12月25日(日)快晴。風もあまりなく、穏やかなお天気。日本海側、北日本の人たちには申し訳ないほど。
秋津駅に10時頃到着。最近は、最寄りの交通機関の関係(特に鉄道)で距離を伸ばせません。ますます軟弱に。
所沢の観光案内板。
歩く道は、図の下の方、所沢市と東京都東村山市と境。都内は、真っ白になっています。
左は東村山市、右が所沢市。
東村山市のマンホール。
図柄は村山貯水池の取水塔。村山貯水池(多摩湖)の所在地は東大和市。それが、東村山市のマンホール蓋に描かれているのか? ここで取水した水が東村山市にある「村山浄水場」に送水されるということから。中央下に「ヒ」と「ム」をハトの形に図案化した市章がある。
所沢市のマンホール。
中央に、ヤマノイモ科の多年生つる草の「野老(ところ)」の葉を図案化し、周りをカタカナの「ワ」3つで囲んだ市章。
武蔵野線のガードをくぐります。
柳瀬川。
話題が豊富な掲示板。
松戸橋
■古来より栄えた「安松郷=安松」の江戸への入り口(戸)ということで「松戸」の名が付いた。■『新編武蔵風土記稿』(1820)には、「所沢村ハ川越城ヨリ南の方四里ヲ隔ツ、安松郷吾妻庄ニ属ス」と記され、安松は歴史のある地域です。■1957年頃の松戸橋は、木製の橋で穴も空いており、桁下でザリガニ釣りをやりました。
柳瀬川
■狭山湖(勝楽寺村)が水源地で、柳瀬地区で「東川」と合流、舟運で栄えた志木市で「新河岸川」に合流し東京湾へ流れる一級河川。■江戸時代前は「大石氏」という豪族の所領だったが、八王子城の北条氏照に代わり、山口城や滝の城作り始めたが、秀吉に滅ぼされる。
安松郷の歴史
■天正19年(1591)徳川家康が当地の長源寺に北条氏照を祀るよう10石を贈り、隠居寺「氏照院」が明治時代に「安松学校」となり、「松井小」へと続く。
「安松学校」
・・・安松地区は、西は柳瀬川上流の久米を通る鎌倉道やその先の山口城や八王子方面、東へ下れば柳瀬の「滝の城」や舟運で栄えた志木叉へと続き、南へは江戸道がある重要な場所であり、古くから栄えました。・・・安松町内会には「本宿」「下宿」などの班名が残されており、「松戸橋」とは安松郷に入る「戸」という意味で、子育て地蔵尊前に出来た「交流館」前には「大門」があったというほどです。さらに、北の牛沼に行く古道傍らには4500年前の縄文遺跡も発掘され多くの土器が出土し、話題を呼んでいます。・・・
松戸橋公園。
安松橋。
柳瀬川。淵の森緑地。
川の中に人が。清掃をしているのでしょうか、丹念に歩いている様子です。
「淵の森緑地」は、宮崎監督が自ら代表を務めている「淵の森の会」というボランティア団体のみなさんの活動によって整備されています。1996年に開発計画の話がありましたが、宮崎監督らの寄付によって公有地となり、自然が守られたそうです。
東村山市と埼玉県所沢市にまたがって、市街地に残る約4600平方メートルの緑地。 アニメ映画の宮崎駿(はやお)監督が散策に訪れ、「となりのトトロ」のアイデアを考えたとされる。 宮崎監督が「淵の森保全連絡協議会」の会長となる。 開発計画から守ろうと1996年(平成8)に会長たちの寄付によって公有地になった。 淵の森対岸の緑地の宅地化騒動 2007年(平成19)、淵の森の柳瀬川(やなせがわ)をはさんだ対岸に残された緑地に宅地計画が持ち上がったため、公有地化の運動が起こる。 宅地化の話が持ち上がったのは、地権者に「木が邪魔」という住民からの苦情が持ち込まれたことが発端だという。 運動により、東村山市により公有地化されることが決定され、対岸の緑地に「八郎山」の名が付けられた。 地元でこのあたりが「八郎」と呼ばれていたことから。 2008年3月、新地権者である不動産業者との間で、価格面で折り合いがついていないことが表面化した。 同月末、土地の所有権が地権者から不動産業者に移り、東村山市との取得契約が締結された。
(この項、写真も含め、「」HPより)
この向こうが都県境。
川面までは深く、しっかりした護岸になっていて、遊歩道はありません。
向こう岸に渡りたいのですが、
結局、東村山市のまちなかを歩くことになります。
秋水園ふれあいセンター。