8時半「今市車庫」行きのバスに乗って30分。前回の最終地点・弁天橋に付いたのが、9:00。さっそく出発! ちょっと日差しが強くなるかな、と悪い予感。
出発してまもなく左手に「光明寺」。

ここには立場があったといわれています。
最初の並木は桜。

左手には竹林が広がります。

桜のシーズンにはさぞかし・・・。ところどころ杉も混じっています。


自動車道より一段高い遊歩道を歩きます。

(9:21)突然きらびやかなお店「京都ラーメン金閣寺」。

周囲の自然豊かな遊歩道を進みます。竹林、モミジ、サクラ、スギ・・・。秋の頃や新緑の頃などはすてきな散歩道と。


振り返って望む。

「宇都宮インター入口」交差点付近でいったん並木は途絶え、下金井町へ入っていきます。
(9:33)はじめて「徳次郎」の名を見つけます。

「徳次郎」は、今は、「とくじろう」と読むようになっていますが、「とくじら」とも読んだようです。
地名の由来
徳次郎の地名の由来には諸説在る(以下に列記)。初出が宇都宮氏時代であることから、平安時代後期以降、江戸時代までに一般化した地名と考えられている。
読みに『とくじら』と『とくじろう』の二通りがある。現在の行政による住所地としては『とくじろうまち』と規定されている。経緯としては、当初は『外久次良』(とくじら)の地名だったが新田徳次郎昌言がこの地に徳次郎城を築いたことに因んで漢字を当てて『徳次郎』(とくじら)としたため、後世に『徳次郎』の文字だけが一人歩きし『とくじろう』と誤読されたと云われる。
1.日光の久次良氏(久次郎氏)の外領ということで、外久次良(外久次郎=とくじら)とされた。
↓
2.宇都宮氏家臣の新田徳次郎がこの地に徳次郎城を築いたことから徳次郎と書くようになった。
「徳次郎」の読みについては、富屋村が宇都宮市に編入された際に漢字の音読みに合わせ「とくじろう」に変更されたが、その後も「とくじら」「とくじろう」が混用された状態であり、日光宇都宮道路徳次郎インターチェンジの読みが2008年まで「とくじら」であるなど現在に至るまで「とくじら」の読みが一般的に流通している。
(以上、「Wikipedia」参照)
ちなみにこのお店は「とくじら古美術点」と記されています。

左手が開けた所へ。

大型バスの駐車場? そういえば右手の奥の方には「宇都宮動物園」があるようです。
(9:45)しばらく進むと、右手に「高谷林の一里塚」(東側のもの)。


左手の遊歩道を歩いていると車道の反対側(右手)になるので、少し進んでから横断して近づきます。


高谷林の一里塚
江戸から日光までの36里余(約140㎞)のこの街道は「日光道中」と呼ばれ、江戸時代から徳川家康を祭る日光東照宮に参拝するための道として栄えた。
江戸時代、五街道の一つであったこの街道には1里(約4㎞)ごとに塚を築き旅人に里程を知らせた。
この一里塚は、宇都宮城下と徳次郎宿の間に位置し、江戸から29里であることを示すものである。
なお、この一里塚は昭和58年度に一部修復整備したものである。
昭和59年3月 栃木県 宇都宮市
そこから西側を望む。塚の有無は不明。

まもなく「東北自動車道」の高架をくぐります。右手の丘の上に煉瓦造りの瀟洒な建物。




「第六号接合井」。
接合井は、今市浄水場で浄水した水を、距離約26キロ、標高差240㍍ある戸祭配水場まで送る際、送水管にかかる水圧を高めるために建設された施設です。
この接合井は、今市浄水場と戸祭配水場間の日光街道沿いに、標高が約30㍍下がるごとに設けられ、全部で6箇所設けられました。
これらの接合井は、昭和24年の今市地震により、残念ながらその大半が倒壊しましたが、この第六号接合井だけは、創設当時のままの姿を今も残しています。
国の有形文化財並びに「土木学会推奨土木遺産」として登録されています。
この先のバス停が「下徳次郎」。その先、「山王団地入口交差点のところに「大谷道道標」(10:02)。

