粕壁宿
五街道(日光街道・奥州街道・東海道・中山道・甲州街道)の整備に伴い、 江戸時代に整備され、日光街道及び奥州街道に設置された宿場町。 江戸・日本橋から数えて4番目の宿場町である。 現在の春日部駅東口の旧街道一帯が、かつての粕壁宿である。
「かすかべ」の表記は何度か変更されている。南北朝時代(14世紀)、新田義貞の家臣春日部氏が当地を領地としたことから「春日部」の地名が生まれたとされる。その後、江戸時代正保年間(1645年頃)には「糟壁」、「糟ヶ辺」という表記が交互で使われており、元禄年間(1700年頃)に「粕壁」、「糟壁」と記す漢字表記が明治初期あたりまで交互に使われていた。高橋至時・伊能忠敬らによる「大日本沿海輿地全図」では「粕壁」と記されている。
天正18年(1590年)小田原征伐後、徳川家康が関東移封となり江戸城に入城した。五街道の整備が進められ、粕壁宿が、日光街道及び奥州街道の宿駅として開設したのは、元和2年(1616年)である。
『日光道中宿村大概帳』によると天保14年(1843年)の調査では本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒、問屋場1ヶ所、家773軒があり、規模は23宿のうちの6番目であった 。
街道沿いには青物店、穀物店、精米・精麦店、飲食店などが建ち並び、4と9のつく日には六斎市が開かれ、商業の町として近世以降発展した町であった。 江戸・日本橋から一日歩き通すと、ちょうど1泊目となる宿場町がこの粕壁であったことから、旅人の多くはここで宿を取った。
また、岩槻宿と関宿を結ぶ道が通ることからも商業・交通の要地として商人や旅人でにぎわったという。日光街道・奥州街道の宿場町であり、また古利根川を通じて、江戸と結んだ物資の集散地として栄えた。
一方で、水被害に襲われる土地条件の悪さから、農業不振に悩まされた地域でもあったという。
江戸・日本橋から約36㎞ほど。ここが一泊目だったようです。1日に9時間ほど歩くのですから、昔の人は健脚ですね。

(13:36)何やら宿場内の案内用の立派な柱。近づくと「脇本陣」とあります。


この付近に「本陣跡」の標識があるらしいですが。向こうのデパートは今、改装中。かつては「ロビンソン百貨店」? その後、「西武百貨店」になって現在は・・・。


「匠大塚」が入るそうです。これってお父さんの方?


「新宿」とか「上宿」とかの表示が。
沿道には古くて大きな屋敷が残っています。




(13:46)大きな「道標」には、「西南い八つき」「北日光」「東江戸 右乃方陸羽みち」と刻まれています。
どっしりとした格調高い白壁のおうち。


その先しばらく進むと「ミセと蔵」という案内表示。



ミセと蔵
中宿(仲町)と呼ばれるこの辺りには、江戸時代に米問屋などの商家や、旅籠屋などが多く建ち並んだ。粕壁宿の商家は、間口が狭く奥行きの長い敷地で、街道の並びには商業空間としての「ミセ」を、その奥には生活空間としての「オク」がつくられた。このような短冊状の地割は江戸時代の多くの宿場町にみられる歴史的な景観のひとつである。街道の北側の商家は古利根川沿いまで蔵を連ね、舟を乗りつけて荷を上げ下げしていた。現存する蔵造りの建物は、火災よけのため、幕末から明治期にかけて建てられたものが多い。
平成27年7月 春日部市教育委員会




夕方から人が来るというので、今回はここまで。

(13:56)春日部でこの子を外せないでしょう。
