霊南坂から西南付近は、けっこう坂道が入り組んでいて、「桜坂」、「榎坂」、「鼓坂」、「三谷坂」、「新榎坂」などと名づけられているようです。「桜坂」の標識のみ確認できましたが、他は・・・。そこで、不明なところは、『江戸東京坂道事典』コンパクト版 石川悌二著(新人物往来社)を参考にさせていただきました。

榎坂
赤坂一丁目十番、アメリカ大使館正門前を霊南坂から西北に下る坂道で『紫の一本』には「榎坂 溜池堤より赤坂の方へ行く坂なり、大木の榎一本あり。・・・」・・・(「上掲書」 P185)
江戸時代初期、「溜池」の水を苦労して築き留めた、その功のしるしとして榎を植えたことに由来する、と説明されています。


鼓坂
この坂は霊南坂教会(赤坂一丁目一三番)の北わき、同一二番との間を西へ下る坂で、桜坂の南に並んでいる。(「同」P186)
ということから、この坂は、「鼓坂」と思われます。
素人考えですが、「鼓」坂は、上にもあるように溜池「堤」に下る坂だったとすれば、「堤」坂ということに? 「桜坂」は明治中期に新設された坂ですので、江戸期にはこの「鼓(堤)坂」が西北に下る坂だったっような・・・。
この付近を上ったり下ったりしながら歩き回りました。

山谷坂(さんやざか)
坂下はもとの麻布谷町であるが、同町はそれよりむかし今井三谷町とよばれていた。したがって、この坂も今井三谷町にかかるので三谷坂とよんだのであろう。(「同」P194)
再び「桜坂」を下って行きます。


右手には「SAISON さくら坂」。

明治中期に新しく作られた道筋で坂下に戦災まで大きな桜の木があったことからその名がついた。


桜の季節はさぞかしすばらしい道に。 坂下から見上げる。
「ANAコンチネンタルホテル東京」の脇に下りて、「六本木通り」に出ます。左に曲がり、しばらく進むと、右手の坂が「スペイン坂」。


付近の案内図。右図で右にカーブする坂が「スペイン坂」。

スペイン坂の由来
1986年(昭和61年)、20年近い歳月を経て、赤坂(Akasaka)と六本木(Roppongi)の結び目(Knot)にアークヒルズ(ARK HILLS)は誕生しました。当時の民間における都市再開発事業としては最大級の規模(総敷地面積56,000㎡)を誇り、共同住宅、オフィス、ホテル、テレビスタジオ、コンサートホールなどを組み合わせた複合型街づくりは、その後の都心部における再開発事業のさきがけとなりました。
そのアークヒルズの南方に位置するこの坂道は、六本木通りからスペイン大使館につながることから「スペイン坂」と名付けられ、多くの人々に親しまれています。
春には、両側の歩道に植えられた桜が坂道を被うように咲き乱れ、都心における桜の名所としても知られています。
2001年1月1日 アークヒルズ自治会 森ビル株式会社

坂の途中から「六本木通り」方向を望む。

すぐ南隣の坂が「道源寺坂」。

道源寺坂
江戸時代のはじめから坂の上に道源寺があった。その寺名にちなんで道源寺坂または道源坂と呼んでいた。


左手に「道源寺」。 坂下を望む。
江戸時代からの坂らしい坂が残っていることにビックリ!

「スペイン大使館」を左奥に見て、坂上を右に曲がります。


御組坂
幕府御先手組(おさきてぐみ・戦時の先頭部隊で、常時は放火・盗賊を取り締まる)の屋敷が南側にあったので坂名となった。
タイル舗装のしゃれた坂道。この付近も大きく変貌していて、この坂も江戸期の道とは少し異なるようです。
現在、「泉ガーデンタワー」となっている付近には、かつて永井荷風が住んだ偏奇館(戦災で焼失)がありました。


記念碑。 「泉ガーデンタワー」の一角。
偏奇館跡
小説家永井荷風が、大正九年に木造洋風二階建の偏奇館を新築し、二十五年ほど悠悠自適の生活を送りましたが、昭和二十年三月十日の空襲で焼失しました。
荷風はここで「雨蕭々」「墨東綺譚」などの名作を書いています。
偏奇館というのは、ペンキ塗りの洋館をもじったまでですが、軽佻浮薄な日本近代を憎み、市井に隠れて、滅びゆく江戸情趣に郷愁をみいだすといった、当時の荷風の心境・作風とよく合致したものといえます。
冀くば来りてわが門を敲(たた)くことなかれ
われ一人住むといへど
幾年月の過ぎ来しかた
思い出の夢のかずかず限り知られず
「偏奇館吟草」より
平成十四年十二月 港区教育委員会
この付近も1990年以降の大規模な都市開発により、曲がりくねった坂道・石段があり、崖にへばりつくようにあった木造の家屋群などもすっかりなくなって、高層ビル街に変貌。
「偏奇館」があった付近の家屋や地形を含めてまったく跡形もなくなってしまいました。「偏奇館跡」碑の位置も実際にあった場所よりも北にずれているようです。
そのまま道なりに進んでいくと、右手の角には、

此処は、大正9年から昭和元年まであった山形ホテルの跡地である。
永井荷風は、此処から北百米程の処に木造2階建ての洋館を建て、『偏奇館』と称した。
25年ほど独居自適の生活を送ったが、昭和20年3月10日の空襲で焼失した。
荷風は其処で『雨瀟瀟・雪解』『墨東綺譚』などの名作を書いている。
荷風の日記『断腸亭日乗』には山形ホテルが登場する。彼は此処を食事、接待のために頻繁に利用した。
当時、山形ホテルの北側は崖になって、間に小さな谷間を挟んでその対岸に偏奇館が建っていた。
山形ホテルの主人、山形巌の子息が俳優山形勲(大正4年ロンドン生まれ、平成8年没)である。衣笠貞之助監督『地獄門』(昭和28年)今井正監督『米』(昭和32年)など、代表作は数多い。
永井荷風の研究家である、評論家川本三郎は著書『荷風と東京』(平成8年、都市出版)で、荷風と山形ホテルに一章を割いている。
昭和47年に麻布パインクレストが統治に竣工した。爾来30年が経過、都心部での住民書道によるマンション建替えの嚆矢として今般麻布市兵衛ホームズが完成した。
平成16年10月 麻布市兵衛ホームズ ・・・

右折して六本木通りに出ます。ここで、小休止。南北線「六本木一丁目」駅の地下街で、と。はるか地下深くまで下りるために連続するエスカレータ・階段が今どきの急坂になります。
