大きな駐車場のところから堤に上がりました。桜並木が二段になっていて、なかなか見事な遊歩道になっています。
(10:00)
桜のシーズンにはさぞかし。
紫陽花が桜の木の下の土手沿いに植わっています。まだ時期が早いので、チラホラと。これも満開なら見事なことでしょう。
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散策するにはもってこいのところです。![]()
権現堂桜堤が築かれたのは16世紀のことでした。昔からこの周辺は多くの川が複雑に交錯する地域で、たびたびの洪水に悩まされていました。特に、渡良瀬川からの大量の水を中川へ運んでいた権現堂川は暴れ川で、ひとたび大規模に決壊すると遠く江戸までが水浸しになったそうです。
江戸時代、隅田川経由で東京湾へ注いでいた利根川は、大規模な開削工事によって渡良瀬川と合流させ、権現堂川を経て旧江戸川(太日川)から東京湾へ注ぎ込むルートへと変更されました。しかし、権現堂川は利根川の途轍もない水量を捌ききれません。洪水のたびに、何度も何度も高い堤防が作り直され、現在の桜堤ができあがりました。
その後も利根川の東遷事業は続き、17世紀中ごろ約60年かかって利根川は銚子から太平洋に注ぐことになったのです。しかし、それでも権現堂川には捌ききれない水量が流れていたようで、たびたび水害が起こりました。結局、昭和初年に利根川と中川を結ぶ権現堂川は堰き止められ、「行幸(みゆき)湖」という調整池になりました。
・・・
(以上、「
」HPより)
このHPにはもっと詳しく写真入りで掲載されています。他の公園探訪もたくさん。大いに公園探訪・散策の参考になります。
www.go2park.net/parks/gongendo.htm
権現堂堤案内
幸手市の北端にある権現堂堤。ここは県東部第一の桜の名所である。大正の中頃には、すでに桜の名所として知られていた。戦時中に伐採されマキに使われてしまったという哀しい過去もあるが、戦後すぐに苗木が植えられ、今では以前にもまして美しい桜並木となっている。
毎年、4月の花見の季節には、桜の花が咲き誇り、花のトンネルをつくる。
権現堂堤では毎春3月下旬~4月上旬にかけて「桜まつり」を開催しています。
※ このコースは往復で約1,700mです。たとえばこのコースを570往復すると、札幌まで走ったことになります。
(この表だと東京は29往復、鹿児島は880往復となるらしい。)
遊歩道を進み、「行幸橋」方向へ。
振り返って望む。
出口付近にある「行幸堤之碑」。
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行幸堤(みゆきづつみ)之碑
権現堂堤は、権現堂川の水防のために江戸時代になる前に造られた堤です。
しかし、江戸時代を通じて何回もの洪水を経て、明治時代になって地元から新しい堤防造成の機運が起こり、明治8年6月に着工し、10月にはここから栗橋町小右衛門にかけて旧日光道中に並行した新権現堂堤が完成したのです。(現在は国道4号線がその上を通っています。)
明治9年6月に、明治天皇が東北巡幸に立ち寄られてその労に感じ入り、この仕事に携わった者の名前を石に刻んで残すように言われ、費用の一部が下賜されました。
人々は大変恐縮し、是非この堤を行幸堤と呼ばせていただきたいと申し出たところ許可されたということです。
明治22年の町村制施行によって高須賀村。外国府間村・円藤内村・松石村・千塚村が合併し行幸村となりましたが、その村名もこの行幸堤に由来しています。
また、この石碑の建っている部分は行幸橋の架け替え工事(平成12年~17年)以前はゆるやかな斜面であったため、石碑自体は歩道の近くにあって国道側を向いていましたが、堤が高くなっために上に移し、見やすいように現在の向きにしたものです。
幸手市教育委員会
「国道4号線」に戻ると、「行幸橋」の手前。
「東京まで50㎞」ポスト。
全行程の約3分の1になります。
「中川」に架かる「行幸橋」を渡ります。![]()
「中川」は、江戸時代には利根川として流れていました。「利根川東遷」以降は、「古利根川」と言われています。
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上流に東武線の鉄橋。 権現堂堤方向。
橋を渡り終えたら左折し、さらにすぐ右折します。
この道が旧道。
途中の右手には大きな灯籠。![]()
(10:25)その先の道が二手に分かれます。![]()
ここが「日光道中」と「筑波道」との追分。
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日光街道道しるべ
この道しるべは、安永4年(1775)日光街道と筑波道が分かれるこの場所に建てられたものです。
昔の旅人にとって、街道を歩くときのたよりになった大切なものです。
この道しるべには、次のように刻まれています。
東 川つま道 まいばやし道(右) 右 津くば道(正面) 左 日光道(左)
・・・
「川つま」は現在の茨城県猿島郡五霞町川妻、また「まいばやし」は茨城県古河市前林のことで、筑波へ行く道順です。
この道は日光だけでなく、遠く奥州(東北)へも通じていたのです。
幸手市教育委員会
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1880(明治13)年頃のようす。→が「追分」。かつては渡し船でした。
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現在のようす。→が「追分」。かつての旧道にほぼ沿って新しい道路が出来、橋も架けられています。
(どちらも「歴史的農業環境閲覧システム」より)、
(10:00)

紫陽花が桜の木の下の土手沿いに植わっています。まだ時期が早いので、チラホラと。これも満開なら見事なことでしょう。



散策するにはもってこいのところです。

権現堂桜堤が築かれたのは16世紀のことでした。昔からこの周辺は多くの川が複雑に交錯する地域で、たびたびの洪水に悩まされていました。特に、渡良瀬川からの大量の水を中川へ運んでいた権現堂川は暴れ川で、ひとたび大規模に決壊すると遠く江戸までが水浸しになったそうです。
江戸時代、隅田川経由で東京湾へ注いでいた利根川は、大規模な開削工事によって渡良瀬川と合流させ、権現堂川を経て旧江戸川(太日川)から東京湾へ注ぎ込むルートへと変更されました。しかし、権現堂川は利根川の途轍もない水量を捌ききれません。洪水のたびに、何度も何度も高い堤防が作り直され、現在の桜堤ができあがりました。
その後も利根川の東遷事業は続き、17世紀中ごろ約60年かかって利根川は銚子から太平洋に注ぐことになったのです。しかし、それでも権現堂川には捌ききれない水量が流れていたようで、たびたび水害が起こりました。結局、昭和初年に利根川と中川を結ぶ権現堂川は堰き止められ、「行幸(みゆき)湖」という調整池になりました。
・・・
(以上、「

このHPにはもっと詳しく写真入りで掲載されています。他の公園探訪もたくさん。大いに公園探訪・散策の参考になります。
www.go2park.net/parks/gongendo.htm


権現堂堤案内
幸手市の北端にある権現堂堤。ここは県東部第一の桜の名所である。大正の中頃には、すでに桜の名所として知られていた。戦時中に伐採されマキに使われてしまったという哀しい過去もあるが、戦後すぐに苗木が植えられ、今では以前にもまして美しい桜並木となっている。
毎年、4月の花見の季節には、桜の花が咲き誇り、花のトンネルをつくる。
権現堂堤では毎春3月下旬~4月上旬にかけて「桜まつり」を開催しています。
※ このコースは往復で約1,700mです。たとえばこのコースを570往復すると、札幌まで走ったことになります。
(この表だと東京は29往復、鹿児島は880往復となるらしい。)
遊歩道を進み、「行幸橋」方向へ。

出口付近にある「行幸堤之碑」。


行幸堤(みゆきづつみ)之碑
権現堂堤は、権現堂川の水防のために江戸時代になる前に造られた堤です。
しかし、江戸時代を通じて何回もの洪水を経て、明治時代になって地元から新しい堤防造成の機運が起こり、明治8年6月に着工し、10月にはここから栗橋町小右衛門にかけて旧日光道中に並行した新権現堂堤が完成したのです。(現在は国道4号線がその上を通っています。)
明治9年6月に、明治天皇が東北巡幸に立ち寄られてその労に感じ入り、この仕事に携わった者の名前を石に刻んで残すように言われ、費用の一部が下賜されました。
人々は大変恐縮し、是非この堤を行幸堤と呼ばせていただきたいと申し出たところ許可されたということです。
明治22年の町村制施行によって高須賀村。外国府間村・円藤内村・松石村・千塚村が合併し行幸村となりましたが、その村名もこの行幸堤に由来しています。
また、この石碑の建っている部分は行幸橋の架け替え工事(平成12年~17年)以前はゆるやかな斜面であったため、石碑自体は歩道の近くにあって国道側を向いていましたが、堤が高くなっために上に移し、見やすいように現在の向きにしたものです。
幸手市教育委員会
「国道4号線」に戻ると、「行幸橋」の手前。

全行程の約3分の1になります。
「中川」に架かる「行幸橋」を渡ります。

「中川」は、江戸時代には利根川として流れていました。「利根川東遷」以降は、「古利根川」と言われています。


上流に東武線の鉄橋。 権現堂堤方向。
橋を渡り終えたら左折し、さらにすぐ右折します。

途中の右手には大きな灯籠。

(10:25)その先の道が二手に分かれます。

ここが「日光道中」と「筑波道」との追分。



日光街道道しるべ
この道しるべは、安永4年(1775)日光街道と筑波道が分かれるこの場所に建てられたものです。
昔の旅人にとって、街道を歩くときのたよりになった大切なものです。
この道しるべには、次のように刻まれています。
東 川つま道 まいばやし道(右) 右 津くば道(正面) 左 日光道(左)
・・・
「川つま」は現在の茨城県猿島郡五霞町川妻、また「まいばやし」は茨城県古河市前林のことで、筑波へ行く道順です。
この道は日光だけでなく、遠く奥州(東北)へも通じていたのです。
幸手市教育委員会




1880(明治13)年頃のようす。→が「追分」。かつては渡し船でした。




現在のようす。→が「追分」。かつての旧道にほぼ沿って新しい道路が出来、橋も架けられています。
(どちらも「歴史的農業環境閲覧システム」より)、