
描かれている「さくらや」(櫻屋)が現在の「田中家」付近とのこと。




田中家のはじまりは、浮世絵の中から

海の眺めを楽しむため、台町の坂道沿いにはたくさんの腰掛け茶屋が並んでいました。その様子は、広重による「東海道五十三次」の神奈川・台之景にも描かれています。その絵をじっくり眺めますと、坂の上から三軒目に「さくらや」という看板の文字が読めます。これが、現在の田中家の前身です。
幕末の頃、文久三年(1863年)に、田中家の初代がそのさくらやを買い取り、「田中家」がスタートしました。その少し前、安政六年(1859年)に横浜開港が決まり、各国の領事館がつぎつぎとこの近辺に置かれました。また、多くの外国人が商館を構えるなど、横浜はこのあたりを中心に国際都市として発展していきます。

長い時間の中をくぐりぬけてきた一軒
初代の晝間弥平衛から現在の五代目女将平塚あけみまで、約150年。関東大震災、横浜大空襲など、たいへんなこともくぐりぬけてきましたが、この間、様々なお客様にごひいきいただき、現在まで続けることができました。かつて神奈川宿に1300軒あった料亭で、田中家ただ一軒が現存しております。
著名な方もたくさんおいでいただいています。米国総領事ハリス、伊藤博文、西郷隆盛、高杉晋作などが倒幕の計画を練った場所でもあります。夏目漱石の書など、多くの記念の品々が田中家でごらんいただけます。
龍馬の妻おりょう

幕末の偉人、坂本龍馬の妻おりょうは、龍馬亡きあと、ここで住み込みの仲居として勤めてくれていました。月琴を奏で、外国語も堪能で、物怖じしないまっすぐな性格が、ことに外国のお客様に評判だったといいます。
横須賀に嫁いでいき、田中家をやめたあとも、ひいき客からいつまでも話題に上ったということです。
龍馬からおりょうにあてた恋文が、今も田中家に残っております。



(以上、「田中家」HPより)


しばらく行くと、大きな料亭が道の左側にあります。「田中家」のような古いお店ではないが、落ち着いた門構えのお店。

たどり行くほどに金川(神奈川)の台に来る。爰(ここ)は片側に茶店をならべ、いづれも座敷二階造り、欄干つきの廊下、桟(かけはし)などわたして、浪うちぎはの景色いたつてよし。 十返舎一九「東海道中膝栗毛」より
古、台地の下には海(袖ケ浦)が広がり、上り坂の街道筋に沿って茶店が並んでいた。現在、風情のある大きな料亭は、「田中家」と「滝川」くらいか。











その上、東西にほぼ直線の道が「東海道」。鉄道に架かる橋が「青木橋」。