「案内図」通り、橋を渡り、

側道を下りると、案内の矢印が三つ。①「↑」。②「←」と「¬」が組み合わさったもの。③「←」。
①と②は、道の左脇にあり、③は右上の電柱に。
左折の道はすぐの道と、少し先にある二つの道。もちろん、①、②に素直に従えば、二つ目の道を行くのが、正解。
でも、ご丁寧に先の方まで同じ赤いコーンが道案内のように並んでいる。う~ん?
結局、右手上の③(○)を見て、指示通りの道を進みました(③が「冠木門」からの「四十七曲がり」共通の案内板)。

住宅街を進みます。途中に工場のような建物。

そのまま進むと、国道1号線にぶつかります。左手に「道標」。

この付近、これまであったように、旧東海道の道でないような、・・・。
参照。

「籠田公園」を出て左折した通りの途中にあった「案内図」と現行では、←A地点と→B地点に大きな違いがあります。
そこを右折して、「国道1号線」と「国道248号線」交差点「八帖」に架かる「歩道橋」を渡って南側に出ます。

歩道橋を渡ったら、少し国道1号線を東に戻り、最初の角を右に行きます。

広い道が急に狭くなります。今後、拡幅工事がありそうな印象。その先が旧来の「東海道」という感じです。


古い家並み。
これまで見てきたように、街道筋の家は間口が狭く、奥行きが長い敷地。当時の税金は間口の広さが基準だったから、とか。京都などでもそうです。

「CUT HOUSE KITOU」を右折。

大通り「国道248号線」に出ると、斜め向かい側に「ローソン」があります。交差点を渡って、そこで小休止。9時半過ぎですが、けっこう暑くなってきました。
交差点のところには「松葉総門跡」の石碑があります。


東海道岡崎城下西出入口 松葉総門跡
天正18年(1590)徳川家康が江戸に移り田中吉政が岡崎城主となり総堀を築き城下町を形成し東海道の城内西出入口としてこの地に松葉総門を建てた。
平成6年2月吉日 岡崎中央ライオンズクラブ 建立
ここで、岡崎城から出たことになりますが、はて「岡崎城」はどこにあったのか? 結局、見ずじまいでした。
西に向かいます。

高架線をくぐります。

ここは、「八丁味噌」の町。高架線の右手には「カクキュー」。


合資会社 八丁味噌 登録文化財
・昭和2年(1927)に完成した南北二棟の本社事務所
・明治40年(1907)に味噌蔵として建てられた本社蔵(現資料館)
この二つの建物が文化財保護法により登録されています。


ここの一角は趣のある建物が続いています。



岡崎の地場産業 八丁味噌
大豆そのものを麹化して塩と水だけを加えて熟成する豆味噌は、三河・尾張地方特有のもので、独特の風味を持ち、現在に至るまで岡崎を代表する名産です。
矢作川沿いであるという立地条件から、原料の大豆・塩などの仕入れが便利で製品の出荷にも舟運が利用でき、矢作川の伏流水が醸造に良くて、また気候及び風土にも適しているといわれています。
江戸時代以来、早川家と大田家の二軒が製造販売する「八丁味噌」は特に有名となり、地元周辺のみでなく江戸にも多く積み出され、その名を高らしめました。
現在も両家は「カクキュー」、「まるや」の商号で製造を続けています。
歌にみる八丁味噌
「摺ってよし、摺らずなおよし、生でよし、煮れば極よし、焼いて又よし」といわれる八丁味噌は、三河武士・農民・町人たちの常食・兵食として親しまれ、一日も欠くことのできない食品でありました。また、天正18年(1590)、徳川家康の関東移封により、三河譜代の大名、旗本によって全国的にその名が知られ需要が高まり、矢作川の舟運や江戸廻船の発達に伴い、三河木綿の運搬と相乗関係によって、伊勢・江戸を中心に販路が進展拡充しました。
それが「ふるさとへ まめを知らせの 旅づとは 岡崎(八丁)味噌の なれて送る荷」という吉田松陰の詠歌となり、「今日も亦 雨かとひとりごちながら 三河味噌あぶりて喰うも」という斎藤茂吉の短歌などに記され、江戸時代以来、岡崎城下の名産として称賛されてきました。

『純情きらり』(じゅんじょうきらり)は、2006年(平成18年)度上半期NHK連続テレビ小説の作品。シリーズ通算第74作目。
原案は津島佑子の『火の山―山猿記』。脚本は浅野妙子。主要な舞台は愛知県岡崎市。
昭和初期、7歳になる有森桜子は、4歳のときに母親・マサを病気で亡くしてからというもの、父親・源一郎に男手ひとつで育てられていた。
10年後、16歳になった桜子は、周囲の反対を押し切り東京音楽学校(現在の東京藝術大学)への進学を希望する。そんな矢先、父・源一郎が事故により命を落としてしまう。姉・笛子は進学に反対するが、父が遺してくれたピアノを極めようと没頭する。
翌年、桜子は幼なじみの松井達彦とともに、東京音楽学校を受験するが不合格に終わってしまう。その後、桜子は岡崎に帰ろうとするが、東京音楽学校の教授・西園寺公麿に励まされ、来年もう一度受験することを決意する。
さまざまな紆余曲折を経て、戦地から帰還した達彦と結婚する。その後結核を煩いながらも輝一を出産する。輝一に感染しないようにと決して会おうとはしない桜子に、山長や有森家の人々は輝一の姿を動画に収め、桜子の意識が朦朧とする中、病室の白壁に映して見せたのだった。
ジャズピアニストを夢見ながら、戦争に揺れる昭和の激動時代を駆け抜けるヒロイン・桜子の波乱万丈の人生を描いていく。
(以上「Wikipedia」より)

当時は、まったく見るヒマがありませんでした。
しばらく行った左手に、もう一つの製造販売元の「まるや」さん。突き当たりを右折して「矢作橋」へ向かいます。


「矢作橋」。川下の鉄橋は「名鉄線」。
「矢作橋(やはぎばし)」は、矢作川にかかる橋で、橋上を通るのは東海道(国道1号)。
矢作橋は慶長6年(1601年)に土橋として架けられ、その後何度も大水に流され改修を繰り返してきた。架橋がみだりにできなかった江戸時代には日本最長の大橋でした。現在の矢作橋は東海道に架かっていた橋よりも少し南側に位置しています。
矢作橋は昭和26年(1951年)に15代目が架け替えられ、老朽化や耐震化などの観点から新橋への掛け替え工事を平成18年(2006年)10月に着手、平成23年(2011年)3月13日に16代目の橋が完成した。
新しい橋の車道の幅員は、従来の3.25mから3.5mに広がり、歩道の幅員もそれまでの1.75mから3mに広がった。車線数は現行通りの片側二車線である。なお、現代の矢作橋の橋長は300mである。
「出合之像」
日吉丸(幼い頃の豊臣秀吉)は、8歳の時に奉公に出され、12歳の時に奉公先の陶器屋から逃げ出した。矢作橋の上で寝ていたところ、付近を荒らしていた野武士の一団が通りかかり、その頭が日吉丸の頭を蹴ったところ日吉丸はこれを咎め、侘びていけと頭を睨みつけた。この頭は海東郡蜂須賀村に住んでいた小六正勝であり、日吉丸の度胸の大きさを買って手下にしたという。
実際には、矢作橋が架けられた年には豊臣秀吉は既に亡くなっているため、この話は作り話であるとされていますが、この逸話を伝えるために、平成元年に矢作橋の西側に「出合之像」という像が建てられました。


東海道五十三次之内 岡崎 矢矧之橋 / 安藤 広重
藤川より1里半。この宿の出入口にあたるところに東海道随一の長橋がある。矢矧橋がこれで,長さ208間(378m)であった。現在の橋より右手に岡崎城があるが、広重画では左手に見えるから、もと橋はかなり左によって架せられていたのであろう。この矢矧橋が画面の中心である。粛々と隊伍をととのえてすすむ大名行列、そのむこうに岡崎城と山々が見える。この遠山は実景ではなく、広重の作図であろう。
(「鹿児島県立図書館・『東海道五十三次~五葉が選ぶ広重の風景画~』」HPより)
上記の浮世絵や明治初期の地図から類推すると、かつて東海道の橋は現在の橋よりも下流にあったと思われます。
従って、「Wikipedia」にある「(現在の橋が)南側に位置している」というのは間違いではないか。ただし、対岸の「知立」側の東海道(国道1号線)の整備と合わせ、大正以降、若干、橋が南側に移動したことは見て取れます。


大正期の岡崎(「知足美術館」HPより)。 現在のようす。

(

「出合之像」は橋の向こう側にあります。しかし、がっしり中央ラインはガードされて、まったく渡れません(それを見るには、「矢作橋」を渡る前に、向こう側の歩道に移っていなければなりません)。しかたなく遠く横目で見ながら、そのまま橋を下ってしまいました。

「冠木門」(8:15)~「矢作橋西詰」(10:00)。
次回は「出合之像」からということになります。
しばらく電車が来るのを待って名鉄「矢作橋」駅から「本宿」駅に向かいました。鉄橋を過ぎた左手に「岡崎城」が見えました。
なお、今回の「岡崎二十七曲り」は、『平成の旧東海道(日本橋~京)を歩く 平成19年4月~平成21年4月の旧東海道を記録する』(http://www5c.biglobe.ne.jp/~naka-boo/Toukaidou/toukaidoutop.htm)さん作成の懇切丁寧な地図を参考にしました。感謝します。
いずれにしても、「岡崎二十七曲り」は、当時から大きく様変わりした現状の中では、その道筋がたどれる個所とあいまいな個所があるようです(すでに宅地化されてしまったところも? )。
現段階では、「道標」、「案内板」によって導かれ、何とかクリアできたことで、「よし」とします。