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Channel: おやじのつぶやき
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JR外房線「上総一ノ宮」~「三門」。その7。長者。飯島喜美・宮本百合子。三門駅へ。外房黒潮ライン。江場土川。~夷隅川の河童どん~ (「房総東往還」を歩く。第5日。)

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右手奥には「長者駅」がありましたが、次の駅「三門」まで足を延ばすことに。

複雑でユニークな屋根。

こちらは房総らしい屋根のおうち。 

「長者」。

一帯に柴胡(さいこ)という草が一面に茂っていたことから柴胡原と呼ばれ、無人であったが、江戸から房州へ向かう旅人の宿泊地として旅館や商店が現れ、房総の宿駅として発展した。万治年間に家数35軒ほどとなったのを機に、領主阿部播磨守に願い出て町となり、領主の邸が江戸下谷の長者町にあったことから「長者町」と名付けた。(「Wikipedia」より)

左手に最近出来たと思われる記念碑が。

中央に「飯島喜美」。

匝瑳郡共和村(現旭市)生まれ 東京モスリン紡績亀戸工場でストライキ指導 モスクワのプロフィンテルン第5回大会で演説(1930・18才)

左右の碑には、プロレタリア作家 宮本百合子の短歌と一文が刻まれています。 

・ひろひろと夷隅の川の海に入る 岬のかなたに虹立ちて居り

・よしきりのここだ来啼ける河口に かかる木橋は年古りにけり

・虹かゝる岬のはての叢松は 小さく群れて目にさやかなり

もう一つには、

うらゝかな春は きびしい冬のあとに来る 可愛い蕗のとうは 霜の下で用意された

・・・

※飯島 喜美(いいじま きみ、1911年12月17日 - 1935年12月18日)は、日本社会運動家

千葉県匝瑳郡太田村(現旭市)で提灯職人の家の13人兄弟の長女として生まれた。尋常小学校卒業後、2年間女中奉公1927年女工として東京モスリン紡織亀戸工場に就職した。やがて共産主義の研究会に参加するようになり、1928年の同工場の賃上げ争議では500人の女工たちの副責任者を務め勝利に貢献した。1929年四・一六事件亀戸警察署に検束されたが、日本共産青年同盟に加盟、同年5月日本共産党に入党。1930年モスクワに渡り、赤色労働組合インターナショナル(プロフィンルテン)第5回大会に日本女性として初めて参加し演説、のち東方勤労者共産大学(クートヴェ)に入学した。1931年10月帰国、党中央婦人部員を務め地下活動に投じた。1933年5月に検挙、投獄され、のち栃木刑務所で獄死した。享年24。

評伝に、山岸一章「紡績労働者の飯島喜美 コンパクトに『闘争・死』の文字」(『不屈の青春―ある共産党員の記録』新日本出版社、1969年、所収)、鹿野政直「飯島喜美 革命運動史上の光芒」(『鹿野政直思想史論集 第6巻』岩波書店、2008年、所収)などがある。

(この項、「Wikipedia」より)

 イチョウ並木。

「国道128号」と交差。

「外房黒潮ライン」と名付けられています。

           往還道は、正面の道に。

「国道128号」上総一宮方向を望む。

「三門駅」方向へ進みます。

「江場土橋」。

「江場土川」。下流方向。

           

穏やかな房総の夷隅川にはこんな民話が残されています

~夷隅川の河童どん~

昔むかし、天神様のお祭りの見世物小屋に河童の親子が出されていたそうな。
珍しいものだから、たくさんの見物人でにぎわっていたが、それを見た江場土村の者たちは腰を抜かさんばかりに驚いた。
「おらほの村の氏神様(六所神社)では、河童どんを水の神様としてうやまっているのに、見世物にするとはあんまりだ」
急いで村に戻り、みんなして六所神社の神主さんにお願いした。
「神主さん、あんとか河童の親子を助けてやって下せえ」
話を聞いた神主さんは、急いで見せ物小屋にかけつけてわけを聞くと、この河童の親子は悪さばかりの困りものの河童だったので、捕まえられて見せ物小屋に売られてしまったのだそうな。
神主さんはこの河童の親子を可哀そうに思い大金を出して買いとると、よく言い聞かせ、六所神社の裏を流れる「後っ川」に放してやったそうな。
この川は、鴨根の清水寺の山から流れてきて夷隅川の河口に出るが、上流にある将監淵という深い淵に住みついたこの親子の河童を、村人たちは「将さん河童」と呼ぶようになったそうな。
それからは、他の村がいくら日照りで困っても、将さん河童が、夜のうちに将監淵から田畑に水を汲んで来てくれたおかげで、江場土の村だけは水に困らなくなったそうだ。
そんなことで、村人たちも河童を大切にし、きゅうりやぼた餅を供えてやってたそうな。
そんなある年の夜、大雨が降って、江場土の橋が流されてしまった。
とある家の嫁さんが急に産気づいて苦しみ出し、家の者が川向うの産婆さんのところへ連れていこうとしたが流れが早くて船が出せない。困っていると、将さん河童が現れて、
「おらたちが、向こう岸の産婆さんの所まで連れていくから安心しな」 と、嫁さんを背中に乗せ、水かさが増して流れの早い川を渡り始めた。 河童の親子は何度も何度も流されかかったが、とうとう向こう岸までたどりついて嫁さんを陸に渡した。そして、親子の河童も岸に上がろうとしたが、どうしたことか、足元の岩に、つるりんとすべって、まっさかさまにひっくりかえると、荒れ狂う水の中に落ちてしまった。
その後、嫁さんは無事に男の子を産んだが、親子の河童はそれからはいつになっても姿を見せなかった。
村の衆は今までの事は河童の親子の恩返しに違いないと言いあったそうな。

いすみ市教育委員会発行「いすみの民話」より

この項、「」HPより)

この先に上記の「六所神社」があります。


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