緩やかにカーブする旧道を進みます。
道の角には、「油山寺参道」道標。

このように東海道からの道標が数多く設置されています。

題字が隷書で書かれているためこの名がある。
大きな唐獅子牡丹の角凧と鶴に松を描いた丸凧が上がっている。右下に「名物遠州だこ」と記されているように、田園風景と凧の取り合わせは、遠州地方を代表する初夏の風物だったのであろう。

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しばらく行くと、右手に「七ツ森神社」。

日坂の怪鳥に関わる神社のようです。
史跡七ツ森神社
七ツ森は田圃の真ん中に残る七つの塚として、尾張藩(愛知県)藩士高力猿猴庵が天明6年(1786)に、東海道を自ら旅して記した「東街便覧図略」に描かれています。
その中で一番大きな塚の上に描かれているのが現在の七ツ森神社です。
この七つの塚(森)には悲しい伝説が伝わっています。伝説では桓武天皇の頃、日坂宿に出没していた怪鳥を退治するために朝廷から派遣された七人の武士は、退治出来ずに返り討ちにあい命を落としてしまいました。哀れんだ村人が墓を造り彼らを葬りました。その墓が七つ森だと伝えられています。
・・・
七つの森(塚)は古墳とも考えられることなどからも、この場所は久努国造にゆかりの深い場所であったと考えられます。
平成10年3月25日 袋井市教育委員会
社の裏手からは戦国時代の城郭「久野城」跡が遠望できます(↓)。



三代豊国(歌川国貞)が人物を描き、歌川広重が風景を描くという、合作の東海道五十三次。この組み合せは、嘉永6年(1853)に「豊国にかほ(似顔)、国芳むしゃ(武者)、広重めいしょ(名所)」と評された当時人気の浮世絵師のうちの2名であり、いわばスター浮世絵師の得意分野での競演という趣があります。各宿場あて1枚ずつに、目録1枚を加え、全体で56枚からなります。
画面上部に広重が宿場の風景を描き、下半分は三代豊国(歌川国貞)が人物を役者絵・美人画とりどりに描いています。人物画は、宿場に関係する風俗や戯曲、故事、説話に取材するものが多く、当時の人々が風景を文学的関心に添って見ていたであろうことを想像させてくれます。(以上、「三菱東京UFJ銀行」HPより)


松並木の南側には、田園風景が広がる。

東海道松並木
主要な街道の両側に並木を植えることは古代より行われ、天平宝字3年(759)に諸国の駅路に果樹を植えたのが始まりとされています。「信長公記」には天正3年(1576)に織田信長が「路辺の左右に松と柳植え置く」と記され、慶長9年(1604)には徳川秀忠が「諸国街道一里毎に堠塚を築かしめられ、街道の左右に松を植しめらる」と、一里塚と一緒に松並木を整備したことが「徳川実紀」に記されています。江戸時代を通して旅人を日差しや風から守っていた並木も、明治維新以後その数を減らしてしまいましたが、現在地より東側には松並木が良く残り、江戸時代の面影を今に伝えています。
また、現在地の西側の道は真言宗の古刹油山寺へと至る油山道と呼ばれる道です。入口には文政11年(1828)に再建された油山寺道標と火防の神として信仰のある三尺坊が祀られている可睡斎への道標が建てられています。

新屋交差点で県道413号線と合流して反対側に出ます。


信号を渡ったら斜め左へ。

「どまん中茶屋」の案内に従って右折。


新屋の秋葉山常夜灯
火伏せの神である秋葉山三尺坊大権現に対する庶民の信仰は、江戸時代にさかんになりました。秋葉山詣のために上方や関東、東海では秋葉講が組織され、秋葉山へ参詣する人々が多くなりました。袋井市域でも秋葉信仰がさかんとなり、各地区に常夜灯が建てられました。
常夜灯は秋葉山に参詣するための秋葉道や東海道沿いにあるものばかりでなく、その築の人々が火伏せの神への信仰から建てられるものもありました。市内には石で作られた灯籠形と、木造の屋形の常夜灯が合計十四基現存しています。新屋の常夜灯は木造屋形で、作者は不明ながら見事な彫物がみられ、保存状況のたいへんよい常夜灯です。かっては、東海道を行き来する旅人のよい目印となったことでしょう。
道なりに進み、正面を左折して大きな通りへ。

最初の信号を斜め右に渡ると、「袋井宿」入口。



袋井宿と天橋
袋井宿は元和2(1616)年に設置されました。いわゆる「東海道五十三次」でいえば品川宿から数えて27番目の宿駅にあたります。天橋(阿麻橋)は袋井宿の東の入口にかかっていた土橋です。天保14(1843)年の調査によれば、宿内の町並みは西端の中川まで5町15間人口は843人、家数は本陣3軒・旅籠屋の50軒を含め195軒でした。
平成元年6月4日 袋井市教育委員会

注:「袋井宿」は、江戸からも京都からもちょうど「ど真ん中」の27番目なので、「どまんなか」が町のキーワード。

東海道五十三次之内 袋井 出茶屋ノ図 / 歌川 広重
袋井のはずれの田園を描いている。郊外の葭簀がけの茶屋は大木の木陰を利用している。駕籠かきと飛脚がたばこをくわえ、のんびりと一服している。野面石を積み上げた炉。火をおこす煙で、大木の下部が見えなくなっている。のどかな田園風景が広がり、遠くには農夫と馬が行く。高札の上の一羽の鳥は、ふれ書きに対する庶民の抵抗の表れかもしれない。
(「知足美術館」HPより)
注:広重の絵は、「袋井宿」東木戸付近(天橋付近)を描いたものとされています。

大正期の袋井「東海道(東海道五拾三次 広重と大正期の写真)」より。
写真の橋は、土橋時代の「天(阿麻)橋」か? とすれば、現在の「どまん中茶屋」の左側付近となる。



「東海道どまん中茶屋」。東海道はこの茶屋の左手を進む。


「袋井大凧発祥の地 袋井宿」。

ここで一休み。お茶をいただき、おにぎりを食べながら、茶店の地元の方と四方山話。
「ちょうどいい天気だね」
「暑からず寒からずですね」
「これからは暑くなるし。そうそう、ここに記帳してくれますか」
「ええ、いいですよ。はい、東京からです」
「横浜の人がけっこう来るね」
「なるほど東京からは来てないですね。へえ~、ずいぶん遠くからも」
「おひとりですか。団体で来る方も多いよ」
「こういうのも気楽でいいですよ」
「ここは、桜がきれいなんですよ」
「川沿いにずいぶんありますね」
「桜の頃にまたおいでなさいよ」。・・・
案内絵図、それも巻物風の案内をもらいました。
「こっちの方向でいいんですよね」
「ええ。時々間違う人もいますよ、あっちの広い道の方へ行って、また戻って来る」
「ありがとうございます」


商店も屋号の前に必ず「東海道どまん中」と記しています。

