道なりに進むと、突き当りには「新設用水道碑」とここにも「力石」があります。これで3ヶ所目。解説板の内容はそれぞれ微妙に異なっています。
力石の由来
明治の中頃、この村にある二ヵ寺の御堂を再建するにあたり各所より土台石の奉納があった。また、御堂の地築(地固め)に、近郷近在より奉仕の人々が集まった。
その節、土台石の中よりこの石を選び休憩時に体力を試さんと持ち上げ競い合ったと伝えられている。
その後、茂福地区の青年若衆が大正の終わり頃までこの石で力比べをして競い合ったと言う。
およそ三十二貫(約120キログラム)を肩越しまで担ぎ揚げた人は幾人もいなかったといわれる。茂福町においては、この由緒ある力石を健康長寿の石と名付けてここに保存することにした。石に三十二メと刻まれている。下にある小さな石は重さ五貫(約19キログラム)で子供用であろうか。
平成5年7月吉日建立 茂福地区自治会 茂福地区白寿会

東海道を歩く人には「新設用水道碑」はご縁がなさそうで、ほとんど取り上げられません。
そこで、
「新設用水道碑の由来」
明治35年(1902)頃より大字茂福地内の耕地整理事業が行われ、十四川の改修工事に伴い茂福町へ流れる水路が無くなり、東茂福町の水田に水が入らなくなりました。
そこでこの碑より北西に十四川の中間より7㌔ロ760㍍の暗渠による水路を通し各家々の敷地内に(?)を設置して、明治37年(1904)8月完成より、大正、昭和中期まで、生活用水・防火用水として利用していました。
しかし、東茂福の水田地帯に国道1号線の開通に伴い水田は埋め立てられ、その後昭和34年(1959)伊勢湾台風の水害により暗渠に土砂が流れ込み、また水源地の十四川の環境悪化のため、この用水道は消滅しました。
富田地区文化財保存会
しばらく工場、倉庫街を進みます。


左手に松の木が見えてきます。戦前まで、この付近には松並木がありましたが、現在はこの1本のみで、「河原津の松」と呼ばれています。
久しぶりに街道沿いにある松に出会いました。。静岡、愛知県下ではずいぶんと親しんできた松並木でしたが・・・。
説明板によると、樹齢200年ほど。この地区の昔の名を取って「河原津(かわらづ)」の松と名付けられたそうです。現在、四日市市内で東海道に因む「松」が残っているのはここと日永のみだそうです。「かわらず」は、「変わらず」でもあるのでしょう。


この松もいつまで残っているのでしょうか?

ここまでで午後3時15分。暑さは、相変わらずしんどい。どこか休めるところは? と。すぐ側を走る「国道1号線」は大動脈とあってお店もありそう。少し寄り道をしてお店を見つけ、うどんを食べながら「大」休止にしました。
「讃岐釜あげうどん 四代目 横井製麺所」四日市羽津店。桑名にある「歌行燈」の系列店らしい。
のんびり涼んで、気がついたら3時50分。あわてて出発。しばらく進むと、左手に。
志氐神社の常夜燈。

旧東海道らしい町並み。

左に折れて「国道1号線」に合流します。

国道の向こう側、ガソリンスタンドの脇に道標。

「右桑名・左四日市道」を示しています。
しばらく「国道1号線」に沿って進み、「三ツ谷」交差点を過ぎたら、「多度神社」への道を左斜めに入ります。突き当たりの土手のところに、


三ツ谷の一里塚跡
一里塚は、江戸時代の初め、幕府が東海道をはじめとする五街道を整備した際、江戸日本橋を起点として一里(約4キロメートル)ごとに街道の両側に土を盛り、榎や松を植えて旅人の目印にしたものである。
東海道の三ツ谷には、かって一里塚があった。しかし、その場所は、昭和20年代に海蔵川が拡幅された際、川の中に取り込まれてしまった。「東海道分間之圖」(元禄3年〈1690〉)によれば、三ツ谷の一里塚は東海道が海蔵川に突き当たった辺りに記されている。
そこで、東海道宿場・伝馬制度制定四百周年を記念して、この場所を一里塚跡とし、石碑を建てて後世に伝えることにした。
平成13年(2001)3月吉日 海蔵(かいぞう)地区地域社会づくり推進委員会

旧道には橋がないため、国道1号線の橋を渡り、すぐ左折します。けっこうよくあるパターン。
いよいよ「四日市宿」の核心部に入っていきます。

しかし、時刻は、すでに4時半を回っています。陽は西に傾き、日差しも少し緩んできました。