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Channel: おやじのつぶやき
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跨線橋。演習線跡。(京成「大久保」駅〜JR「津田沼」駅。その3。)+鎌ケ谷。

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 JR「津田沼」駅から京成「津田沼」駅。新京成線が「京成津田沼」から分岐して松戸方面に向かう。出発してしばらくすると、JR線との「跨線橋」を過ぎる。この跨線橋がかつての演習線時代からの路線。鉄道第二連隊本部(兵営)から連隊材料廠・倉庫までの路線跡。

 当時の痕跡は? 位置は同じですが、手前の道路を渡る鉄橋部分と跨線橋と同じ時期に付け替えられたようです。

JR線の向こう側。こんもりとした部分が複線だったところ、あるいはもともとの線路跡?

  「跨線橋」。



 後日、別の場所へ出かけました。鎌ケ谷市東道野辺。
 「千葉公園」内にある「第一連隊」のコンクリート製の橋脚と同じものがここにもありました。ここのものは、「第二連隊」が設置したもの。鎌ケ谷市内に入って、「木下街道」から少し西に向かったところ。新京成「二和向台」駅からの路脇の公園に残されていました。習志野(津田沼)から松戸への演習線のほとんどは、戦後、「新京成線」になりましたが、ここはそのまま残されたようです。



 史跡 鉄道連隊橋脚 鎌ケ谷市東道野辺6丁目8番
 この橋脚は、昭和初期に旧日本軍の鉄道大隊が、訓練や物資等の輸送のため建設した鉄道の一部です。近代の戦争では、鉄道は人や物資の輸送のために重要な役割を担っていました。・・・
 この橋脚は第二鉄道連隊が、大戦中、鉄道を敷く訓練として津田沼〜松戸間に設けた路線の一部でしたが、終戦後は放置されていたため、この部分を除くほとんどを京成電鉄が買い受けました。その後、昭和21年(1946年)に京成電鉄の出資により新京成電鉄が設立され、当路線の整備を行いました。しかし、この部分は整備から除かれこの橋脚だけが残りました。現在の新京成電鉄の全線が整備を終え、開通したのは昭和30年(1955年)のことでした。
 平成11年3月 鎌ケ谷市教育委員会

窪地(実際に川が流れてはいなかったようです)に橋脚を設置して、架橋などの訓練施設にしました。


 脇にはすべり台などがあって、子供の遊び場になっています。適度な窪地状の起伏が格好の遊び場なのでしょう。


道路に沿って5基ほど残っている。



緑に覆われているが、特に大きな遊具もない。



 前後の路線跡は、どうなっているのか? 新京成線はこの場所から大きくそれて東北側を走っている。

昭和20年代後半(戦後)。
 赤い線が第二連隊が敷設した線路と思われる。新京成「二和向台」駅付近から大きく南にカーブしていた。↓が橋脚があるところ。青い線は、「木下街道」。

昭和40年代前半。
 線路と思われる部分は、道路となっている。

平成10年代。(以上、「今昔マップ」より)。

 この公園からの西北側の線路跡は定かではなさそう。なお、上の地図からもわかるように、橋脚が周囲より少し低地になった場所に造られた(。西北側が26?、東南側が25?、現地が20?)。

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