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Channel: おやじのつぶやき
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高山陣屋。御白洲。阿倍仲麻呂。・・・。(40年ぶりの飛騨高山。その3。)

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「高山陣屋」。

 高山城主金森氏の下屋敷の一つでした。金森氏が上ノ山(山形県)へ移されてからは、徳川幕府の直轄地となり、江戸から代官や郡代がきて、ここに役所をおき飛騨の政治をとりました。
 役所を「高山陣屋」とよび、おふれを出したり年貢の取立てなどをしました。直轄地時代は、明治まで25代177年間続きました。クレ葺屋根の門の扉に残るしみは梅村騒動で農民に殺された門番の血痕といわれています。
玄関を入った正面壁には、郡代の格式を示す(青海波)模様があります。内部には、御役所、御用場、大広間、役宅、吟味所、白州などのほか裏手には、高山城三の丸から移した御蔵(米藏)8戸前(藏は戸前とかぞえる)も昔のまま残されています。かつて年貢米を保管した藏で天領時代の歴史を物語る資料が展示されています。大原騒動で打ち首となった本郷村(現在高山市上宝町)の農民善九郎が妻に送った遺言状の文面には胸をうたれます。
 明治に入ってからは、県庁、郡役所、支庁、県事務所など代々、地方の役所として使われてきました。郡代役所の建物が残っているのは全国でも高山だけです。(以上、高山市観光課HPより)
掲示板「史跡 高山陣屋跡」。
正面入り口。ボランティアの方々が清掃や案内など行っているようです。さすが幕府直轄地。葵のご紋です。
広い敷地内に表屋敷、米蔵などの建物があります。左の建物が吟味所・御白洲。この内部に興味深い展示。手前が井戸。
梅の古木。
刑事事件の取り調べを行ったところ。拷問用の重たい「抱石」や鋭い三角の「責石」など展示されています。窓からの日差しが明るい分、かつて行われていただろう検分・取り調べの凄さが・・・。珍しいものを見学。英語の説明版もあり。
「仮牢屋跡」もともとは「薪炭小屋」天保年間に「仮牢屋」留置場として使用された。その奥が「御白洲」。幕府の直轄地が故の犯罪者への厳しい取り調べも。騒動の首謀者として(東京の)新島に送られた人も。その記録が「蔵」の掲示室にありました。ここで新島が登場するとは意外でした。
御役所、御用場の濡れ縁。建物の中は、下足を脱ぎ、見学します。けっこうぐるぐる見て回る。広大な敷地に用途別の建物・部屋の数々。
複雑な配置になっています。
庭。
土間。
明かり窓。
嵐山の間(郡代が生活した場所)の床の間の掛け軸。中国に渡った阿倍仲麻呂が帰国途中に難破して亡くなったと伝えられた時に李白が作った追悼の七言絶句「哭晁卿衡」が懸けられていました。

「日本晁卿辞帝都」
日本の晁卿(ちょうけい)帝都を辞し=日本の晁衡卿は帝都(長安)を辞去し

「征帆一片遶蓬壷」
征帆一片(せいはんいっぺん)蓬壷(ほうこ)を遶(めぐ)る=帆を張った舟は蓬莱山をめぐって行った。

「明月不帰沈碧海」
明月は帰らず碧海(へきかい)に沈み=明月のような君は青い海に沈んで帰らず

「白雲愁色満蒼梧」
白雲愁色蒼梧(そうご)に満つ=白雲がうかび、愁いが蒼梧に満ちている

※「晁卿」=阿部仲麻呂。「蓬壷」=蓬萊山。蓬莱は、古代中国で東の海上にある仙人が住むといわれていた仙境の一つ。「蒼梧」=諸説あるが、晁衡の乗った難破船がたどり着いたのが現在のベトナムであることから、前漢から唐時代に置かれた交趾郡にある蒼梧県(ベトナム北部紅河中下流域地域、中華人民共和国広西チワン族自治区梧州市)を指すと考えられている。

そこで、「阿倍仲麻呂」について。

 文武天皇2年(698年)、阿倍船守の長男として大和国に生まれ若くして学才を謳われた。霊亀3年・養老元年(717年)、第9次遣唐使に同行して唐の都・長安に留学します。同期の留学生には吉備真備や玄?がいました。
 唐の難関だった官吏登用試験「科挙」に合格し、唐の玄宗に仕えることになります。仲麻呂は唐の朝廷で主に文学畑の役職を務めたことから李白・王維ら多くの唐の詩人と親交がありました。
 天平勝宝4年(752年)衛尉少卿に昇進。この年、第12次遣唐使一行が来唐。すでに在唐35年を経過していた仲麻呂は、翌年秘書監・衛尉卿を授けられた上で帰国することになります。この時、王維は「秘書晁監(「秘書監の晁衡」の意)の日本国へ還るを送る」という別離の詩を詠んでいます。
 しかし、仲麻呂の乗船した船は暴風雨に遭って南方へ流されてしまいます。このとき、李白は彼が遭難死したという誤報を伝え聞き、上記の「哭晁卿衡」を詠んで仲麻呂を悼みました。
 実際には仲麻呂は死んでおらず、船は漂流して安南の驩州(現・ベトナム中部ヴィン)に漂着。結局、仲麻呂一行は天平勝宝7年(755年)には長安に帰着しました。この年、「安禄山の乱」が起こったことから、身を案じた日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来するものの、唐朝は行路が危険である事を理由に帰国を認めませんでした。
 仲麻呂は帰国を断念し、唐で再び官吏の途に就き、天平宝字4年(760年)には鎮南都護・安南節度使として再びベトナムに赴き総督を務めました。天平宝字5年(761年)から神護景雲元年(767年)まで6年間、ハノイの安南都護府に在任し、天平神護2年(766年)安南節度使を授けられました。結局、日本への帰国は叶えられることなく、宝亀元年(770年)1月に73歳の生涯を閉じました。数奇な人生を送った人物の一人。

 阿倍仲麻呂の歌として有名なのは『小倉百人一首』にも採られた「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」これも、望郷の歌。

大広間。奥の掛け軸は「忠」「孝」。

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