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Channel: おやじのつぶやき
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袋井宿東本陣跡。二つの宿場公園。袋井丸凧。・・・(掛川駅から磐田駅まで。その4。)

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しばらく進むと、右手に本陣跡の門。東本陣跡。


袋井宿東本陣跡

 袋井宿には三軒の本陣が置かれていました。その場所から東、中、西本陣と呼ばれ、「東海道宿村大概帳」には次のように記されています。
 1、宿内惣家数 195軒
   内
   本陣 凡建坪290坪半 門構・玄関附 字新町 1軒
      凡建坪219坪  門構・玄関附 字本町 1軒
      凡建坪168坪半 門構・玄関附  同  1軒
 三軒の本陣は東海道往還通に面して北側に建てられました。三本陣のうち東本陣は「壱番御本陣」とも呼ばれ、代々八郎左衛門を名乗っていた田代家が営んでいました。田代家は本陣の運営とともに宿役人として書状・荷物の継ぎ立てを行った問屋場の最高責任者である問屋も勤めています。
 本陣の構造上の特色は門構えと玄関があり、また内部に「上段の間」が設けられていたことです。東本陣の場合、敷地全体の坪数1068坪、塀を除いた建坪288坪、間口13間半、奥行き31間もあり、その規模の大きさがうかがわれます。
 平成12年7月28日 袋井市教育委員会 

    

 この場所は平成3年度に発掘調査が行われ、建物の一部が発見されました。現存する本陣絵図で本陣の最も東側の建物です。
 発掘では火災の跡も発見され、何度も建て直されていると考えられます。
 この建物は、俗にいう「ウナギの寝床」のように南北に奥行きのある建物で、本陣家(田代家)の生活の場であったと考えられます。
 南側の街道に面した所は土間で、8畳が3間続き、南側2間には天井がなかったと絵図は記しています。その北側は坪庭をはさんで4畳と8畳、湯殿などが接続していました。

 左手の壁沿いには大きな説明板。

 東海道の本陣

 本陣とは江戸時代に大名や公家、幕府の役人などが宿泊したり、休憩する宿泊施設のことです。参勤交代の制度が始まった寛永年間ごろから整備が本格化し、五街道の宿場にはかならず本陣が置かれていました。本陣は一般の旅行者が宿泊できる旅籠屋とは違い、門・玄関・式台などを造ることが特別に許され、宿場の有力者が本陣の主人となり、名字帯刀を許されていました。

 本陣の宿泊

 袋井宿東本陣の利用状況は元和4年(1618)から寛永11年(1634)までの17年間の状況を記した袋井市指定文化財「本陣御宿帳」からうかがい知ることができます。袋井宿が開設されてから2年後に始まる幕藩体制初期の宿帳は大変に貴重なものです。
 その記載は極めて簡略で、利用の月日、休・泊の別、休泊料、そして利用者のみの記載となっています。この17年間のすべてについて、月ごとにその休泊の状況を整理すると、全体として宿泊と休憩とはいずれも30回を越えています。若干休憩が多いようですが、ほぼ半々となっており、宿の設置は他の宿場より15年遅れましたが、開設当初から宿泊の利用がかなり盛んであったと考えられます。また、年間を通しての利用回数をみると、20~40回程度の年が大半で、寛永3年(1626)と寛永11年(1634)は将軍の上洛の影響によって70回を越えて利用されていることは注目されます。また、月別の利用をみると、他の月に比べて12月の利用が多くなっています。参勤交代が制度化されて以降は、外様大名の交替期4月と、譜代大名の交替期6月が多くなったようですが、残念ながらこの宿帳は寛永11年(1634)までで終わっているため、その翌年に武家諸法度が改訂され、参勤交代が制度化されて以降の休泊の状況を知ることはできません。
 17年間で繰り返し東本陣を利用したのは伊勢国神戸城1万5千石の一柳直盛と三河国宝飯郡形原5千石の松平清直で、領地と江戸を往復するのに利用したと考えられます。

 本陣の利用

 大名が本陣を利用するにはそれなりの手続きがありました。まず各本陣に対して休泊の予約を伝え、利用可能なら本陣から請書を提出します。この後、他の大名との差合いを避けるために先触れを発し、家臣は大名の発駕に先だって現地に入り、宿割りを行い、関札を掲げ、玄関には定紋付きの幕を張り、提灯を灯し、本陣当主は礼装して宿はずれまで出迎えます。行列の出発は午前4時頃が慣習であったため、準備の時間を考えると午前1~2時の起床であったと考えられます。

 本陣の経営

 本陣の主たる収入は休泊料ですが、この休泊料に特に定められたものはなく、「御祝儀」と呼ぶにふさわしい性格のものでした。東本陣を数多く利用した一柳直盛と松平清直は一貫文から二貫文(千文~二千文)でしたが、金銭だけでなく、袷羽織・帷子(たれまく)・反物・色紙などで支払われることも多かったようです。また幕府から下賜金や各種の補助がありましたが、建坪200坪を越える大建造物を、つねに休泊に応じられるように維持することは大変な苦労でした。「きせるなどは50本出せば10本返ってくるのはまれである」といわれたように、本陣備え付けの椀・皿などの什器類から、はては屏風・布団・衣類にいたるまで持ち去られ、これらの補充に要する出費もかなりのものだったようです。
 本陣の経営は享保の頃からしだいに苦しくなり、戊辰戦争時には利用率が若干多くなりますが、明治維新以後、田代家は本陣を廃業し、伝馬所(明治元年6月に問屋場から名称変更)の元締役となりました。郵便業務の開業とともに、その取次所も兼ねることとなり、東本陣の建物は、最初の袋井郵便局となりました。

 備え付けの什器類などを持ち去る、などと興味深い記事が書かれています。今でもそうかな? なんて、ね。

 さらに今度は左手に「袋井宿場公園」。
     
                        「此処はどまん中袋井宿」。
遠州山名郡袋井宿
掛川宿へ2里16町(約9.7キロ)
見付宿へ1里半(約6キロ)
当所名物 うなぎ・すっぽん

    
   東方向。                                西方向。



 歴史の道 東海道 袋井宿

 袋井宿が初めて歴史資料にあらわれるのは、約700年前につくられた「遺塵和歌集」の次の一節です。
 「・・・なくふくろふの もろこゑは
      かけてもきかし かけ河の・・・」
 これは京都から鎌倉までの宿や名所を詠みこんだもので、おそらく「ふくろい」を梟にひっかけて表現したのでしょう。池田宿(豊田町)と懸川宿の間に記されていることから、袋井は鎌倉時代の後半には、ある程度宿としての設備を整えていたと思われます。
 鎌倉・室町・安土桃山時代を通じて、東海道は国内最大の幹線でした。武士や貴族・僧侶の他、多くの人々が往来し、特に戦国大名達にとって、交通路と宿駅の整備はもっとも重要な課題の一つでした。
 徳川家康は江戸に幕府を開く2年も前、慶長6(1601)年に、いわゆる「東海道五十三次」のほとんどの宿駅を設置しています。袋井宿は比較的距離のある掛川宿と見付宿の中間の宿駅として元和2(1616)年に開かれました。
 「五十三次」でいえば、品川宿(東京)から数えて27番目、ちょうど東海道の真ん中に位置しています。

公園の奥には、浮世絵が。
                      右には「北斎漫画 袋井」、左には「末広五十三次」。

そして民家の壁には。「東海道五十三次どまん中」。

 道の右手にも案内図。 

         
      右手にあった「袋井丸凧」保存会の事務所? ガラス越しには制作中の丸凧などがたくさん。


袋井丸凧の再現
                        
 袋井丸凧は歌川広重の「東海道五十三次袋井」や二代目広重の「諸国名所百景袋井」などに多く描かれています。
 その後、一旦は丸凧の伝承は消えて、凧上げの風習もなくなっていましたが、昭和六十二年、市内の、有志の尽力により郷土に伝わる丸凧の文化が再現されました。
 再び蘇った丸凧は、袋井の空高く舞い上がったのです。(「袋井市観光協会」HPより)

 広重を含めて袋井宿に関する浮世絵は、丸凧など凧揚げを題材にしているものが多いようです。

 「御幸橋」のたもとにある「本町宿場公園」。

 この公園にも「土塁」「高札場」など「東海道袋井宿」にちなんだものがつくられています。

    

 秋葉山常夜灯

 火伏の神様、秋葉山三尺坊大権現に対する庶民信仰は、江戸時代に入って盛んになりました。特に東海から関東地方にかけて数多くの秋葉講が生まれ、各地に分社や常夜灯が建てられました。
 公園入口の常夜灯はもと東海道北側にあり、南側約3メートルの円信寺跡には、1800年(寛政12年)に建立された常夜灯が今も残っています。

 高札場

 幕府が人々を治めるため、忠孝、毒物、駄賃、火付けなどに関する法令や禁令を掲示した場所を高札場と呼び、1711年(正徳元年)以降に整えられました。
 高札場は、町の辻や橋のたもと、街道の追分(分岐点)、渡船場、港、関所など全国いたるところに設けられ、幕府の権威を誇示する役割をも果たしていました。

 土手(土塁)

 いくつかの中小河川をひかえた袋井宿は、背の高い土手(土塁)に囲まれていたといわれています。大正時代に撮影された宿入口の写真に、石垣で補強された高さ2メートルをこえる土手が写っています。土手の内側には枡形(宿の警護所)がありました。袋井宿の景観をイメージしていただけるよう、階段の両脇に土手を再現しました。

 平成11年4月  袋井市

 そしてここが西のはずれ。宿内を望む。

 
 右の絵は「春興五十三駄之内 袋井」葛飾北斎 享和4年(1804)。葛飾北斎が生涯に描いた11種類の東海道風景画の一つ。画面の上部に3首の狂歌が添えられています。大きな荷物を背負った馬と大黒様を思わせる旅人。お茶を差し出す女将の姿は、どまん中袋井宿の「おもてなしの心」を表しています。
 左の絵は、「東海道五十三次之内 袋井之図」香蝶桜国貞 天保14年(1843)。「保永堂版東海道五十三次之内 袋井」を模した出茶屋を背景に荷を背負い、杖をつき、先を急ぐ女性の旅人を描いています。おそらく伊勢参りに行くのでしょう。当時、女性の旅は伊勢参りがほとんどでした。

    
                  徹底した「どまん中」路線は、恐れ入ります。

こちらは「東海道どまん中西小学校」。

 その先の左手には、洋館つくりの「旧澤野医院」。

 袋井市指定文化財 旧澤野医院

 旧澤野医院は、澤野家が江戸時代末期から昭和初期までに建築し、使用してきた建物群です。病棟、居宅、渡り廊下、洋館の4棟は地域医療を担ってきた建物であり、貴重な文化遺産として平成11年4月23日に袋井市指定文化財に指定されました。
 澤野家は享保12年(1727)に作られた「山名郡川井村差出明細帳」に内科医としてその名が記され、すでに地域医療を担っていたと考えられます。
 旧澤野医院は、旧東海道に面する敷地幅(間口)10.5間を有し、間口幅としては大きな部類に属します。奥行も29間あり、さらに西側に12.5間、9間の矩形敷地が設けられていたと考えられます。
 この敷地内に、街道に接して病棟(洋風二階建て)が建ち、これに接続して居宅(和風建築平屋)、さらに東側に突出した生活空間の建物(炊事場、風呂場など)、西側には渡り廊下によって繋がれている洋館が建てられています。
 各建物の特徴は居宅が純和風に対して、病棟と渡り廊下、洋館は洋風となっています。澤野医院の最盛期にはさらに多くの建物があったと考えられます。また、内庭及び南面の築庭についても同時期のもので、その後若干の変更が見られます。
 各建物の建築時期は明らかではありませんが、構造、形式から見ると、居宅は幕末から明治期、洋館と病棟については昭和初期の建築と考えられます。これらの建物と敷地は旧東海道に面する医療建築として、その類例が少なく、近代の医療行政や制度、医業の流れを知る上では貴重な存在と言って過言ではありません。

     

 しばらく道なりに。右手には「寺澤家長屋門」。 

「川井」。大きな交差点。 

 「袋井消防署」のところ。

 左が「諸国名所百景 遠州秋葉遠景 袋井凧」(二代広重)江戸時代末。右は「狂歌入り東海道 袋井」(初代歌川広重)天保年間。
                    
             (HPより)

 「袋井宿」は、「どまん中」から「丸凧」、「本陣」まで盛りだくさんでした。
  

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