《7 平塚》(2014.9.27~投稿。茅ヶ崎までは2015.3.11再投稿)
本格的な松並木が見え始める旧東海道。地元も保存・整備活動に積極的。


藤沢方向。 平塚方向。
茅ヶ崎駅近くには、


「茅ヶ崎一里塚跡」碑。日本橋から14里目にあたる。
その先には、京に向かう東海道で2箇所ある「左富士」の最初の地点。


「南湖の左富士」。

平塚宿を過ぎて、通りの向こうに見える「高麗山」。ここまで眼前に山が登場しなかったせいか、視界が開けると同時に、独特の山容が目を引く。


現在のようす。 大正時代のようす。(「知足美術館」HPより)
今も昔も「東海道」から眺める山のようすは変わらない。

(「東海道五十三次~五葉が選ぶ広重の風景画 - 鹿児島県立図書館」HPより)
《8 大磯》(2014.10.06~投稿)



「大磯江戸見付跡」「御料傍示杭」。
ここが、江戸方の宿入口となっていた。石垣(高さ約1.6m)の上に竹矢来を組む。「御料傍示杭」は、大磯宿北組のはずれを示すもの。
「国道1号線」に進むと、左手に「鴫立庵」。


「鴫立庵」。 「鴫立沢」。
京都の落柿舎・滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つといわれている。
こころなき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮れ (西行法師)
《9 小田原》(2014.11.10~投稿)
酒匂川を越えると、いよいよ小田原の城下町。


遠くに箱根連山。 遠くに富士山(↓)。
「山王橋」を過ぎると、「東海道 小田原宿」の標柱。道路を挟んで反対側(左手)には、「江戸口見附並一里塚址」碑。


江戸・日本橋から20里目。

小田原の典型的な商家の造り「出桁(だしげた)造り」という建築方法や、看板、大漁旗、館の前の堀、柳などが当時の風情を偲ばせる。
行く手の右手に大きな「お城」。これが「東海道中膝栗毛(弥次さん喜多さん)」でも有名な「ういろう(外郎)本舗」。

《10 箱根》(2014.11.28~掲載)
「三枚橋」を渡って箱根峠へ向かう。湯本茶屋の集落を過ぎ、右斜めに下ると石畳の道。箱根路に入って初めて旧東海道の石畳道を歩けるところ。


「女転ばし坂」から「須雲川」を木橋で渡り、県道に合流してしばらく進むと、「割石坂」。


「江戸時代の石畳」。
上りきると、「畑宿」。江戸時代、箱根旧街道の間(あい)ノ宿として栄え、たくさんの茶屋が並び、名物の蕎麦、鮎の塩焼き、箱根寄木細工が旅人の足を止めた。


「畑宿一里塚」(右側)。日本橋から23番目。
「西海子坂」を登ると、県道に出る。「箱根七曲り」と呼ばれているところ。旧街道は、この七曲りをほぼ垂直に突っ切って上って行くが、急坂の多くが崩落や荒廃によって、かつてはなかった階段で上り下りするところも多い。
その最後の詰めにある坂が「猿滑(さるすべり)坂」。箱根街道きっての急坂といわれていたところ。「殊に危険、猿猴といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす。」と、難所らしい坂の名の由来がある。
その先、「追込坂」を進むと、「甘酒茶屋」。

そこからは、「芦ノ湖」をめがけて急坂を下り、元箱根から「箱根関所」へ。



京口御門。 京口御門付近から東を望む(江戸方向)。
《11 三島》(2014.12.08~投稿)
日差しはよいが、風がひどく吹いている。波頭を立てる芦ノ湖の向こうに白雪の富士山。

芦ノ湖湖畔の箱根宿を過ぎると、と再び山にさしかかる。この坂が向坂です。坂の入口には石仏群があり、往時の杉並木も石畳も残っていて味わい深い坂が続く。
いくつか坂を上り、しばらくすると明るく道が開け、目の前には階段。国道を行き交う車の騒音も聞こえてくる。


「挟石坂」。箱根峠にかかる坂。
右に進むと、「道の駅・箱根峠」。目の前が大きく開け、「芦ノ湖」、「箱根連山」、「富士山」が一望できる、すばらしいロケーション。

「箱根峠」へ。標高846㍍。三島宿までは、ここからさらに4里(16㎞)近く、こわめし坂、臼転坂などの難所が続く。


駐車場のはずれで国道から離れ、県道を進む。左手に「兜(かぶと)石坂」の入口。


頭上を篠竹に覆われた、下りの石畳道。

旧道入口の左手に「山中新田一里塚」。江戸・日本橋より26里目。


石畳の坂道が続く。
明るく開けた「大枯木坂」「小枯木坂」を下り、国道を横断して左側を歩いていくと、その先に再現された石畳道。


「山名城址」の先の石畳の道を下り、国道に出てしばらくすると、右手に旧道の案内板が見えてきたが、工事中のため、通行止め。指示された通りに迂回し、国道1号線をそのまま下って、「富士見平」へ。

霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き
その先の旧道も「通行止め」。国道延々と歩き、「こわめし坂」へ。この坂、予想以上にきつい下り坂が続く。

ようやく旧国道1号線に出てしばらくすると、「小時雨坂」のゆるやかな下り坂。右手が開けてきて、富士山がよく見える。
その先、右の山道に入っていくと「臼転坂」。

枯れ葉、枯れ草に覆われた石畳道。頭上は灌木。
しばらく進むと、久々に松並木。


「錦田一里塚」付近からの富士山。

「三島宿」内に入ると、賑やかな通りになり、夕暮れ時、車も人も多くなってくる時分。大通りを西に向かって進む。


暮れなずむ「三島大社」境内。
さて、しばらくしてからの三島宿。


「樋口本陣跡」。 東を望む。
そのまま進むと、「三島広小路」。旧東海道は、左の道に。振り返って見たところ。通過する電車は、三島と修善寺を結ぶ「伊豆箱根鉄道・駿豆(すんず)線」。

地元では社名をもじって「いずっぱこ」と呼ぶことも多いらしい。
しばらく行くと、左手に「秋葉神社」。ここまでが「三島宿」。その西側に流れる川が、「境川」。「伊豆」と「駿河」の国境。ここから「駿河国」に入ることに。
《12 沼津》(2014.12.13~投稿)
「伏見一里塚(日本橋から29里目)」。


「玉井寺一里塚」。(右手) 「宝池寺一里塚」。(左手)
久々に出会った「国道1号線」を渡ってそのまま進んでいく。

右手に「傍示石(杭)」。

しばらく行き、左に入って「狩野川」沿いの道に進む。右手の小公園に「沼津日枝一里塚」。日本橋から30里目の一里塚。

沼津市は、明治維新後の区画整理や二度の大火のため、「沼津城」をはじめ、江戸時代の城下町・宿場町の痕跡はほとんど残っていない。また、小田原、浜松などと同様、第二次大戦での米軍の空襲によって大きな被害を受け、その後の復興整備等もあって、いっそう失われてしまった。
現在、「大手町」という地名が残るだけで、本丸跡は中央公園として整備され「沼津城本丸址」の碑が建つ。ここまでほぼ完全に破壊された城も珍しいといわれる。
かつての沼津宿の中心部へ。大通りから左に入り、狩野川沿いの石畳状の舗装道「川廓通り」を進む。右手奥に「中央公園」(沼津城本丸跡)。


「沼津城本丸址」。周囲の石は、付近で工事の際に発見された、三枚橋城の石垣に使われていたもの。
城下町らしく、道は、左、右、左と角ごとに曲がって進んで、「本町」へ。この付近には、「本陣」、「脇本陣」があった。


「高田本陣」跡。 「中村脇本陣」跡。
右に折れると、まっすぐな道が西へ。ここまで来ると、市内の繁華街から旧街道筋の雰囲気に。
たどってきた道を振り返る。
