電車や飛行機での移動時間が多いと、ついついうとうととして、気がつくと、外は景色ががらりと変わって雪景色に。そんな経験をしてきたばかりです。
それでも短編小説のいくつかを読んでつかの間の時を過ごす、そんな時間もまた、よきかな!
しっかりした組み立ての短編には深い味わいもあって、旅行では最適。時に「百年文庫」を図書館で借りては持参します。
福永武彦「廃市」
前にも読んだことがありましたが、相変わらず(といっても昔のままですが)読後感の爽やかさは変わりません。しっかりしたストーリー。しかし、10年前の出来事をとっくに忘れ去ってしまっていた! 一夏を過ごした下宿先の旧家での出来事。それを新聞記事でその町が大火でで焼失したことを知り、その経験の一部始終を蘇らせる、そうした手法は、さすが。
大学生の主人公にとって青春の痛烈な体験を、その後の慌ただしい生活の中ですっかり忘れ去ってしまう、たしかに時の流れの速さ、恐ろしさを感じさせる。いな、忘れ去ろうとしていたことが否応なしに再び鮮明に浮かぶ上がってきた、そんな主人公の戸惑いを垣間見た思いがします。
登場人物の固有名詞は明確で示されていながら、主人公のみイニシャルで表す。そこに、存在した町のたたずまい、そこに生きる人達、・・・。すでに失われた市井の生活を描き出していきます。もちろん、一見何の変化もない日常に潜む、狂気・嫉妬・動揺・・・、けっして単純ではない心の葛藤を、運河の流れにたゆとう人の生き様になぞらえての小説技法は、作者の面目躍如たるものがあります。
親戚の叔父の紹介で、その年の夏休み、私は卒業論文を書くため、運河に囲まれた古い町の旧家で間借り生活をすることにする。その最初の夜、ゆるやかな河の水音で寝つかれず、雨戸を繰りぼんやり表を眺めている「僕」は、遠くで女の泣声らしいものを聞く。悲しく喘ぐような声にじっと耳を澄ませる「僕」。・・・
この地がどこであるかは明示されていないが、「・・・さながら水に浮いた灰色の棺である。北原白秋『おもひで』」、と冒頭の引用にもあるように、白秋の故郷、福岡・柳川を舞台としていることは察しができます。
以前、知人に案内されてそこに立ち寄り、白秋の実家など近辺を散策し、うなぎの「せいろ蒸し」を食べました。
東京で食べる鰻の蒲焼きとは違って、蒸してある上に、ご飯にもタレが絡めてあるので、けっこうな甘さと香りでした。知人に山椒はないんですか(東京では振りかけるので)と聞いたら、そんなものはありませんよ、と半ば本気でしかられたことを思い出します。
1983年、大林宣彦によって映画化されていますが、やはり撮影は福岡県柳川市で、全編オールロケされています。
横光利一「春は馬車に乗って」
妻の死を看取る夫。凩の吹き始める季節から早春まで。死に逝く妻と看病に明け暮れる夫との諍い、和解、葛藤、平安、海辺の風景の微妙な移り変わりと庭先のささやかな変化、その中で、次第に死の準備を完了する二人。友人から届いたスイトピーの早春の匂やかさを妻に捧げる夫。最期の場面。
「どこから来たの」
「この花は馬車に乗って、海の岸を真っ先に春を撒き撒きやって来たのさ」
・・・(中略)・・・
妻はその明るい花束の中に蒼ざめた顔を埋めると、恍惚として眼を閉じた。
川端康成とともに「新感覚派」の旗手として活躍した人ですが、ここでは、ひたむきで奇をてらわぬ姿勢が生きた言葉で語られています。
もう一つは、伊藤整の「生物祭」です。
それでも短編小説のいくつかを読んでつかの間の時を過ごす、そんな時間もまた、よきかな!
しっかりした組み立ての短編には深い味わいもあって、旅行では最適。時に「百年文庫」を図書館で借りては持参します。
福永武彦「廃市」
前にも読んだことがありましたが、相変わらず(といっても昔のままですが)読後感の爽やかさは変わりません。しっかりしたストーリー。しかし、10年前の出来事をとっくに忘れ去ってしまっていた! 一夏を過ごした下宿先の旧家での出来事。それを新聞記事でその町が大火でで焼失したことを知り、その経験の一部始終を蘇らせる、そうした手法は、さすが。
大学生の主人公にとって青春の痛烈な体験を、その後の慌ただしい生活の中ですっかり忘れ去ってしまう、たしかに時の流れの速さ、恐ろしさを感じさせる。いな、忘れ去ろうとしていたことが否応なしに再び鮮明に浮かぶ上がってきた、そんな主人公の戸惑いを垣間見た思いがします。
登場人物の固有名詞は明確で示されていながら、主人公のみイニシャルで表す。そこに、存在した町のたたずまい、そこに生きる人達、・・・。すでに失われた市井の生活を描き出していきます。もちろん、一見何の変化もない日常に潜む、狂気・嫉妬・動揺・・・、けっして単純ではない心の葛藤を、運河の流れにたゆとう人の生き様になぞらえての小説技法は、作者の面目躍如たるものがあります。
親戚の叔父の紹介で、その年の夏休み、私は卒業論文を書くため、運河に囲まれた古い町の旧家で間借り生活をすることにする。その最初の夜、ゆるやかな河の水音で寝つかれず、雨戸を繰りぼんやり表を眺めている「僕」は、遠くで女の泣声らしいものを聞く。悲しく喘ぐような声にじっと耳を澄ませる「僕」。・・・
この地がどこであるかは明示されていないが、「・・・さながら水に浮いた灰色の棺である。北原白秋『おもひで』」、と冒頭の引用にもあるように、白秋の故郷、福岡・柳川を舞台としていることは察しができます。
以前、知人に案内されてそこに立ち寄り、白秋の実家など近辺を散策し、うなぎの「せいろ蒸し」を食べました。
東京で食べる鰻の蒲焼きとは違って、蒸してある上に、ご飯にもタレが絡めてあるので、けっこうな甘さと香りでした。知人に山椒はないんですか(東京では振りかけるので)と聞いたら、そんなものはありませんよ、と半ば本気でしかられたことを思い出します。
1983年、大林宣彦によって映画化されていますが、やはり撮影は福岡県柳川市で、全編オールロケされています。
横光利一「春は馬車に乗って」
妻の死を看取る夫。凩の吹き始める季節から早春まで。死に逝く妻と看病に明け暮れる夫との諍い、和解、葛藤、平安、海辺の風景の微妙な移り変わりと庭先のささやかな変化、その中で、次第に死の準備を完了する二人。友人から届いたスイトピーの早春の匂やかさを妻に捧げる夫。最期の場面。
「どこから来たの」
「この花は馬車に乗って、海の岸を真っ先に春を撒き撒きやって来たのさ」
・・・(中略)・・・
妻はその明るい花束の中に蒼ざめた顔を埋めると、恍惚として眼を閉じた。
川端康成とともに「新感覚派」の旗手として活躍した人ですが、ここでは、ひたむきで奇をてらわぬ姿勢が生きた言葉で語られています。
もう一つは、伊藤整の「生物祭」です。