久々の「向島百花園」。たくさんの木々や草花。そして、句碑・歌碑などがそこかしこに。周りは車の激しい明治通りとマンションに囲まれた都会の中の庭園。春の花が咲き誇っていました。実に久々。入園料70円(ただし、65歳以上)。
園内のようす。
甘酒屋さんやあずまや、休憩所もある。なかでも、「御成座敷」は宴会等でも利用される。
入ってすぐのところにある芭蕉の句碑。「春もやゝけしきととのふ月と梅」。同じ句(碑)が足立区郷土博物館にありました。
「足立区郷土博物館」にある芭蕉の句碑。「春も漸けしきととのふ月と梅」。文久3(1863)年建立。千住3丁目氷川神社境内にあったもの、とか。
同じく芭蕉の。「こ(ん)にやく」の句碑。「こんにやくのさしみも些(うす)しうめの花 はせを」。こんなぐあいに、「碑」が「い」からいろは順に「や」まで、29。
「墨沱梅荘記」碑(亀田鵬斎)。
ということで、花を愛でる前に、句碑などいくつか。
千寿庵益賀句碑「鳥の名の都となりぬ梅やしき」。
このように、開園当時(文化2年・1850年頃)は360本の梅が植えられていて「新梅屋敷」として創設された(亀戸にあった「梅屋敷」に依ったものか)。その後、たびたびの洪水で荒廃し維持も困難な時期もあったようだ。さらに、昭和20年3月10日の東京大空襲でこの辺一帯も焼け野原と化し、「百花園」も類焼、石碑以外、樹木も含めてほとんど跡形もなくなった。その後、復興して緑も濃くなったが、現在、梅はさほど植えられていない。
山上臣憶良「秋の七草」の歌碑。「秋の野に 咲きたる花を 指折りかき數うれば 七種の花 芽の花 乎花葛花 瞿麦の花 姫郎志 また藤袴 朝顔の花」。
二代河竹新七追善狂言塚の碑。
その説明。
6つほど並んで建っている碑の一部。
そのなかの一つ。井上和紫句碑。「紫のゆかりやすみ連(れ)江戸生れ」。
その一画にあった「日本橋石柱」。説明では模造品だと思われるが、徳川慶喜の文字と伝わっている、とか。
最中堂秋耳句碑。「限りなきそらの要や望の月」。
とまあ、きりがないほどたくさんの碑がありました。
其角堂氷機句碑。「朧夜やたれを安るし乃(あるじの)墨沱川(すみだがわ)」。
それにしても、長い年月のうち、さまざまな存続の危機に遭いながらも、句碑などよく保存されている。






ということで、花を愛でる前に、句碑などいくつか。

このように、開園当時(文化2年・1850年頃)は360本の梅が植えられていて「新梅屋敷」として創設された(亀戸にあった「梅屋敷」に依ったものか)。その後、たびたびの洪水で荒廃し維持も困難な時期もあったようだ。さらに、昭和20年3月10日の東京大空襲でこの辺一帯も焼け野原と化し、「百花園」も類焼、石碑以外、樹木も含めてほとんど跡形もなくなった。その後、復興して緑も濃くなったが、現在、梅はさほど植えられていない。







とまあ、きりがないほどたくさんの碑がありました。

それにしても、長い年月のうち、さまざまな存続の危機に遭いながらも、句碑などよく保存されている。
