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Channel: おやじのつぶやき
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山形屋。いづろ通り。天文館通り。(鹿児島。その7。)

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 南日本銀行から少し行くと、「山形屋」。ひときわ目立つ装いのデパート。読みは、「やまがたや」ではなくて「やまかたや」。

 「山形屋」の始祖・初代源衛門は江戸中期元文3年(1738年)に出羽国山形に生まれる。宝暦元年(1751年)当時山形の経済を支えていた紅花仲買と呉服太物行商を興し、大阪・京都へ立ち回り、八面六臂の大活躍をしていた。源衛門が薩摩入りを決断したのは、薩摩藩主・島津重豪の商人誘致政策を機として薩摩入りをし、木屋町通り(のちの金生町)に店を構えた。呉服太物店を構え、山形屋と称する。

《沿革》
1916年(大正5年)ルネッサンス式鉄骨鉄筋コンクリート(地下1階〜地上4階)の新店舗落成。
大正期:

1932年(昭和7年)新館(地下1階〜地上7階、売場面積延べ10,403?)落成。
1945年(昭和20年)本社、空襲により被災。
1957年(昭和32年) 1階〜4階 エスカレーター運転開始。
1963年(昭和38年) 新旧両本館4,971?の増築と内部、外装とも一新、新装工事完成。売場面積16,229?となる。
昭和期:

1972年(昭和47年) 全館増築完成・新装オープン。(売場面積22,292?となる)
1998年(平成10年) 山形屋1号館外壁工事竣工。ルネッサンス調のデザインに一新。
平成期:

(以上、「山形屋」HPより)

 山形屋の創業は1751年(宝暦元年)、デパートメントストア化は明治時代中頃、近代的なデパート建築(清水組による施工)となったのは大正時代初期と古く、地方百貨店の先駆け的存在であり、神戸以西におけるデパート第1号である。
 商業面積は約33,000?、年間売上高は約500億円にも上り、地方百貨店としてはトップクラスの収益力を誇っている。
 1号館1階には山形屋バスセンター(鹿児島交通・三州自動車のバスターミナル)を併設し、鹿児島市内及び薩摩半島中南部を中心とした広域エリアから集客している。
 かつては、島津氏の勢力圏そのままに、熊本県人吉市や沖縄県那覇市(沖縄山形屋)にもグループ百貨店が存在した。
 現在、山形屋グループは、南九州地域(鹿児島・宮崎両県)において、上記のグループ百貨店をはじめ、スーパー部門子会社の山形屋ストア、山形屋ショッピングプラザなどの企業を展開している。
 電車通りに面した1号館は1999年に昭和初期のルネサンス調の外観に復元され、夜間には美しくライトアップされる。建物内部も曲線をもつ柱や梁などが復元されており、1号館1階は高い天井とシャンデリア、柱には大理石の化粧貼りが施されている。
 今では珍しくなった大食堂が健在である。山形屋子会社のベルグ(旧山形屋食堂)が1943年(昭和18年)7月に運営を開始し、1972年(昭和47年)から現在の7階で営業している。他の百貨店では複数の専門店から構成されるレストラン街に移行したところが多いが、山形屋では大食堂が盛況を維持し、視察に来た他店の関係者が驚くという。
 名物は1958年(昭和33年)から出している「焼きそば」で、揚げ麺に野菜たっぷりのあんかけをかけたものである。安価に設定されているものの、年間13万食が提供され、このメニューだけで大食堂の売り上げの半分を占める。屋上には遊園地もある。また、無料給茶機や個別空調を完備した休憩室も設けられている。
 店内放送のチャイム(山形屋グループ百貨店共通)として「アルプスの牧場」が使用されているが、これは国鉄の20系客車で使用されていたものと同じである。
 地域における商品力、ブランド力は昔から格段に強く、鹿児島市の中心繁華街である天文館地区においてガリバー的存在として君臨している。そのため、鹿児島市の商圏規模を考えれば共存できるはずの丸屋デパート(後の鹿児島三越・三越鹿児島店、現在のマルヤガーデンズ)や高島屋デパート(現在のTAKAPLA(当初は高島屋プラザ)で大阪に本社を置く同名の百貨店とは無関係)といった競合店は苦戦を強いられてきた。
 地元には山形屋を脅かす競合店が存在せず、また北部九州地域との交流も限定的であったため、文字通り「一人勝ち」の状況が続いてきた。
 しかし、新幹線や高速道路などの高速交通網の整備や、大規模小売店舗立地法の施行に伴う郊外大型商業施設の増加などの影響もあり、近年売上高は減少傾向にある。
 鹿児島中央駅ビルアミュプラザ鹿児島のオープンや、イオン鹿児島ショッピングセンター(現・イオンモール鹿児島)など郊外大型商業施設の相次ぐオープンに対抗するため、「We Love 天文館協議会」への参画や各種イベントの開催などにより、天文館地区における協力調和と地域活性化を図る姿勢を明確にしている。
(以上、「Wikipedia」より)

 まさに、「地元の雄」というような存在です。

尖塔が特徴的。大正期の建物にはあったが、戦災、復興期などを経て取り除かれた。それを平成になって復活させた。建物全体の印象として復古調の味のある建物。存在感がある。建物の内部もすばらしい、とのこと。





 いづろ通りから天文館通りに向かいました。

いづろの歴史〜石灯籠(いづろ)通りの由来(「いづろ @ 天文館商店街ホームページ」より)

 石灯籠通りは天文館の松山通りから石灯籠交差点を通り、海岸まで突き抜ける通りである。藩政時代には、突きあたりの港の岸壁に石灯籠が一基立っており、錦江湾を航行する船の灯台の役目を果たしていた。これが石灯籠通りの由来といわれる。
石灯籠通りは現在はその面影はほとんど残っていないが幕末から明治、大正にかけて鹿児島城下で最も繁栄した通りでした。
 明治中期、石灯籠通りは新道松山通り共に、鹿児島市の有力店舗が集まり、鹿児島市の二大商店街を形成していた。
石灯籠通りは、大通りの繁華街で、明治屋呉服店など大店舗が多かった。このころ明治屋呉服店は座売りで山形屋より明治屋という気分であったようだ。
 また大正時代はじいさん、ばあさんたちの若いころは、人前で恥をかくことを、『こともあろうに、石灯籠通りで滑って転んだようだ』と言っていたらしい。石灯籠通りの海岸側は現在と比較にならない程、にぎやかな通りであった。
石灯籠通りが鹿児島で第一の殷賑を極めているのは呉服屋が多いからであると言われていた。

海岸に向かう通り「いづろ通り」昔賑わっていた頃の面影はない。

「電車通り」から「天文館通り」が繁華街の中心。

鹿児島名物の「ボンタンアメ」と軽羹などを製造販売している「薩摩蒸気屋」のお店と広告。市電もけっこう行き来している。


芝生を敷き詰めた軌道。

かつての市電のレリーフ。

アーケードの商店街が通りをはさんで続く。

  

 その商店街のはずれ近くに「天文館跡」のモニュメントがあります。
 

「天文館跡」碑。

説明文
 島津家25代重豪が、天文観測や研究のため、1779年にここに明時館を建て、藩内の暦はすべてこの明時館から配布し、薩摩暦とか鹿児島暦といわれました。
 明時館は別名天文館とも呼ばれ、現在の繁華街天文館の名は、ここから由来しています。この付近は当時、石垣をめぐらした武家屋敷や迎賓館にあたる御着屋、花岡屋敷などがありました。

碑文「天文館通りの由来」
 ここは安永8年(1779年)島津重豪のころ天文観測や研究をし、又薩摩暦などを造った明時館の跡であります。それでこの通りは天文館通りとよばれるようになりました。

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