さて、後半の歩き。
神社脇の石碑。「栗太八景」のうち「手原行人」漢詩碑。
雨寒塵路手原辺 客袂涙霑萬里天 終日著鞭馳痩馬 往来有故幾年々
手原を通る行人
雨は寒く塵の路手原辺り 客の袂は涙に霑(ぬれ)る万里天
終日鞭を著け痩せ馬は馳せ 往来故(ふる)くから有り幾年々
奥に見える三角屋根がJR「手原」駅。
しばらく行くと右手に石柱。
「東経136度 子午線」
子午線は南極点と北極点を結ぶ大円。「子午線」という語は、子の方角(北)から午の方角(南)に伸びていることから。
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イギリス・ロンドン郊外の旧グリニッジ天文台跡を通過するグリニッジ子午線が本初子午線(経度0度)に設定され、西側の経度は西経、東側は東経と呼ぶ。
日本標準時子午線(にっぽんひょうじゅんじしごせん)は、東経135度の経線。日本では、日本海に面した京都府京丹後市から明石海峡に面した兵庫県明石市、淡路島北端の兵庫県淡路市を通り、和歌山市沖ノ島西端(友ヶ島灯台近傍)をかすめて太平洋に至る。
経度135度では英国グリニッジ天文台を通るグリニッジ子午線(経度0度線)より9時間の時差があり、東経135度は9時間進んでいる。
「子午線・東経135度(明石市)」
(以上「Wikipedia」参照。写真、図を含む。)
「子午線」というと、木下順二の戯曲『子午線の祀り』を連想します。
『平家物語』を題材としたもの。平知盛を主人公に、一ノ谷の戦いで源氏に敗れた平家が壇ノ浦の戦いで壊滅するまでの物語。独誦から俳優全員による合誦までを自在に組み合わせた「群読」という独特の朗読形式を導入しています。
岩波文庫の巻末に、作者の木下順二は、
「遠く地平の北から大空へ昇って遥かに天の北極をかすめ、遥かに天頂をよぎって遠く地平の南に降る無限の一線、大宇宙の虚空に描かれるその天の子午線の大円を、平家滅亡その日の朝7時、月齢23.7日の月が、38万4400キロのかなたで、南中時約70度の高さ、角速度毎時14度30分で通過したゆえに(ゆえに?)、そのあと―水路部の「同時潮図」によれば―約9時間たつとこの海峡への漲り潮は落ち潮へと変り始め、潮は激しく西へ流れていた。月は、誰がどうしようもなく、そのとき子午線を通過したのである。・・・」
平家の滅亡と源氏の台頭、知盛や義経たち多くの源平の武将・兵士、女房、・・・らの個々の感情、思いを越えて歴史は形作られていく。時代(の流れ)というものの冷厳さ、厳粛を群読によって進められます。時空を越えた壮大なドラマ。
ふと思い出します。
その先の右手には、東海道手原村 田楽茶屋 すずめ茶屋跡地」碑。
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広い道路を横断して道なりに左に曲がっていくと、左手に「上鈎池」の高い土手が現れます。その先には、たくさんの石碑が並んでいます。「九代将軍 足利義尚公 鈎(まがり)の陣所ゆかりの地 文明19年(1887年)」。さらに、それに因む歌碑がずらり並んでいます。
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足利義尚と鈎の陣所
「応仁の乱」後、下克上の風潮によって幕府の権威は大きく衰退してしまった中、義尚は将軍権力の確立に努め、長享元年(1487年)9月12日、近江守護の六角高頼を討伐するため、諸大名や奉公衆約2万もの軍勢を率いて近江へ出陣した(長享・延徳の乱)。
高頼がゲリラ戦を展開して抵抗したため、義尚は死去するまでの1年5ヶ月もの間、近江鈎(まがり・滋賀県栗東市)への長期在陣を余儀なくされた(鈎の陣)。そのため、鈎の陣所は実質的に将軍御所として機能し、京都から公家や武家らが訪問するなど華やかな儀礼も行われた。
義尚は次第に酒色や文弱に溺れるようになって政治や軍事を顧みなくなり、また、側近を重用して専ら政治を任せたため、幕府権力が専横される結果となった。
長享3年(1489年)3月26日、近江鈎の陣中で病死した。享年25。
しばらく進むと左手に!
「飛び出し」坊やならぬ爺さんが!
「上鈎池」」脇から、旧東海道は「県道116号線」となります。しばらく道なりに進み、シーボルトが立ち寄ったという「善性寺」を左に見て、突き当たりを右に曲がって土手下の道沿いに進みます。
突き当たりに石柱が二つ。
左は「中郡街道・東海道」、右が「東海道・中仙道」。
後ろは土手、前は街道、というおうち。
この付近、道幅は狭く、見通しもよくありません。対向車が行き交うのも大変。それでいて車の通行量も多く、歩行者レーンもない中を歩くのですから、けっこう要注意。何度かヒヤッとする場面もあります。
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この辺りから「目川」。![]()
「東海道目川村栄町 飴屋甚五良」。
大小さまざまな形をしたひょうたんが軒先に。「目川ひょうたん展示・販売」。
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道幅も直線で少し広くなり、周囲は落ち着いた住宅地に。そこに「目川一里塚」があります。
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一里塚
東海道には一里ごとに距離標として一里塚が設けられていた。一里塚は道の両側に五間四方の塚の上に椋や松などの木立があった。
目川村の一里塚は、現在の鎌田屋敷の東隅とその向かいの旧北野家屋敷の西隅にあり、椋の大木があったといわれ、当時の一里塚は西は草津市野路に、東は六地蔵(梅の木)にあったといわれている。
日本橋から118里目の一里塚です。残り6つ、となりました。
来た道を振り返って望む。![]()
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しばらくすると街道名物・田楽のお店の跡碑が3つ続きます。
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目川立場 田楽茶屋 元伊勢屋跡
東海道を往来する旅人の休憩場として江戸幕府によって立場茶屋が置かれた。
ここで供された食事は地元の食材を使った菜飯田楽で独特の風味を有し東海道の名物となった。
天明時代の当家の主人岡野五左衛門は「岡笠山」と号した文人画家である。
与野蕪村に師事し、その力量は「よく師法を受け、筆神に入る」と称賛され「幕府の命に応じて揮毫し、将軍の覧に供す」と記録されている。
作品には氏神の小槻大社へ奉納された大絵馬の外、地元にも数点の作品が残されている。
隣には、「従是西膳所領」傍示石。
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名代 田楽茶屋 古志ま屋跡
東海道を往来する旅人の休憩場として江戸幕府によって立場茶屋が置かれた。
ここで供された食事は地元の食材を使った菜飯田楽で独特の風味を有し東海道の名物となった。
田楽茶屋は、立場の元伊勢屋(岡野屋)と、この古志ま屋(寺田屋)、京伊勢屋(西岡屋)の三軒を言い、すべてが岡の地に店を構えた。当家の藤棚は明治初期に新善光寺へ奉納された。
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名代 田楽茶屋 京伊勢屋跡
東海道を往来する旅人の休憩場として江戸幕府によって立場茶屋が置かれた。
ここで供された食事は地元の食材を使った菜飯田楽で独特の風味を有し東海道の名物となった。
田楽茶屋は、立場であった元伊勢屋(岡野屋)と、この京伊勢(西岡屋)、古志ま屋(寺田屋)の三軒を言い、すべてが岡の地に店を構えた。当家には当時からの藤棚がある。
歌川(安藤)広重はここにあった田楽茶屋を描いています。
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東海道五十三次之内 石部 目川ノ里 / 歌川 広重
図は目川の里。長旅もようやく京に近づいたという思いであったろう。茶屋は実在したもので、田楽は美味で名物だったという。名は伊勢屋。湖の奥に比良山が見える。木や山の様子からは、早春の静けさが感じられる。そして、店の前の人々は浮かれて踊るやら川辺に佇むやら、和やかに描かれている。
(「知足美術館」HPより)
この解説文によれば、茶屋のモデルは「伊勢屋」ということになるが、実は、「元伊勢屋」と「京伊勢屋」と「伊勢屋」は二軒となります。はたしてどちらだったのか?
現在の「京伊勢屋」跡。
大正期のようす(「同」HPより)
神社脇の石碑。「栗太八景」のうち「手原行人」漢詩碑。
雨寒塵路手原辺 客袂涙霑萬里天 終日著鞭馳痩馬 往来有故幾年々
手原を通る行人
雨は寒く塵の路手原辺り 客の袂は涙に霑(ぬれ)る万里天
終日鞭を著け痩せ馬は馳せ 往来故(ふる)くから有り幾年々

しばらく行くと右手に石柱。

子午線は南極点と北極点を結ぶ大円。「子午線」という語は、子の方角(北)から午の方角(南)に伸びていることから。

イギリス・ロンドン郊外の旧グリニッジ天文台跡を通過するグリニッジ子午線が本初子午線(経度0度)に設定され、西側の経度は西経、東側は東経と呼ぶ。
日本標準時子午線(にっぽんひょうじゅんじしごせん)は、東経135度の経線。日本では、日本海に面した京都府京丹後市から明石海峡に面した兵庫県明石市、淡路島北端の兵庫県淡路市を通り、和歌山市沖ノ島西端(友ヶ島灯台近傍)をかすめて太平洋に至る。
経度135度では英国グリニッジ天文台を通るグリニッジ子午線(経度0度線)より9時間の時差があり、東経135度は9時間進んでいる。

(以上「Wikipedia」参照。写真、図を含む。)
「子午線」というと、木下順二の戯曲『子午線の祀り』を連想します。
『平家物語』を題材としたもの。平知盛を主人公に、一ノ谷の戦いで源氏に敗れた平家が壇ノ浦の戦いで壊滅するまでの物語。独誦から俳優全員による合誦までを自在に組み合わせた「群読」という独特の朗読形式を導入しています。
岩波文庫の巻末に、作者の木下順二は、
「遠く地平の北から大空へ昇って遥かに天の北極をかすめ、遥かに天頂をよぎって遠く地平の南に降る無限の一線、大宇宙の虚空に描かれるその天の子午線の大円を、平家滅亡その日の朝7時、月齢23.7日の月が、38万4400キロのかなたで、南中時約70度の高さ、角速度毎時14度30分で通過したゆえに(ゆえに?)、そのあと―水路部の「同時潮図」によれば―約9時間たつとこの海峡への漲り潮は落ち潮へと変り始め、潮は激しく西へ流れていた。月は、誰がどうしようもなく、そのとき子午線を通過したのである。・・・」
平家の滅亡と源氏の台頭、知盛や義経たち多くの源平の武将・兵士、女房、・・・らの個々の感情、思いを越えて歴史は形作られていく。時代(の流れ)というものの冷厳さ、厳粛を群読によって進められます。時空を越えた壮大なドラマ。
ふと思い出します。
その先の右手には、東海道手原村 田楽茶屋 すずめ茶屋跡地」碑。


広い道路を横断して道なりに左に曲がっていくと、左手に「上鈎池」の高い土手が現れます。その先には、たくさんの石碑が並んでいます。「九代将軍 足利義尚公 鈎(まがり)の陣所ゆかりの地 文明19年(1887年)」。さらに、それに因む歌碑がずらり並んでいます。


足利義尚と鈎の陣所
「応仁の乱」後、下克上の風潮によって幕府の権威は大きく衰退してしまった中、義尚は将軍権力の確立に努め、長享元年(1487年)9月12日、近江守護の六角高頼を討伐するため、諸大名や奉公衆約2万もの軍勢を率いて近江へ出陣した(長享・延徳の乱)。
高頼がゲリラ戦を展開して抵抗したため、義尚は死去するまでの1年5ヶ月もの間、近江鈎(まがり・滋賀県栗東市)への長期在陣を余儀なくされた(鈎の陣)。そのため、鈎の陣所は実質的に将軍御所として機能し、京都から公家や武家らが訪問するなど華やかな儀礼も行われた。
義尚は次第に酒色や文弱に溺れるようになって政治や軍事を顧みなくなり、また、側近を重用して専ら政治を任せたため、幕府権力が専横される結果となった。
長享3年(1489年)3月26日、近江鈎の陣中で病死した。享年25。
しばらく進むと左手に!

「上鈎池」」脇から、旧東海道は「県道116号線」となります。しばらく道なりに進み、シーボルトが立ち寄ったという「善性寺」を左に見て、突き当たりを右に曲がって土手下の道沿いに進みます。

左は「中郡街道・東海道」、右が「東海道・中仙道」。

この付近、道幅は狭く、見通しもよくありません。対向車が行き交うのも大変。それでいて車の通行量も多く、歩行者レーンもない中を歩くのですから、けっこう要注意。何度かヒヤッとする場面もあります。

この辺りから「目川」。


大小さまざまな形をしたひょうたんが軒先に。「目川ひょうたん展示・販売」。


道幅も直線で少し広くなり、周囲は落ち着いた住宅地に。そこに「目川一里塚」があります。

一里塚
東海道には一里ごとに距離標として一里塚が設けられていた。一里塚は道の両側に五間四方の塚の上に椋や松などの木立があった。
目川村の一里塚は、現在の鎌田屋敷の東隅とその向かいの旧北野家屋敷の西隅にあり、椋の大木があったといわれ、当時の一里塚は西は草津市野路に、東は六地蔵(梅の木)にあったといわれている。
日本橋から118里目の一里塚です。残り6つ、となりました。
来た道を振り返って望む。


しばらくすると街道名物・田楽のお店の跡碑が3つ続きます。

目川立場 田楽茶屋 元伊勢屋跡
東海道を往来する旅人の休憩場として江戸幕府によって立場茶屋が置かれた。
ここで供された食事は地元の食材を使った菜飯田楽で独特の風味を有し東海道の名物となった。
天明時代の当家の主人岡野五左衛門は「岡笠山」と号した文人画家である。
与野蕪村に師事し、その力量は「よく師法を受け、筆神に入る」と称賛され「幕府の命に応じて揮毫し、将軍の覧に供す」と記録されている。
作品には氏神の小槻大社へ奉納された大絵馬の外、地元にも数点の作品が残されている。
隣には、「従是西膳所領」傍示石。

名代 田楽茶屋 古志ま屋跡
東海道を往来する旅人の休憩場として江戸幕府によって立場茶屋が置かれた。
ここで供された食事は地元の食材を使った菜飯田楽で独特の風味を有し東海道の名物となった。
田楽茶屋は、立場の元伊勢屋(岡野屋)と、この古志ま屋(寺田屋)、京伊勢屋(西岡屋)の三軒を言い、すべてが岡の地に店を構えた。当家の藤棚は明治初期に新善光寺へ奉納された。

名代 田楽茶屋 京伊勢屋跡
東海道を往来する旅人の休憩場として江戸幕府によって立場茶屋が置かれた。
ここで供された食事は地元の食材を使った菜飯田楽で独特の風味を有し東海道の名物となった。
田楽茶屋は、立場であった元伊勢屋(岡野屋)と、この京伊勢(西岡屋)、古志ま屋(寺田屋)の三軒を言い、すべてが岡の地に店を構えた。当家には当時からの藤棚がある。
歌川(安藤)広重はここにあった田楽茶屋を描いています。

東海道五十三次之内 石部 目川ノ里 / 歌川 広重
図は目川の里。長旅もようやく京に近づいたという思いであったろう。茶屋は実在したもので、田楽は美味で名物だったという。名は伊勢屋。湖の奥に比良山が見える。木や山の様子からは、早春の静けさが感じられる。そして、店の前の人々は浮かれて踊るやら川辺に佇むやら、和やかに描かれている。
(「知足美術館」HPより)
この解説文によれば、茶屋のモデルは「伊勢屋」ということになるが、実は、「元伊勢屋」と「京伊勢屋」と「伊勢屋」は二軒となります。はたしてどちらだったのか?

