しばらく広い道を進みます。左手は緑。

この日もけっこう暑いです。午後の日差しを浴びて水分補給と思いましたが、なかなか自販機が見つからず、やっと「ファミマ」でペットボトルを購入。
しばらく行くと、左手に「亀山ローソク」の工場。


あれ、聞いたことがある会社名。ローソクの会社がここにあるとは。なるほどここは、「亀山市栄町」。ここにあったんですね。
カメヤマ株式会社は、大阪府大阪市北区大淀中に本社を置くろうそくを専門に扱う企業である。一般には亀山ローソク、カメヤマローソクの名で知られ、ろうそくの国内シェアは約5割を占める。なお社名は創業地・三重県亀山市に由来するものである。
1927年、亀山で谷川兵三郎(ひょうさぶろう)がローソクの製造を目的に、谷川蝋燭製造所を創業。1946年、法人組織となり、亀山蝋燭株式会社を設立。1977年、亀山ローソク株式会社に、1983年、カメヤマローソク株式会社に、それぞれ社名変更。1993年、関連会社を合併を機に、現社名のカメヤマ株式会社に社名変更した。スパイラルキャンドルを生み出した国内最大手メーカーであるとともに、世界でも有数のキャンドルメーカーでもある。
1995年、キャンドルを中心とした生活雑貨を扱う『キャンドルハウス事業部』を設置。2000年、東京・青山に『キャンドルハウス事業本部』を設置し、全国7箇所(東京、大阪、名古屋、広島、福岡、札幌、新潟)にショールームを設け、アロマキャンドルなど様々なキャンドル、そして、メッシュ製品などのインテリアアイテムまで幅広いアイテムを取り扱っている。
結婚式において定番となっているキャンドルサービスを1959年に生み出し、2002年からパーティースタイルウエディングを提唱し、様々な流行に添ったウエディングスタイルを発表し続けている。2002年には、キャンドルサービスのホスピテリティを引継ぎ、新たなキャンドルセレモニー「キャンドルリレー」を発表した。
2001年、本社機能を大阪に移転したが、創業の地・亀山には『亀山本社工場』を設けている。
2007年からは、コーディネートに最も必要とされるカラーに着目、自在にカラーリングが可能なリキッドキャンドルを用いたスタイルを発表した。 取り扱う商品は仏事用のローソク以外に、線香、生活雑貨用や装飾用のキャンドルの他、メッシュ製のインテリア、窓や鏡をキャンバスに様々なデザインを描けるジェルジェムなどがある。
その他、同社はCHA青山店(Candle House Aoyama)というブランド名でキャンドルやインテリア雑貨を数多く取り揃えた直営アンテナショップを運営している。2007年(平成19年)4月には東名阪自動車道の亀山パーキングエリアのエリア内にあるハイウェイオアシス館の運営開始とあわせカメヤマ株式会社がCHAオアシス店と称してキャンドル雑貨を販売しており、多くの観光客で賑わっている。
(以上「Wikipedia」参照)
1 新郎新婦が入場し、入り口でご家族の代表の方もしくは親しいご友人から種火を受け取ります。
2 灯火(ともしび)はお父さまからお母さま、おばあちゃまからお孫さんへとつながって新郎新婦はゲストのテーブルに進み、各テーブルの代表の方おひとりへキャンドルの灯火を差し出します。
3 代表の方へのキャンドルの点火後、次のテーブルへ移動します
4 代表の方から順に隣席の方へ、そして同じテーブルの方々へ灯火がリレーされていきます。 ひとつひとつリレーされたキャンドルの灯りがふえていき、会場はだんだんとドラマチックな雰囲気になっていきます。
5 すべてのテーブルに火が灯った後、新郎新婦はおふたりのテーブルへ戻ります。
8 新郎新婦とゲストをつないだ灯火で、ウエディングキャンドルに点火ご友人やご家族の代表の方から、新郎新婦の持つトーチに、ゲストの想いをつないだキャンドルの灯火が返されます。
7 たくさんのゲストとキャンドルの灯りに見守られる中、おふたりの想いを込めてウェディングキャンドルに点火し永遠の愛を誓います
(

ということだそうです(ということだったかなあ)。
気になって振り返り、振り返りしていると、正門側にいた女性職員が怪訝そうな顔でこちらを。そそくさと道を急ぎます。
いよいよ本格的に亀山宿内へ。


屋号札の掲示(宿場の賑わい復活プロジェクト)
亀山市は、江戸時代の城下町、また東海道46番目の宿場町として栄えたまちです。そんな亀山から近年急速に古い建物が姿を消し路地もさびれて、以前の賑わいも見られなくなりました。
かかる現状を憂えた“きらめき亀山21町並み保存分科会”では協議を重ねた結果、歴史的なまちのたたずまいを復活する最初のプロジェクトとして屋号の木札をつくり、該当するお家に掲げていただくことをはじめました。
屋号で呼び合ったまちの人たちの暮らしには、なぜか親しみを感じます。
そして、どのようなしごとをしていられたのかも知ることが出来れば、お互いの交流もいっそう深まるのではないでしょうか。
このたびのしごとはまことにささやかですが、材料提供をはじめ、木札製作・掲示作業などすべて市民有志によって行いました。
今後も皆さまのご協力を得て、東海道亀山が個性豊かなまちとなるよう、私たちも活動を続けます。
(註 屋号は文久3年―1863―当時のもの。)
平成15年3月 きらめき亀山21宿場の賑わい復活一座(町並み保存分科会)

天正12年(1584)神戸正武が亀山城を急襲したが、城を守る関方鉄斎はわずか十三騎でこれを撃退した。この合戦の戦死者を城下東端に二つの塚を築き葬ったという。関氏一門の露心はその近隣に仏庵を建立し戦死者を供養した。
この仏庵が露心庵で、本来の名称は友松庵というが、建立した露心の名から露心庵と呼ばれていた。
明治に至り廃寺となった。この庵から西が亀山宿となる。
平成15年10月 亀山市教育委員会
「三本松」バス停。



「巡見道」(「東海道」と交差する北側)
巡見道
巡見道という呼称は、江戸時代にこの道を巡見使が通ったことによる。巡見使が最初に派遣されたのは、三代将軍家光の寛永10年(1633)のことで、その後の将軍の代替わりごとに、諸国の政情、民情などの査察や災害などの実情調査を行う目的で実施された。
巡見使はここで東海道から分岐して北上し、菰野を経て濃州道と合流した後、伊勢国を通過し、中山道とつながる。
平成16年9月建之 亀山市教育委員会
注:「菰野」町は、三重県の北西部、鈴鹿山脈の東山麓に位置する町。
これまでの宿場町にもあったように、家々には「屋号」が掲示されている。

しばらく進むと、左手に「江戸口門跡」。

江戸口門跡
延宝元年(1673)、亀山城主板倉重常によって築かれた。
東西120メートル、南北70メートルで、北側と東側に堀を巡らし、土塁と土塀で囲まれた曲輪を形成し、東端には平櫓が一基築かれていた。曲輪内は3つに区画され、それぞれが枡形となっていた。この築造には領内の村々に石高に応じて人足が割り当てられ、総計2万人が動員されている。
西側の区画には番所がおかれ、通行人の監視や警固にあたっていた。ただ、江戸時代前期においてはこの位置が亀山城下の東端と認識されていたことから、江戸口門は東海道の番所としてではなく、城下西端の京口門とともに、亀山城惣構の城門と位置づけることができよう。
現在は往時の状況を示す遺構は存在しないが、地形や地割、ほぼ直角に屈曲した街路にその名残をとどめている。
平成15年3月 亀山市教育委員会

左からやって来て、右に曲がる。正面が「江戸口門」跡。



「公園」。何かいわれがあるのかと思って立ち寄ったため、道路の反対側にある本陣跡や脇本陣跡の表示を見逃しました。
そこにあった「屋号札」に関する掲示板は判読不能。


「大手門」は、東海道に直面する亀山城の正門としてあった門。明治初頭に石垣にいたるまで破却されてしまった、そうです。

東海道の道筋には色が塗られています。



「屋号札」の掲示された家。


問屋場とは、江戸時代の各宿において、主に公用の荷物などを運ぶ伝馬人足の継ぎ立てのほか、一般の商品物資などの継ぎ立て業務をおこなう施設で、町の重役である宿役人がこれを受け持った。
東町と西町からなる亀山宿では、代々宿役人であった東町の樋口家(本陣の家)と西町の若林家(家業は米問屋)が、十日あるいは二十日程度の期間で定期的の交替しながら宿継ぎの問屋業務を担当している。
現在、西町の問屋場跡は、後世の道路改良などにより厳密に比定することはむずかしいが、享和3年(1803)の『亀山領内東海道中分間絵図』(亀山市指定文化財・伊藤容子氏蔵)や文化4年(1807)の『伊勢国鈴鹿郡亀山宿之図』(亀山市歴史博物館蔵)から、おおむねこの辺りに宿役人若林家の屋敷や借家、問屋場が並んでいたことが確認できる。
なお、元治2年(1865)には、若林家の借家や問屋場などは、日野屋に譲り渡されている(亀山市歴史博物館田中稲造氏寄託資料)。
平成15年10月 亀山市教育委員会
これから西は「関宿」への歩きとなります。今回はここまで。

東海道五十三次之内 亀山 雪晴 / 歌川 広重
雪の朝の亀山城の前を大名行列が通っていく。山の傾斜、行列、雪に包まれた松の線の方向を同じくし、二本の松がそれらの線と交差して自然の力強さを表わしている。銀世界に左手の紅色の空のぼかしが、晴れた日の日差しを表わしている。前図の庄野と並べると、主題構図も対象的で、続き絵としてのおもしろさもある。
(「知足美術館」HPより)