

県道(「白沢街道」)を北上し、「下川俣町」交差点で「国道119線」の高架下をくぐると、周囲が開けてきます。

足元には「ツユクサ」。

しばらくして「海道町」に入ります。
「おとり鮎」。鮎の友釣りのための? 後に「鬼怒川」を渡ったときに、たくさんの釣り人を見かけました。

沿道には桜あるいは杉などの並木が現れはじめます。


ナシ狩り。

「海道小学校」案内板。

(10:58)「馬頭尊」。

「下野菓心庵 高林堂」付近の並木。車の通りも少なく、天気さえよければ快適な散歩道。


「海道端霊園」。

田園風景が広がります。すでに稲刈りも終わったところも。

道はゆるい上り坂にさしかかります。

約800年前の建久二年、伊沢家景が初代奥州惣奉行に任命され、妻子や家臣を連れ陸奥国へ向かったが、子の菊丸が発病し奥州街道「奥州道中」の稚児ヶ坂(現在の王子板紙㈱日光工場近く)で病状が悪化し亡くなった。街道脇に葬って供養されたが、里人はこれを哀れみ、誰言うことなく、この坂を稚ヶ坂と呼ぶようになった。
今も面影を残す稚ヶ坂に沿う西側歩道には大木となった桜並木がある。悲話と共に満開の桜並木の景観は住民と通行者の心を癒してくれる、私たちのロマンチックポイントとして大切に保存していかなけばならない。
(以上、「稚ヶ坂(ちがさか)第一自治会」HPより)


坂の上、右手に稚児を祀った「地蔵堂」?

(11:30)振り返って望む。

坂上の左に広がる工場は「王子マテリア日光工場」。主に段ボール原紙を製造しています。
坂上から10分ほど進むと、「白沢宿」入口になります。
