2011年11月発行の書。ということは、「新潮45」誌上に2008年11月から不定期に連載してきた内容にプラスして、「東日本大震災」以後のものが加わっているということ。
加筆修正があるとはいえ、第1章「『呪い』の時代」で提起した時代状況(「現在」に対する問題意識)がそのままより深まっていくことに驚く。11年以前と以後との筆者の、現在のとらえ方に大きな変化はない、つまり、「東日本大震災」とりわけ福島原発の未曾有の事故が起こったことで、よりいっそう2年半前から思索してきたこととのつながりを持つ、と。
改めて2011・3・11以前と以後のスタンスに変化がないことに驚嘆する。それは、一貫して主張してきたことに間違いはなかったという筆者の確信でもある。特に、筆者自身が「阪神淡路大震災」を直接に経験したことが、より強い説得力を持っている。
ますます「呪い」「呪われ」の様相を見せている社会情勢。特にメディア、左翼的な批判的態度への批判は鋭い。
そうした中で、「呪い」から「贈与」という価値観をもとにした人間関係、社会的な関係を結ぶことによって社会の未来を見いだす、安定させていくことができる、このことを提唱しているが、今はそんな「悠長な」価値などなどは「くそ食らえ」の世の中。にもかかわらず、あえて「徒手空拳」的価値観をかかげる武闘家としての筆者の立場は一貫している。
呪詛も贈与も人類と同じだけ古い制度であり、それがどう機能するものかは誰でも知っている。けれども、多くの人々はそれは神話や物語の中のことであって、私たちの日々の生活には何のかかわりもないと思っている。そうではない。呪詛は今人びとを苦しめ、分断しているし、贈与は今も人びとを励まし、結びつけている。呪詛の効果を抑制し、贈与を活性化すること。私が本書を通じて提言しているのは、それだけのことである。(P285 「あとがき」より)
さて、世間はそう甘くはない。この書が世に出てからの4年間。自滅した民主党からアベ政権に移った後の政治、経済、文化状況はどうであろうか。
責任をとらない・認めない、反面、自らの主義・主張を数の多さで国民に強要し、(領袖様の恩恵を有り難く頂戴せよと)、メディアへ露骨に介入してもの言わぬ国民にさせ(物をいわせぬように仕向け)、一方でもの申す人々に対してレッテル貼りをし(呪詛し)、・・・。
それでもなお、「贈与」の価値観を訴える筆者だとしたら、騎士道物語を読んで妄想に陥ったの主人公が、自らを伝説の騎士と思い込み、痩せこけた馬のロシナンテにまたがり、従者サンチョ・パンサを引きつれ遍歴の旅に出かける物語の主人公のようではある。
が、この物語をもとにした「ラマンチャの男」の主題歌が「インポシブル・ドリーム」(邦題が「叶わぬ夢」でなくして「見果てぬ夢」)であることにまさに筆者は価値ある「夢」を託しているのだろう、と。
それにしても、アベをはじめ、自民党の大西発言といい、百田発言といい、言いたい放題の果てに何が生まれるだろうか? さらに、新幹線での事件といい、箱根山の噴火といい、人間界も自然界も「呪い」に左右される現実がますます濃厚になっているご時世ではある。「丑の刻参り」を精神的・言動的に「人に知られるように」、それぞれの立場で皆が行っているかのようだ。そこで、神がますます怒りをなす。
この時にこそ、筆者が提唱する、荒ぶる神々に対して、「鎮め」・「鎮魂」という具体的な行いが重要なのかも知れない。
しかし、「福島原発事故」と同様に、生身の人間(同時代に生を営む人々)のささやかな願い・思いをせせら笑うように、思いがけない事態を作り出す。
車両内に放火すると死者やけが人が出ることは想像がつく。新潟青陵大の碓井真史教授(社会心理学)は「無関係の他人を巻き込んで自死する『拡大自殺』を試みた可能性は否めない」と指摘。常磐大大学院の藤本哲也教授(犯罪学)は男が焼身自殺を選んだことについて「焼身自殺の背景には、特定の個人や社会に対する抗議の表明であることが多い」と話す。(「産経新聞」より)
加筆修正があるとはいえ、第1章「『呪い』の時代」で提起した時代状況(「現在」に対する問題意識)がそのままより深まっていくことに驚く。11年以前と以後との筆者の、現在のとらえ方に大きな変化はない、つまり、「東日本大震災」とりわけ福島原発の未曾有の事故が起こったことで、よりいっそう2年半前から思索してきたこととのつながりを持つ、と。
改めて2011・3・11以前と以後のスタンスに変化がないことに驚嘆する。それは、一貫して主張してきたことに間違いはなかったという筆者の確信でもある。特に、筆者自身が「阪神淡路大震災」を直接に経験したことが、より強い説得力を持っている。
ますます「呪い」「呪われ」の様相を見せている社会情勢。特にメディア、左翼的な批判的態度への批判は鋭い。
そうした中で、「呪い」から「贈与」という価値観をもとにした人間関係、社会的な関係を結ぶことによって社会の未来を見いだす、安定させていくことができる、このことを提唱しているが、今はそんな「悠長な」価値などなどは「くそ食らえ」の世の中。にもかかわらず、あえて「徒手空拳」的価値観をかかげる武闘家としての筆者の立場は一貫している。
呪詛も贈与も人類と同じだけ古い制度であり、それがどう機能するものかは誰でも知っている。けれども、多くの人々はそれは神話や物語の中のことであって、私たちの日々の生活には何のかかわりもないと思っている。そうではない。呪詛は今人びとを苦しめ、分断しているし、贈与は今も人びとを励まし、結びつけている。呪詛の効果を抑制し、贈与を活性化すること。私が本書を通じて提言しているのは、それだけのことである。(P285 「あとがき」より)
さて、世間はそう甘くはない。この書が世に出てからの4年間。自滅した民主党からアベ政権に移った後の政治、経済、文化状況はどうであろうか。
責任をとらない・認めない、反面、自らの主義・主張を数の多さで国民に強要し、(領袖様の恩恵を有り難く頂戴せよと)、メディアへ露骨に介入してもの言わぬ国民にさせ(物をいわせぬように仕向け)、一方でもの申す人々に対してレッテル貼りをし(呪詛し)、・・・。
それでもなお、「贈与」の価値観を訴える筆者だとしたら、騎士道物語を読んで妄想に陥ったの主人公が、自らを伝説の騎士と思い込み、痩せこけた馬のロシナンテにまたがり、従者サンチョ・パンサを引きつれ遍歴の旅に出かける物語の主人公のようではある。
が、この物語をもとにした「ラマンチャの男」の主題歌が「インポシブル・ドリーム」(邦題が「叶わぬ夢」でなくして「見果てぬ夢」)であることにまさに筆者は価値ある「夢」を託しているのだろう、と。
それにしても、アベをはじめ、自民党の大西発言といい、百田発言といい、言いたい放題の果てに何が生まれるだろうか? さらに、新幹線での事件といい、箱根山の噴火といい、人間界も自然界も「呪い」に左右される現実がますます濃厚になっているご時世ではある。「丑の刻参り」を精神的・言動的に「人に知られるように」、それぞれの立場で皆が行っているかのようだ。そこで、神がますます怒りをなす。
この時にこそ、筆者が提唱する、荒ぶる神々に対して、「鎮め」・「鎮魂」という具体的な行いが重要なのかも知れない。
しかし、「福島原発事故」と同様に、生身の人間(同時代に生を営む人々)のささやかな願い・思いをせせら笑うように、思いがけない事態を作り出す。
車両内に放火すると死者やけが人が出ることは想像がつく。新潟青陵大の碓井真史教授(社会心理学)は「無関係の他人を巻き込んで自死する『拡大自殺』を試みた可能性は否めない」と指摘。常磐大大学院の藤本哲也教授(犯罪学)は男が焼身自殺を選んだことについて「焼身自殺の背景には、特定の個人や社会に対する抗議の表明であることが多い」と話す。(「産経新聞」より)