さて、後半です。
「国道17号線・原郷」の交差点を渡って「中山道」に入ると、すぐ右手にあるのが「常夜燈」。ここからが「深谷宿」となります。東海道では宿場入口や街道筋には道しるべも兼ねて、「常夜燈」が多くありました。中山道ではその役割を「庚申塔」がしていました。ここに来て、宿の東と西の出入口に「常夜燈」があることに(「深谷宿」は東西に連なる宿場町)。
(13:40)東の「常夜燈」。
明治初期に建てられたもの。
深谷宿
江戸から数えて9番目の宿場。中山道で最大規模の宿場で、商人が多く、また飯盛女も多く、遊郭もあり、江戸を出立して2晩目の宿を求める人で大いに栄えた(一つ前の熊谷宿は飯盛女を置かなかった)。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、深谷宿の宿内家数は525 軒、うち本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠80軒で宿内人口は1,928人。
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すぐ先の右手に「庚申塔」がありました。![]()
「亀井篭店」。懐かしい篭製品が並んでいます。
宿内を望む。落ち着いた街並みが続く。
「大谷家住宅」。洋館と手前の和式の中門。
主屋、洋館、本蔵、松庭湯、祠、中門及び塀、裏門及び塀、欅空庵、米蔵の9件。昭和初期のお助け普請として多くの地元の職人によって建てられた。設計は、魚住儀一による。
主屋は、質の高い数寄屋風建物で、高度で精緻な技量が発揮されている。洋館は、主屋南面に接続するユーゲント・シュティルのスタイルでまとめられている。
(
HPより)
昭和6年、町長であった大谷氏が地域の人達に仕事を与えるために建てた家のようです(「お助け普請」)。
「深谷宿」は見所の多い建物が目立ちます。「東京駅」を模した深谷駅舎もその一つですが、立ち寄りませんでした。
「深谷駅」北口(「Wikipedia」より)。
古い歴史をうまく生かした建物。![]()
「石川屋」さん。隣の土蔵も健在。![]()
途中の「唐沢川」にはカモメが数羽。![]()
「深谷」は偉大な実業家「渋沢栄一」の生地、そして渋沢栄一が立ち上げた日本で最初の煉瓦製造工場があった地でもあります。その煉瓦が使われた建物が街道沿いにもいくつかありますが、特に「煉瓦うだつの商家」が目を引きます。
「塚本商店」。
1階から2階までの立派なうだつ。
※「うだつ」が上がらない、という言い回しがあります。
【意味】うだつが上がらないとは、いつまで経っても出世しない、生活が向上しないことのたとえ。また、身分がぱっとしない、幸せになれないことのたとえ。
【注釈】 うだつが上がらないの語源は諸説あり、一つ目は、梁の上に立てて棟木を支える短い柱を「うだつ」といい、このうだつが棟木におさえられているように見えることから、頭が上がらない(出世できない)という説。
二つ目は、商家などで隣りの家との境に設ける防火壁のことを「うだつ」といい、そのうだつを高く上げることを繁栄のしるしとしたことからとする説。
(
HPより)
「深谷宿」の「うだつ」は、第二の説の「防火壁」を指しているようです。
「藤橋藤三郎商店」。
造り酒屋さん。「東白菊」とあります。
その先、右手「飯島印刷所」にあるのが本陣跡。
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本陣
本陣は、脇本陣並びに旅籠とは違い、一般人は利用できず、即ち公儀の厳重な制約を受け続けました。
中山道筋の貴人の通行例としては年間、泊まり10件、休憩40件程で誠に少なく、為に本陣職の大半は、他に主たる職業を持っていました。飯島家は宝暦2年(1752)より明治3年(1870)迄、足かけ六代に亘って、やむなく本陣職を続けざるを得ませんでした。
上段の間(晩翠堂)、次の間、入側がこの奥に現存しております。
平成8年5月 深谷上杉顕彰会
注:「深谷上杉顕彰会」は、室町・戦国の二百数十年間、九代に渡り深谷を治めた深谷上杉氏の歴史、業績、時代などを中心に 郷土史を編纂している団体のようです。
この建物にも「うだつ」が。![]()
煉瓦造りの煙突。造り酒屋さん。![]()
廃業した現在は、街道沿いのお店はお豆腐屋さん「深谷とうふ工房」、奥は「深谷シネマ」などさまざまなお店やイベントホールがあるようです。
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(
HPより)
「七ツ梅」という古めかしい看板は健在。![]()
「糸屋製菓店」。![]()
明治41年創業の老舗・和菓子屋。看板商品は「翁羊羹」「翁最中」「五家寶」。
造り酒屋(三軒目)。「菊泉」の「滝澤酒造」。![]()
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お店には「杉玉」が。
宿の西の出入口に建つ「常夜燈」。
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旧深谷宿常夜燈(田所町)
江戸時代中山道深谷宿の東と西の入口に常夜燈が建てられ、旅人の便がはかられた。
天保11年(1840)4月建立。高さ約4メートルで、中山道筋最大級の常夜燈である。深谷宿の発展を祈願して、天下泰平・国土安民・五穀成就という銘文が刻まれている。これを建てたのは、江戸時代の中頃から盛んになった富士講の人たちで、塔身に透し彫りになっている「○の中に三」の文字はこの講の印である。毎夜点燈される常夜燈の燈明料として、永代燈明田三反が講の所有となっていた。
天保14年には、深谷宿は約1.7キロの間に80軒もの旅籠があり、近くに中瀬河岸場をひかえ中山道きっての賑やかさであった。東の常夜燈は稲荷町にある。
平成6年4月 深谷上杉顕彰会
緩やかなカーブを描く「曲尺手」になっています。![]()
宿内を振り返って望む。
「国道17号線・原郷」の交差点を渡って「中山道」に入ると、すぐ右手にあるのが「常夜燈」。ここからが「深谷宿」となります。東海道では宿場入口や街道筋には道しるべも兼ねて、「常夜燈」が多くありました。中山道ではその役割を「庚申塔」がしていました。ここに来て、宿の東と西の出入口に「常夜燈」があることに(「深谷宿」は東西に連なる宿場町)。
(13:40)東の「常夜燈」。

深谷宿
江戸から数えて9番目の宿場。中山道で最大規模の宿場で、商人が多く、また飯盛女も多く、遊郭もあり、江戸を出立して2晩目の宿を求める人で大いに栄えた(一つ前の熊谷宿は飯盛女を置かなかった)。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、深谷宿の宿内家数は525 軒、うち本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠80軒で宿内人口は1,928人。

すぐ先の右手に「庚申塔」がありました。




主屋、洋館、本蔵、松庭湯、祠、中門及び塀、裏門及び塀、欅空庵、米蔵の9件。昭和初期のお助け普請として多くの地元の職人によって建てられた。設計は、魚住儀一による。
主屋は、質の高い数寄屋風建物で、高度で精緻な技量が発揮されている。洋館は、主屋南面に接続するユーゲント・シュティルのスタイルでまとめられている。
(

昭和6年、町長であった大谷氏が地域の人達に仕事を与えるために建てた家のようです(「お助け普請」)。
「深谷宿」は見所の多い建物が目立ちます。「東京駅」を模した深谷駅舎もその一つですが、立ち寄りませんでした。

古い歴史をうまく生かした建物。

「石川屋」さん。隣の土蔵も健在。

途中の「唐沢川」にはカモメが数羽。

「深谷」は偉大な実業家「渋沢栄一」の生地、そして渋沢栄一が立ち上げた日本で最初の煉瓦製造工場があった地でもあります。その煉瓦が使われた建物が街道沿いにもいくつかありますが、特に「煉瓦うだつの商家」が目を引きます。
「塚本商店」。

※「うだつ」が上がらない、という言い回しがあります。
【意味】うだつが上がらないとは、いつまで経っても出世しない、生活が向上しないことのたとえ。また、身分がぱっとしない、幸せになれないことのたとえ。
【注釈】 うだつが上がらないの語源は諸説あり、一つ目は、梁の上に立てて棟木を支える短い柱を「うだつ」といい、このうだつが棟木におさえられているように見えることから、頭が上がらない(出世できない)という説。
二つ目は、商家などで隣りの家との境に設ける防火壁のことを「うだつ」といい、そのうだつを高く上げることを繁栄のしるしとしたことからとする説。
(

「深谷宿」の「うだつ」は、第二の説の「防火壁」を指しているようです。
「藤橋藤三郎商店」。

その先、右手「飯島印刷所」にあるのが本陣跡。


本陣
本陣は、脇本陣並びに旅籠とは違い、一般人は利用できず、即ち公儀の厳重な制約を受け続けました。
中山道筋の貴人の通行例としては年間、泊まり10件、休憩40件程で誠に少なく、為に本陣職の大半は、他に主たる職業を持っていました。飯島家は宝暦2年(1752)より明治3年(1870)迄、足かけ六代に亘って、やむなく本陣職を続けざるを得ませんでした。
上段の間(晩翠堂)、次の間、入側がこの奥に現存しております。
平成8年5月 深谷上杉顕彰会
注:「深谷上杉顕彰会」は、室町・戦国の二百数十年間、九代に渡り深谷を治めた深谷上杉氏の歴史、業績、時代などを中心に 郷土史を編纂している団体のようです。
この建物にも「うだつ」が。

煉瓦造りの煙突。造り酒屋さん。

廃業した現在は、街道沿いのお店はお豆腐屋さん「深谷とうふ工房」、奥は「深谷シネマ」などさまざまなお店やイベントホールがあるようです。


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「七ツ梅」という古めかしい看板は健在。

「糸屋製菓店」。

明治41年創業の老舗・和菓子屋。看板商品は「翁羊羹」「翁最中」「五家寶」。
造り酒屋(三軒目)。「菊泉」の「滝澤酒造」。



お店には「杉玉」が。
宿の西の出入口に建つ「常夜燈」。


旧深谷宿常夜燈(田所町)
江戸時代中山道深谷宿の東と西の入口に常夜燈が建てられ、旅人の便がはかられた。
天保11年(1840)4月建立。高さ約4メートルで、中山道筋最大級の常夜燈である。深谷宿の発展を祈願して、天下泰平・国土安民・五穀成就という銘文が刻まれている。これを建てたのは、江戸時代の中頃から盛んになった富士講の人たちで、塔身に透し彫りになっている「○の中に三」の文字はこの講の印である。毎夜点燈される常夜燈の燈明料として、永代燈明田三反が講の所有となっていた。
天保14年には、深谷宿は約1.7キロの間に80軒もの旅籠があり、近くに中瀬河岸場をひかえ中山道きっての賑やかさであった。東の常夜燈は稲荷町にある。
平成6年4月 深谷上杉顕彰会
緩やかなカーブを描く「曲尺手」になっています。

宿内を振り返って望む。