前々から誘われていましたが、なかなかチャンスがなくていけなかった「沖縄」。
かつての(かなり昔の)の仲間とさらに神奈川や石川、福岡からの参加者もいて、「都高教退・日退教 辺野古高江連帯ツアー」。
総勢30名で出かけました。その名の通り、教員退職者の集まり。平均年齢は? 60歳以上なのは確か。でも、皆、お元気そうです。
7月5日(日)~7日(火)。
現地・沖縄の退職教会長さん他大勢の方々が待ち受けてくれ、大歓迎を受けました。
初日夜の「交流会」。2日目は終日、辺野古座り込み、夜の「交流会」には安保法制の「沖縄公聴会」を終えた名護市長・稲嶺さんも駆けつけてくれました。
3日目は高江座り込み監視行動への激励、「国立療養所沖縄愛楽園交流会館」訪問。
那覇のホテルから辺野古へ、名護のホテルからと現地までの長いバス旅では現地の闘いの学習会、交流と盛りだくさんでしたが、「垣間」見た「オール名護」から始まった「オール沖縄」(そこに至るまでの大変な苦労・・・)の反基地・平和の闘いを、熱く感じて帰ってきました。
出発日の東京は雨、気温23度。午後4時頃着いた沖縄は33度。勿論、6、7日もそんな気温。けれども、遠く南方洋上にある台風の影響なのでしょうか、座り込み中もテントの下、時折強い風が吹き、黒雲がかかるなど、思った以上にしのぎやすい3日間でした。
わずか3日の「連帯」。暑い日差し、台風襲来など厳しい自然環境の中で、粘り強く、諦めず未来に希望を持って明るく闘いを進める沖縄の方々に脱帽。
我々が参加した(お邪魔した)6日(月)は、ちょうど辺野古座り込み「365日目」でした。
7月5日(日)。午後4時。15年くらい前に来て以来の沖縄。那覇空港に着いたとたん、さすがに暑い! 上着をさっそく脱ぎました。
モノレールにもはじめて乗りました。空港から「見栄橋」駅まで。

那覇空港は自衛隊と共用の空港。海上、航空自衛隊、更に陸上自衛隊の駐屯地も空港のそばにあります。



そんなお店の一つ。貝殻がいっぱい。
交流会では美味しいお酒(泡盛)と料理を堪能しつつ、隣に座った現地の方と沖縄戦の状況からこのかんの闘いのようす、苦労をきくことができました。そのうち話題がずれて、沖縄の鉄道の話になりました。
戦前には「軽便鉄道」があったそうです。それも戦争の激化で完全に破壊され、レールや機関車などの鉄類は戦後スクラップにされてしまった。米の占領・施政下で線路跡もあとかたもなくなってしまった。現在、当時の鉄道に関する遺構などはまったくないとのこと。
また、道路も戦前の道は米軍基地内に取り込まれたりしてほとんど残っていない、と。あるのは、首里城付近くらいではないか、と。
破壊の限りを尽くされた、勿論、人の命までも大勢奪われた、苛酷な歴史を語ってくれました、ありのままに。時折、笑顔を絶やさず、・・・。
淡々とお話する姿にこちらの軽い気持ちは吹っ飛びました。
《余談(まったくの)》
ホテルに戻って周辺の地図を見ていたら、「ファミマ」と「ローソン」の店舗名はありますが、「セブンイレブン」が見当たりません。ホテルの方に聞いたら「たしかにありませんね」「一軒もないと思いますよ」「どうしてですかね」
一緒の仲間に聞いたら「そういえばそうだね」・・・翌日、バスの中から気をつけて見ていても確かにない! (何しに行っているんだとしかられそうですが)、・・・そうそう、「イオン」の店舗が目立ちます。
そして、帰りの空港。「沖縄タイムス」の記事に「セブンイレブン、いよいよ沖縄進出検討中」と。
現在、「青森」「鳥取」「高知」「沖縄」の4県に未進出らしいですが、さてどうなる?
6日(月)。9時。
「沖縄県庁」前に集合してバスで辺野古へ。10時30分着。



三線(サンシン)の演奏あり、歌声あり、踊り(カチャーシー)あり。デモ、シュプレヒコールもあり、各地からの参加者の発言あり。・・・ゲート前で「沖縄を返せ」を歌いました。この歌は「沖縄返還闘争」当時のもの。再び真実味を帯びています。


三線の演奏。 歌声グループ。


ゲート前でのデモ行進。




皆で、怒りのシュプレヒコール。 「沖縄を返せ」の合唱。


黄線の右が米軍基地。


七夕飾りに祈りを込めて。 通り過ぎる車に向かってプラカード。
昼食のために、近くの大浦地区の「道の駅」に移動。この施設は、地域の方で自主運営されています。


目の前に広がる青い海。正面奥の海域が辺野古基地予定地。



地元の農産物を直売しています。「モーイ」。 「トウガン」。
