続いては、JR神田駅の西。休日のため、サラリーマンの姿もなく閑散とした通りを抜けたところにある。
「神田青果市場発祥の地」碑。
このあたり一帯は江戸・明治・大正時代を通して巨大な青果市場がありました。はじめは青物市が江戸中に分散していたのが、明暦の大火(1657)以降徐々にここに集まってきたといわれています。
徳川幕府の御用市場として 駒込, 千住と並び 江戸三大市場の随一だったといわれています。水運を利用して神田川沿いの河岸や鎌倉河岸から他市場で見られない優秀な青物が荷揚げされ、約1万5千坪(約4万9500?)におよぶ広大な青物市場で商われていました。
当時の市場では、店が店員の住まいを兼ねていました。現在の市場のイメージと異なり、当時は市場の中に町があったのです。周辺の表通りには野菜や果物を商う八百屋が軒を連ね、威勢のいい商いが行われていました。青果市場の別名である「やっちゃ場」はそんな威勢のいい競りのときのかけ声から生まれた言葉だといわれています。
大正12年(1923)月関東大震災にあって 市場は全滅しましたが、 直ちに復興し 東洋一の大市場とうたわれました。その後、 昭和3年(1928)には秋葉原西北に、平成2年(1990)には大田区へと移転しました。
(以上、「千代田区観光協会」HPより)
この付近にも、ビルの間に昔ながらの家屋が残っている。
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?神田公園。旧神田小学校(現千代田小学校)
名称は「神田児童公園」に。他の震災復興公園でも改修工事をした後は「○○児童公園」と名付けるケースが多くみられる。
ここの公園も校舎も大幅に改修、新築。震災復興公園・小学校という面影はなくなった。また、学校とも通りを挟んでいるため、関連性がなさそう。
公園の西北側から。
せせらぎ。この時期止めている公園が多いのに、ここは流れている。
一番古めかしいコンクリート製の揚水設備?
学校側の通りから。
平日はサラリーマン達の憩いのスペースに。
千代田小学校。立派な建物。千代田区立はどこも豪華。
時計塔がシンボル。中央区内の震災復興校舎は新築してもかつての建物の特色を生かす工夫があるが、千代田区にはそういうことは感じられない。また、かつての歴史を知るようなモニュメント・記念碑などもない。
「祝開校開園20周年」。
・区立神竜小学校(1966年神田小へ統合)
・区立神田小学校(1993年千桜小と統合し千代田区立千代田小学校へ)
・区立千桜小学校(1993年神田小と統合し千代田小へ)
平成 5 4 学校設置条例の改正に伴い、千代田区立千桜小学校と千代田区立神田小学校、千代田区立永田町小学校(一部)が合併し、千代田区立千代田小学校となる。
平成 7 12 旧神田小跡に新校舎着工。
平成10 2 旧校舎とのお別れ
3 新校舎の落成を祝う会。
4 新校舎出発の会を開催。校舎移転・・・(「千代宇田小」HPより)
屋上が校庭。
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1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。赤丸に「神田小学校」とある。現在のJR線路は地図上で右端から少し斜めに敷かれている。
千代田区立の小中学校も統廃合が多く行われています。地域の児童数の減少などからある意味仕方がないことです(かつては他区、時には都外からの越境入学児童・生徒で成り立っていた学校も多くあった)。が、統廃合の際の校舎の豪華な新築はさすがお金持ちの区ですが、校名の決定で、旧来の地域名、創立時のいわれなどを勘案せず、統合する学校間の妥協的なネーミングが気になります。
そういう意味で、この「千代田小」というネーミングは、位置的にも歴史的にもおかしい感じがします。
もちろん、このことは千代田区に限ったことではなく、中央区(合同のため、二つあわせてやたら長い名前になったり)や北区(とってつけたような校名になったり)などでも目にします。
もともとあった場所故の校名が、他へ移ってもそのままの学校などは、都立高校にあります(江戸川区や墨田区に移っても「紅葉川」、「日本橋」、・・・)ので、とやかく言う筋合いのものでもないですが・・・。
各校の沿革史も統合後のものが掲載されるケースが多くあって、かつての学校の歴史、校舎、伝統などを調べようにも限界があるのが残念です(特に、震災復興校舎当時の写真が各校のHPには掲載されていない)。
また、歴史をつなぐモニュメントがないのも気になりました(探し方が悪いのかもしれませんが)。中央区はその継承・記念をしっかり行っているようでした(同窓会・卒業生などによって)。
児童数は、千代田小243名(1〜4年1学級、5,6年2学級)、昌平小253名(3年のみ1学級、残りの学年は2学級)とどちらもけっして大きくはない。豪華な校舎・設備。宝の持ち腐れにならぬよう、祈ります。
それとも、現在、幼稚園(保育園)を併設する(している)だけでなく、後には「老人ホーム」併設・転用を想定している? (神奈川県の公立高校は、そういう将来展望で建てたところもあるそうです)あるいは、地域センター的なものにも活用する計画?

このあたり一帯は江戸・明治・大正時代を通して巨大な青果市場がありました。はじめは青物市が江戸中に分散していたのが、明暦の大火(1657)以降徐々にここに集まってきたといわれています。
徳川幕府の御用市場として 駒込, 千住と並び 江戸三大市場の随一だったといわれています。水運を利用して神田川沿いの河岸や鎌倉河岸から他市場で見られない優秀な青物が荷揚げされ、約1万5千坪(約4万9500?)におよぶ広大な青物市場で商われていました。
当時の市場では、店が店員の住まいを兼ねていました。現在の市場のイメージと異なり、当時は市場の中に町があったのです。周辺の表通りには野菜や果物を商う八百屋が軒を連ね、威勢のいい商いが行われていました。青果市場の別名である「やっちゃ場」はそんな威勢のいい競りのときのかけ声から生まれた言葉だといわれています。
大正12年(1923)月関東大震災にあって 市場は全滅しましたが、 直ちに復興し 東洋一の大市場とうたわれました。その後、 昭和3年(1928)には秋葉原西北に、平成2年(1990)には大田区へと移転しました。
(以上、「千代田区観光協会」HPより)


?神田公園。旧神田小学校(現千代田小学校)

ここの公園も校舎も大幅に改修、新築。震災復興公園・小学校という面影はなくなった。また、学校とも通りを挟んでいるため、関連性がなさそう。








・区立神竜小学校(1966年神田小へ統合)
・区立神田小学校(1993年千桜小と統合し千代田区立千代田小学校へ)
・区立千桜小学校(1993年神田小と統合し千代田小へ)
平成 5 4 学校設置条例の改正に伴い、千代田区立千桜小学校と千代田区立神田小学校、千代田区立永田町小学校(一部)が合併し、千代田区立千代田小学校となる。
平成 7 12 旧神田小跡に新校舎着工。
平成10 2 旧校舎とのお別れ
3 新校舎の落成を祝う会。
4 新校舎出発の会を開催。校舎移転・・・(「千代宇田小」HPより)





千代田区立の小中学校も統廃合が多く行われています。地域の児童数の減少などからある意味仕方がないことです(かつては他区、時には都外からの越境入学児童・生徒で成り立っていた学校も多くあった)。が、統廃合の際の校舎の豪華な新築はさすがお金持ちの区ですが、校名の決定で、旧来の地域名、創立時のいわれなどを勘案せず、統合する学校間の妥協的なネーミングが気になります。
そういう意味で、この「千代田小」というネーミングは、位置的にも歴史的にもおかしい感じがします。
もちろん、このことは千代田区に限ったことではなく、中央区(合同のため、二つあわせてやたら長い名前になったり)や北区(とってつけたような校名になったり)などでも目にします。
もともとあった場所故の校名が、他へ移ってもそのままの学校などは、都立高校にあります(江戸川区や墨田区に移っても「紅葉川」、「日本橋」、・・・)ので、とやかく言う筋合いのものでもないですが・・・。
各校の沿革史も統合後のものが掲載されるケースが多くあって、かつての学校の歴史、校舎、伝統などを調べようにも限界があるのが残念です(特に、震災復興校舎当時の写真が各校のHPには掲載されていない)。
また、歴史をつなぐモニュメントがないのも気になりました(探し方が悪いのかもしれませんが)。中央区はその継承・記念をしっかり行っているようでした(同窓会・卒業生などによって)。
児童数は、千代田小243名(1〜4年1学級、5,6年2学級)、昌平小253名(3年のみ1学級、残りの学年は2学級)とどちらもけっして大きくはない。豪華な校舎・設備。宝の持ち腐れにならぬよう、祈ります。
それとも、現在、幼稚園(保育園)を併設する(している)だけでなく、後には「老人ホーム」併設・転用を想定している? (神奈川県の公立高校は、そういう将来展望で建てたところもあるそうです)あるいは、地域センター的なものにも活用する計画?