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Channel: おやじのつぶやき
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東武日光駅。八王子同心。神橋。与謝蕪村句碑。・・・(「日光道中」をゆく。その51。)

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 その先には「東武日光駅」。華やかな駅前通りになり、外国人など大勢の人々の姿が。
ゴールに向かって緩やかな上り道。右手奥が「東武日光駅」。

 ここから神橋までは1,500㍍ほど。そぞろ歩きする外国人の姿が目立つ中、いよいよラストスパート。けっこう疲れがきていますが。と、携帯に電話が。

 お客さんが来るのだが、いつ頃帰ってくるのか? と。
 そういえばそんなことを聞いていたなあ、今、日光駅前。遅くまではいられないのか、じゃあ、急いで帰るから。

 さて、気を取り直して「神橋」に向かいます。

 東照宮に向かう広い参道の両側にはお店がずらり。公共施設も街道筋らしい趣の建物に。

 ここは日光道中21番目で、道中最後の宿場でもあります。

 鉢石宿
 もともと鉢石村という村落があったが、元和3年(1617年)に徳川家康を日光山に祀り日光参詣が盛んとなると日光東照宮の門前町として大いに栄えた。現在のJR日光駅の辺りに鉢石宿の木戸があった。当時、入江本陣は御幸町、高野本陣は中鉢石町にあり、参詣者は本陣に投宿して東照宮を参詣した。
 天保14年(1843年)の『日光道中宿村大概帳』によれば、鉢石宿の本陣は2軒設けられ、旅籠が19軒、宿内の家数は223軒、人口は985人であった。

「祭(いのり)のまち 日光東町」

(14:48)「日光消防署」。

「大横町の歴史」
・・・火の番屋敷がこの大横町に移された事から火の番横町とも呼ばれるようになりました。・・・その火の番を命じられたのが、「八王子同心」と呼ばれた人々で八王子から日光に交替制で勤め、その為約200年もの間火災から社寺を守る大きな功績を残しています。・・・

 ここに記されている「八王子(千人)同心」の補足説明。

 千人同心に命じられた重要な役目が、慶安5年(1652)から勤めた日光火の番でした。日光は、東照大権現として家康がまつられた東照宮があり、幕府の精神的なよりどころでした。千人同心は、その東照宮の防火と警備にあたり、境内や町内を見回り、いざ出火となれば消火活動にあたったのです。
 八王子から日光までは、当初は江戸に出て千住から向かうルートを通っていましたが、多くは八王子から拝島方面へ向かい、松山(埼玉県東松山市)・佐野(栃木県佐野市)を経るルートを利用しました。三泊四日の旅程でした。当初は千人頭2名と100名の同心が担当し、50日期間で交代する体制でした。その後何度か変更され、最終的には寛政3年(1791)に千人頭1名と同心50名で半年交代で務める体制になりました。
 この役目は江戸時代を通じて勤められ、慶応4年(1868)に千人同心が解体するまで続きました。この年、既に幕府は瓦解し、新政府軍と旧幕府勢との間で戦いが始まっていました。やがて新政府軍は日光にもやって来ました。この時、日光火の番を勤めていた千人頭が、石坂弥次右衛門義礼(いしざかやじえもんよしかた)でした。義礼は、刀を交えることなく新政府軍に明け渡し、東照宮を戦火から救いました(その後、義礼は八王子に戻りますが、責任を追及する声もあり、帰郷した夜に切腹してしまいます)。こうした関わりから、昭和49年(1974)に八王子市と日光市は姉妹都市となりました。
 命を賭して東照宮を守った石坂弥次右衛門義礼の墓は、菩提寺の興岳寺(八王子市千人町)にありますが、墓前の香台は日光市から贈られたものです。

(以上HPより)

(14:58)「日光市日光庁舎」。お城のような雰囲気。

 古いおうちと商店と。
    

「鉢石横町」。
 この辺りに「鉢石」という町名の基になった「鉢石」が保存されているはずですが、見逃しました。

    
 「金谷ホテル」下にある物産店。国の有形登録文化財に指定されています。

「日光のおいしい水 磐裂霊水」。
1200余年前日光開山の祖勝遍上人がこの地に涌き水を発見し、以来修験者が神仏に供えた霊水と伝えられる。この水は男体山系の涌き水で、日本でも最もおいしい水として定評がある。

      
          板垣退助銅像
 板垣退助は、「板垣死すとも自由は死せず」の名言で知られる明治の政治家です。
 明治初期に自由民権運動を展開し、自由党を結成。土佐(高知)出身。
 明治元年(1868)戊辰戦争の時、彼は新政府軍の将として、日光廟に立てこもった大島圭介らの旧幕府軍を説得し、社寺を兵火から守ったと言われます。
 その遺徳を讃え昭和4年に建設されたが、最初の像は第二次大戦中に軍需に徴収された。昭和42年に再建。 


      
                             (15:06)神橋。

「華厳の滝」から流れ落ちてきた「大谷川」。

            与謝蕪村句碑。

             二荒や 紅葉の中の 朱の橋 (ふたあらや もみじのなかの あけのはし)

 ここまで。急いで路線バスに乗って、東武日光駅まで戻ります。
 駅に着くと、15:30発浅草行きの特急「きりふり274号」の発車寸前。駅員にせかされるままに飛び乗って、何とか間に合いました。

 最後は中途半端だが、ま、いいか。これで「日光道中」約140㎞の旅、終了!

 だんだんと日差しが強くなる日々の下、果てしなく延びる直線の国道歩きにはいささか参りました。が、宇都宮宿を過ぎてからの杉並木街道には圧倒されました。宇都宮までは標高もほとんどなく、平らな道筋。その点では歩きやすさが一番でした。
 すべて日帰り。それもおおかた午後3時前には終了(午前中で終わりの日もあった! )、というペース。結局、9日間にわたる旅でした。

 いよいよ次回は「中山道」を再開。軽井沢から、と思っています。が、はたしていつになるやら・・・。

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