このあたりには昔ながらの家屋がちらほら残っています。重厚な建物の「横山家」住宅も健在です。


横山家住宅
宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝える商家である。伝馬屋敷は、街道筋に面して間口が広く、奥行きが深い。戸口は、一段下げて造るのが特徴である。それは、お客様をお迎えする心がけの現れという。
敷地は、間口が13間、奥行きが56間で鰻の寝床のように長い。
横山家は、屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く地漉紙問屋問屋を営んでいた。
現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和11年に改修が行われている。間口が9間、奥行きが15間あり、大きくどっしりとした桟瓦葺きの2階建である。
広い土間、商家の書院造りと言われる帳場2階の大きな格子窓などに、一種独特の風格を感じる。上野の戦いで、敗退する彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷痕や、戦時中に焼夷弾が貫いた屋根など、風雪に耐えてきた百数十年の歴史を語る住居である。
平成2年 東京都足立区教育委員会
今も続く「千住絵馬屋」吉田家。

千住名物「かどやの槍かけだんご」




旧日光街道は「荒川放水路(現・荒川)」開削によって分断されましたが、ここから北西方向に進み、「川田橋」のところで今度はほぼ北へ進む道となります。

「荒川」の土手にぶつかります。



分岐点から少し北に進むと、骨接ぎで名高い「名倉医院」。


千住名倉医院
名倉医院は江戸時代以来、骨接ぎといえば名倉、名倉といえば骨接ぎの代名詞になるほど、関東一円に知られた医療機関であった。下妻道に面し、旧日光道中や水戸佐倉道分岐点を間近にして便がよかったので駕籠や車で運ばれてくる骨折患者でひしめいていたという。門前の広場は、これらの駕籠や大八車などの溜まり場であった。
名倉家は、秩父庄司畠山氏の出で享保年間(1716~36)頃千住に移り、明和年間(1764~72)に「骨つぎ名倉」を開業したと伝わる。
現在、江戸中期から昭和中期まで盛業時の医院の建物が保存されている。昭和59年足立区登録記念物(史跡)となった。
かつての名倉医院の周辺には、患者が宿泊して加療できる金町屋、万屋、成田屋、大原屋、柳屋等の下宿屋があって、その主人が名倉医院で治療に当たる医師及び接骨師を兼ねていた。
平成23年3月 足立区教育委員会
土手から千住宿方向を望む。

河川敷を望む。

荒川に架かる「千住新橋」を渡ります。

橋を渡り終えてから、左に進みます。土手上でも首都高下の道でも可。「川田橋」交差点、「善立寺」のところを右に進みます。


この付近の変遷。「今昔マップ」より。Aが千住宿のはずれ、Bが「川田橋」付近。




ほぼまっすぐな道を北へ。

しばらく進むと、左手に小さな石不動尊の祠と「子育八彦尊道 是より二丁行く」という道標。

整備された道路。電柱には「旧日光街道」。

右手にはショッピングタウン「KARIBU」。

「エルソフィア前」という交差点を通過すると、東武スカイツリーライン(伊勢崎線)の梅島駅に。

ここから直線道路で「淵江小学校」の先まで約3㎞続きます。