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Channel: おやじのつぶやき
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足尾銅山跡を訪ねて。その8。高原木。「足尾砂防堰堤(砂防ダム)」。「銅(あかがね)橋」。「渡良瀬川源流の碑」。足尾銅山労働組合・足尾銅山閉山50年。直利音頭。(関東ローカル私鉄の旅。番外編。)

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高山社宅が並ぶ高原木。

川向こうの台地が「高原木」というところで、その昔天正18年(1590)に小田原の武士、斎藤大和守・山城守の兄弟が浪人となり、やがて足尾に来て足尾郷14ヶ村を支配し、後に弟の山城守がこの高原木に住んで仁田元・松木・久蔵・赤倉を治めてから開かれたといわれている。慶長15年(1610)に足尾に銅山が発見されてから、各所で採鉱が行われるようになり、宝永2年(1705)に幕末の大思想家、佐藤信淵の祖父信景(農政学者)が仁田元で錫山を発見し、その後錫山を銀山にしようと仁田元・高原木の招きで、日光に来ていた信淵の父信季(農政学者)は信淵を伴って天明4年(1784)来山したが、信季の客死に遇い実現できなかった。明治になり足尾銅山再開発とともに廃石堆積場になり現在の台地が築かれ、同40年(1907)ごろ銅山社宅が建ち賑わったが、昭和21年(1946)から徐々に撤収され2~3年後に無人となった。

足尾砂防堰堤(砂防ダム)。

        

               対岸には「銅(あかがね)親水公園」。

足尾砂防堰堤(ダム)

足尾銅山付近の山地は、銅山の煙害などによりはげ山と化した山容は荒廃の極まりになりました。この岩肌の露出した山腹から崩れ落ちる砂礫は谷を埋め、洪水のたびに下流に押し流されていきました。この被害を防止するため、足尾ダムは、昭和 2年(1927)蒲孚技師が検討した渡良瀬川全川の砂防計画の中で計画されましたが、具体化には至りませんでした。
 昭和22年(1947) 9月のカスリーン台風、昭和23年(1948) 9月のアイオン台風による連年の災害発生によって、ダム建設の必要性が再認識され、足尾山地で最も荒廃の著しい渡良瀬川上流の渡良瀬川(旧名松木川)・仁田元川・久蔵川の3川合流点の喉元にあたる地点に計画されました。


 工事は昭和25年度(1950)から昭和52年度(1977)まで3次に分けて実施しました。その計画貯砂量500万㎥はわが国第二の大規模なもので、下流河道へ流出する土砂量を調節軽減する効果の大きさはいうまでもなく、ダム上流域の渓岸斜面の崩落防止、ひいては山腹植生の回復を促進するなどの総合的な役割を果たしています。
 現在、ダムサイトには緑とうるおいを取り戻そうと、植林活動や、治山治水が学習できる銅(あかかね)親水公園が整備されています。

よみがえれ、鉱毒で荒れ果てた足尾の緑

                             眼下に「足尾ダム」。

 市民ボランティアグループ「足尾に緑を育てる会」は、足尾銅山の鉱毒による煙害で、“はげ山”になってしまった足尾の山に緑を戻す活動を繰り広げています。
 同会の植樹活動は、平成8年(1996)から毎年行なわれており、今年(平成13年)で6回目になります。
 写真は、大畑沢「緑の砂防ゾーン」で、足尾ダムを眼下に緑を取り戻そうと、荒廃した山肌に苗木を植える参加者達。
    「渡良瀬河ノ水源ヲ清ムル」
(農漁民と共に闘った田中正造の明治天皇への直訴状より)

(この項、「」HPより)

着実に緑の木々が生長しています。

「銅(あかがね)橋」。

                

「足尾砂防ダム」。

              ニホンカモシカの壁画。

        「足尾の治山・治水事業」解説板。

「渡良瀬川源流の碑」。

眼前の河原。

                 増水時には水没してしまう。

          

                上流に架かる橋は、工業用水を送る「仁田元沢水管橋」。

ここから上は、関係者以外進入禁止。

下流方向を望む。

ここから来た道を戻ります。

          

                        中央に大煙突。

水管橋。周囲には、かつてよりも緑が多くなっています。

    

足尾の山々を振り返る。

掲示板。

「この付近でクマが出没しています。早朝や夕方は活発に行動しますので、特に注意してください。日光市」。

ここのバス停から乗車します。

          赤尾~間藤駅~東武日光駅

「足尾銅山労働組合」事務所。

足尾銅山閉山50年、元労働者が記録映画鑑賞 中野渉2023年4月28日 10時45分《朝日新聞デジタル》HPより。    栃木県立美術館宇都宮市)で3月まで開かれていた、小山市出身で足尾鉱毒事件について表現することをライフワークとした版画家・小口一郎(1914~79)の作品展。会場では、銅山と労働者をテーマにした記録映画「盤圧に耐えて」の上映会があり、90代の元銅山労働者3人が往時を振り返りながら、鑑賞していた。

 小口は鉱毒事件を題材とした版画集「野に叫ぶ人々」「鉱毒に追われて」「盤圧に耐えて」の3部作を手掛け、企画展では全160点が展示された。

 「盤圧に耐えて」(76年)は、日本の労働運動の先駆けとなった銅山労働者の闘いをテーマにした80点。過酷な労働実態や労働運動、閉山に至るまでの盛衰の歴史と人々の暮らしが描かれている。映画はこの作品を元に、ナレーションを加えて構成している。

 会場には、元銅山労働者で不当解雇の撤回闘争に携わった斉藤惇さん(94)、上岡健司さん(90)、赤塚俊一さん(90)の日光市足尾地区在住の3人の姿があった。

 66年、労働者25人は、銅山を経営する古河鉱業(現・古河機械金属)側から指名解雇を通告された。大半が労働組合の中堅幹部。勧告は組合活動を理由としたもので、全員が解雇を拒否した。7人が不当解雇だとして裁判闘争をし、70年に宇都宮地裁で勝利判決を得た。

 裁判は東京高裁で続いたが、古河は銅山を73年2月28日に閉山、高裁の職権で和解をあっせんし、幕を閉じた。7人は結局、職場復帰することはなかった。

 斉藤さんも上岡さんも、解雇を命じられて鉱山に入れなくなった後、町議に転じた。

 斉藤さんは「映画では労働者が酷使されていた状況がよく分かる。私たちは意思統一をして闘い、労働者の権利を守ることができた」と振り返った。上岡さんは、版画を制作した小口さんについて「何回も家に来て話を聞いてくれた」と話した。

 足尾は最盛期の1916(大正5)年には県内で宇都宮市に次ぐ人口3万8千人以上を誇ったが、現在は1500人程度にまで減っている。(中野渉

足尾銅山盆踊り 直利音頭 発祥の広場

この広場で、大正13年(1924)赤倉町務会が「八木節」を始めたことがきっかけであろうか。時に足尾銅山労働大争議(大正8・10年)で荒れた後でもあり、文化・スポーツの振興に気運が高まる中、本山坑勤務の畑中清(舟石出身)・堺正高(フランキー堺の父)等が、銅山に相応しい盆踊り唄を作ろうと、同年から毎年歌詞を募集し当選歌を社内報で発表した。お囃子、振付けも創作され、昭和2年(1927)頃に「直利音頭」に変えて踊るようになり、足尾の盆踊りとして定着し全山で盛大に行われた。しかし、この広場での盆踊りは平成8年(1996)を最後に思い出を残して幕を閉じた。

※直利(なおり):銅鉱を多量に含んだ良質の鉱脈。

♪ハア―花の渡良瀬(アーヨーイヨイと)青葉の小滝 サー月の眺めは チョイトサ備前楯(ハ スッチョイ スッチョイスッチョイナ)

天の岩戸も踊りで開く 銅山(やま)の直利も 踊りゃ出る

山は三角、やぐらは四角 踊れ兄弟 まんまるく

わだしゃ足尾の 坑夫の女房 坑内(しま)を恐がる 子ば産まぬ

銅山の友子の どこ見てほれた 腕と度胸と 直利歌

運と鈍とで 開いた足尾 根で張り切りゃ 大直利

                                           日光市 


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