大井川の土手をしばらく南下すると、右手に下り坂。その道を下っていくと、金谷宿側の「川越し場」。

ここも、対岸の「島田宿川越し場」と同じように、「川会所」「札場」人足の詰所「一番宿」から「拾番宿」などの施設が置かれていました。

公園の先にある小さな「八軒屋板橋」を過ぎると、その「川越し場」施設のあるところになります。

といっても、「島田宿川越」のように、復元・保存されているわけではありません。現在、生活している建物に「八番宿跡」というように表示されています。
なお、大井川鉄道「新金谷駅」前の観光施設「プラザロコ」内には、「金谷川越し資料館」があり、大井川の渡しで栄えた金谷宿の歴史文化を当時の遺品や模型を使って紹介しています。
川越しの復元画や川会所、高札場、札場など、江戸時代に実在した川越し施設が紹介されていて、江戸時代の大井川渡しの様子を今に伝えているようです。また、大井川川越し太鼓、川越し祭りなど、金谷宿の川越し文化が地元の人々の手で伝えられている、とのこと。
(以上、

現在の町並み。



「八番宿跡」。 「九番宿跡」。
広重は、「金谷宿」も大井川の川越しを描いています。

『広重 東海道五十三次 金谷大井川遠岸』
島田より1里。大井川の西岸にある宿駅で、島田と対峙している。すこし西の菊川の宿の方がむかしは有名であったが、いつしかこれに代わって殷賑をきわめるようになった。広重画では、大井川対岸に異形の山が見えるが、実際にはこのような山はなく、広重の構図上の作意である。前山に比して唐突の感があるのもそのためである。川原や川中に点々と見えるのが渡渉中の人間で、俯瞰的な構図のために風景がひろびろと見える。
(鹿児島県立図書館『東海道五十三次~五葉が選ぶ広重の風景画~』HPより)

(「知足美術館」HPより)

注:広重の絵で、中央の山間(あい)に見える宿が「金谷宿」。島田宿側から描いたものになります。
「大井川」は、今も昔も流れのところと川原のところが入り組んでいて、旅人は、川を渡ったり、橋を越えたり、石だらけの川原を歩いたり、と渡河が困難なようすだったことが分かります。



これまでの宿場町でもしばしば見てきたように、ここでも、宿場内の家々は間口が狭く、奥行きが長くなっています。今は、道側を駐車スペースにしたりしているおうちが目立ちます。

なお、「大井川鉄道」は「大井川鐵道」が正しい? 「鉄」を旧字体の「鐵」にしているのは、「鉄は『金』を『失』うと書き、縁起が悪いから」だといわれています。


「新金谷駅」方向。 「代官町駅」方向。
その先、左手に「金谷の宿」の文字が。


「金谷宿」は、「大井川」の河原から西の台地に連なる谷間にかたちつくられた町です。
金谷の東に位置する「金谷河原」は、1590(天正18)年、中村一氏(かずうじ)の「天正の瀬直し」で大井川の流路を東側に変えてから人の住む土地となりました。江戸時代には、大井川の金谷側の川越施設が金谷河原につくられ、金谷本町には伝馬役を務める施設がつくられました。
現在、牧の原台地など金谷周辺の丘陵には茶畑が多くありますが、これは、大政奉還後、窮乏生活をしている旧幕臣らが、地元町民と一緒になって開拓した茶畑で、静岡が全国一の茶生産地となる基礎を築きました。
そこには、かの勝海舟の尽力もあった、とか。勝海舟という人物は、先見性、実行力など、激動する時代の中で、実に肝っ玉のすわった一大傑物だと改めて思います。

寛永12年(1635)参勤交代制度とともに、各宿に本陣が開設されましたが、その当初より、佐塚家は佐次右衛門の名を継いで金谷宿本陣を務めました。
建坪263坪、門構え、玄関付で、門の屋根には対の鯱(しゃちほこ)が付いていたので、「鯱の御門」と呼ばれていました。
表の間口は13間、奥行きは35間半で、現在の佐塚家と東隣の住宅の敷地に当たります。
慶応4年(9月8日明治改元、1868年)10月5日、明治天皇御東幸のおり、ここで天皇がお昼休みをとられました。しかし、御食事の支度には本陣の家族は一切手を出さず、婦女子も遠ざけられ、天皇の茶の湯も、中町の塚本市右衛門の井戸水が使われました。
なお当時の「御小休」「行在所」の関札(宿札)と、神器( 八咫鏡―やたのかがみ―)が安置された「内侍所」(山田本陣)の関札が、佐藤家に大切に保管されています。
明治3年(1870)、本陣は廃止され、普通の旅人や役人の宿泊所(旅籠)となりました。
島田宿・金谷宿史跡保存会 島田市教育委員会
ここで、「八咫鏡」が出てくるとは思いませんでした。
しかし、明治天皇が神代からの皇室の正統であることを御旗にして「明治維新」(王政復古)を実現した新政権にしてみれば、「東京遷都」のためにはじめて東海道を「下る」天皇。それまでその存在とは無縁であった沿道の「民」に天皇という権威をしろしめすには、「三種の神器」が不可欠なもので、そのうちの一つを「奉戴」して東京に向かったのでしょう。
「三種の神器」は、日本神話において、天孫降臨の時に、瓊瓊杵尊が天照大神から授けられたという鏡・玉・剣のこと。また、歴代天皇が継承してきた三種の宝物「八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣」を指します。しかし、天皇をはじめ誰も実見はされておらず、多くの面が謎に包まれている。
天皇の践祚に際し、この神器の内、鏡と剣の形代および勾玉を所持することが皇室の正統たる帝の証であるとして、皇位継承と同時に継承される。
崇神天皇の時、鏡と剣は宮中から出され、外で祭られることになったため、形代が作られた。現在では八咫鏡は伊勢の神宮の皇大神宮に、八咫鏡の形代は宮中三殿の賢所に、草薙剣は熱田神宮に、それぞれ神体として奉斎され、草薙剣の形代は八尺瓊勾玉とともに皇居吹上御所の「剣璽の間」に安置されている。しかし同皇居内に皇族らが住みながらその実見は未だになされていない。
『古事記』では天照大御神が天孫降臨の際に、瓊瓊杵尊に「八尺の勾璁(やさかのまがたま)、鏡、また草薙(くさなぎの)剣」を神代として授けたと記され、『日本書紀』には三種の神宝(神器)を授けた記事は無く、第一の一書に「天照大神、乃ち天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)に、八尺瓊の曲玉及び八咫鏡・草薙剣、三種(みくさ)の宝物(たから)を賜(たま)ふ」とある。
古代において、「鏡」、「玉」、「剣」の三種の組み合わせは皇室特有のものではなく、「支配者」一般の象徴であったと考えられ、仲哀天皇の熊襲征伐の途次、岡県主の熊鰐、伊都県主の五十迹手らは、それぞれ白銅鏡、八尺瓊、十握剣を献上して恭順を表している。また景行天皇に服属した周防国娑麼の神夏磯媛も、八握剣、八咫鏡、八尺瓊を差し出した。また壱岐市の原の辻遺跡からは最古の鏡、玉、剣の組み合わせが出土している。
儒学伝来以後、「鏡」は「知」、「勾玉」は「仁」、「剣」は「勇」というように、三種の神器は三徳を表す解釈も出た。
①「八咫鏡」
記紀神話で、天照大神が天の岩戸に隠れた岩戸隠れの際、石凝姥命が作ったという鏡。天照大神が岩戸を細く開けた時、この鏡で天照大神自身を映し、興味を持たせて外に引き出し、再び世は明るくなった。のちに鏡は天照大神が瓊瓊杵尊に授けたといわれる。
②八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
八坂瓊曲玉とも書く。大きな玉で作った勾玉であり、一説に、八尺の緒に繋いだ勾玉ともされる。岩戸隠れの際に玉祖命が作り、八咫鏡とともに榊の木に掛けられた。
③草那芸之大刀(くさなぎのたち)
草薙剣(くさなぎのつるぎ)の旧名で、古事記では草那芸之大刀と記される。記紀神話では須佐之男命が出雲・簸川上(ひのかわかみ、現島根県安来地方の中国山地側、奥出雲町)で倒したヤマタノオロチの尾から出てきた剣。後、ヤマトタケルノミコトが譲り受け、移動中、周りを火で囲まれたとき、姫を守るため自らの周りの草を薙ぎ、火打石で草を焼いたとき帯刀していたことから予定調和の剣とされる。「焼津」の地名はこのとき草を焼いたことによる。

『吾妻鏡』によれば、1185年(元暦2年)の壇ノ浦の戦いで、安徳天皇が入水し草薙剣も赤間関(関門海峡)に水没したとされる。この時、後鳥羽天皇は三種の神器が無いまま、後白河法皇の院宣を根拠に即位している。
足利尊氏は後醍醐天皇の建武の新政(建武の中興)に離反し、1336年(延元元年/建武3年)に光明天皇の北朝を立てて京都に室町幕府を開くが、後醍醐天皇は、北朝に渡した神器は贋物であるとして自己の皇位の正統性を主張し、吉野(奈良県吉野郡吉野町)に南朝を開き南北朝時代が始まる。正平一統の後に南朝が一時京都を奪還して北朝の三上皇を拉致する際に神器も接収したため、北朝の天皇のうち後半の後光厳天皇・後円融天皇・後小松天皇の3天皇は後鳥羽天皇の先例にならい神器無しで即位している。南朝の北畠親房は『神皇正統記』で、君主の条件として血統のほかに君徳や神器の重要性を強調したが、既に述べたように、神器無しでの即位は後鳥羽天皇が後白河法皇の院宣により即位した先例がある。
南朝保有の神器は、1392年(元中9年/明徳3年)に足利義満の斡旋による南北朝合一の際に、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に渡った。
室町時代の1443年(嘉吉3年)に、南朝の遺臣が御所へ乱入し神器を奪う「禁闕の変」が起こり、剣と勾玉が後南朝に持ち去られたが、剣は翌日に早くも発見され、玉はその後1458年(長禄2年)に奪還された。
明治時代には、南北両朝の皇統の正統性をめぐる「南北朝正閏論」と呼ばれる論争が起こるが、最終的には明治天皇が、三種の神器保有を根拠に南朝を正統と決定する。
今上天皇は1989年1月7日に宮殿松の間での「剣璽等承継の儀」にて神器を継承した。
神器が現存か否かについては異説が多いが、そもそもの実体や起源を論ずる段階で諸説があるため、どのような情況をもって「現存」とよぶのかすら論者によってまちまちな前提での議論が多い。
また三種の神器は、「皇室所有とされること」に意味があるとの主張もある。つまり、「皇室が三種の神器を所有している」というより、「皇室所有のもの」こそが、三種の神器とする。これは皇室の権威を最大限にみなし、三種の神器を単なる権威財とみなしている。しかしそれなら、神器が奪われても天皇が所有権を放棄し新たな神器の所有権を取得すればいいことになるので、過去に天皇を崩御させてまで1つの個体を奪い合ったり、占領に備えて隠そうとしたりしたことが説明できない。
そもそも実際の儀式に使われるのは三種の神器の「形代」(レプリカではなく神器に準ずるもの)であり、実物については祭主たる天皇も実見を許されないため、その現存は確認できない。
伊勢神宮の神体とされる八咫鏡は古来のものが現存するといわれる。御桶代と呼ばれる密閉された箱状の容器に入って祀られており、神宮式年遷宮の際には、夜間、人目に触れぬよう白布で覆った神体を移御するための行列が組まれる。
宮中三殿の賢所に八咫鏡の形代としての神体の鏡が祀られるが、これは天徳4年(960年)9月23日(『日本紀略』『小右記』)、天元5年(982年)11月17日(『愚管抄』 「焼タル金ヲトリアツメテマイラセタリ」)、寛弘2年(1005年)11月15日(『御堂関白記』)、長暦4年(1040年)9月9日(『春記』藤原資房)等に火災の記録があり、それらの記述によると数多の火災によって鏡の形状を残しておらずわずかな灰となって器の中に保管されているようである[3]。これは源平の壇ノ浦の戦いで回収された。
熱田神宮に祀られる草薙剣は古来のものが現存するとされる。
皇居の神剣(草薙剣の形代)と勾玉は、は源平の壇ノ浦の戦いで二位の尼が安徳天皇を抱き腰に神器の剣を差し勾玉の箱を奉じて入水し一緒に水没した。草薙剣はそのため現存しない。が、この剣は草薙剣の形代(レプリカ)の一つに神道でいう御魂遷しの儀式を経て神器としていた物であり、後に改めて別の形代の剣が伊勢神宮の神庫から選び出され同様の措置が採られた。これが現在の皇居の剣である。一方、曲玉の方はその際に箱ごと浮かび上がり、源氏に回収された。この勾玉は古代のものが皇居に現存するとされる。
福岡県北九州市小倉南区に鎮座する蒲生八幡神社には、高浜浦の岩松という者が海に没した鏡・勾玉を拾い上げたという記録が残る。鏡も玉も空気が密閉された箱に入っていたため浮かびあがったのであって、剣はついに発見されなかった。
(以上、「Wikipedia」参照)
「形代」はレプリカではなく、神器に準ずるもの、らしい。う~ん、深~い、深~い曰く・因縁がありそうですが、これ以上は深入りせずに、道を進みます。
佐塚家は現在も続いていて、15代目になる、らしい。

少し進むと、左手に「柏屋本陣跡」。

現在の「JA大井川金谷」の位置。周囲には堀割などつくられています。
