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Channel: おやじのつぶやき
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東武伊勢崎線「一ノ割駅」~「久喜駅」。その3。見世蔵・土蔵。新町橋。上喜蔵河岸。粕壁宿。古隅田川。(「中川」を遡る。第4回目。)

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                   蔵造りの家並み。一本、春日部駅寄りの道が「旧日光道中(街道)」

公衆トイレの壁面。

       前回紹介した「碇山のイヌグス」にちなみ、河岸のようすが描かれています。

その先には「新町橋」。

              「中川合流点から15㎞」。

「日光道中 粕壁宿 新町橋上喜蔵河岸跡」碑。

新町橋は、江戸時代には大橋と呼ばれ、古利根川に架かる唯一の橋であった。長さ16間(約29㍍)、横幅3間(約5㍍)の板橋で、高覧が付いていた。架け替えにあたっては、幕府が費用を負担し、往来を妨げないように仮橋が架けられた。新町橋の上流には、上喜蔵河岸と呼ばれる船着き場があり、石垣の一部が現存している。江戸時代、粕壁宿では共同で河岸を利用し、古利根川の水量が多い6月中旬~8月中旬(旧暦)には、小型の高瀬船などで米や生活物資を運搬した。

日光道中粕壁宿
 日光道中は、東海道・中山道・甲州街道・奥州街道を合わせた、「五街道」と呼ばれる街道のひとつで、江戸時代初期には、日光街道あるいは日光海道と記されていました。しかし正徳6年(1716)に五街道に名称についての御触れが出され、日光街道は海のない国を通るため、日光道中と改められました。
 粕壁宿は、江戸時代元和2年(1616年)に日光道中千住宿から数えて第4の宿場に定められたとされています。寛永13年(1636)に日光東照宮が完成し、将軍や諸大名の参詣で日光道中の各宿場はにぎわい一段と発展しました。江戸時代の終わりの頃の記録によると、宿場は「名主3軒」「本陣1軒」「脇本陣1軒」「問屋場1軒」「寺院8軒」「旅籠45軒」をはじめ、米穀商・質屋・薬屋などの商店や農家の家並みで159軒を配し、新町橋より横町・寺町・上宿・中宿・新宿・三枚橋・新々田・下宿の8つの字に分かれていました。

江戸・日本橋から一日歩き通すと、ちょうど1泊目となる宿場町がこの粕壁であったことから、旅人の多くはここで宿を取りました。 また、岩槻宿と関宿を結ぶ道が通ることからも商業・交通の要地として商人や旅人でにぎわいました。

※『日光道中宿村大概帳』によると本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒、問屋場1ヶ所、家773軒があり、日光街道23宿のうちの6番目の規模であった。

「粕壁宿」は日光道中歩きの時に通過。2016年5月、6年前でした。建物を中心に再掲。

・・・


    
 「永嶋庄兵衛商店」。創業は「慶長年間」とか。「慶長」は、天下分け目の関ヶ原の合戦、豊臣の滅亡、徳川幕府の成立など日本史の上では激動の時代。

    
 大きな「道標」には、「西南い八つき」「北日光」「東江戸 右乃方陸羽みち」と刻まれています。

 どっしりとした格調高い白壁のおうち。
    

    

    

蔵造りの建物。裏手に長く家屋が続きます。

中央奥に「最勝院」。

交差点のところに黒光りした蔵造りのおうち。 
高札場跡 浜島家住宅土蔵
 この十字路は、明治22年(1889)の岩槻新道が開通してからのもので、それ以前は日光道中と寺町通が分岐する三叉路だった。多くの人びとが集まる場所であることから、幕府からの触書(法令等)を掲示する高札場(高さ3.1m、幅4.6m、奥行1m)が設置された。通りの向かいにある黒壁の土蔵は、戦前まで佐渡屋の屋号で米穀商を営んでいた、浜島家の土蔵(国登録有形文化財)である。明治時代前期には建てられていたと推定され、1階は座敷、2階は使用人の部屋兼倉庫として利用された。 
 交差点を右に折れ、「新町橋」を渡ります。

    
          「新町橋」と「大落古利根川」の流れ。

・・・

「日光道中」は新町橋を渡り、その先を左折し、北に向かいます。

今回は、「大落古利根川」歩きです。新町橋を渡り、左岸に移ります。

左手から「古隅田川」が合流します(橋の上から上流を望む)。

かつて、隅田川利根川の下流に位置しており、武蔵国下総国の境界線となっていたと考えられている。埼玉県東京都にある2つの古隅田川はかつては利根川-隅田川の一部であり、現在の河川に則すれば、古利根川から古隅田川(埼玉側)、元荒川中川、古隅田川(東京側)、隅田川という流れが利根川及び荒川の本流であったと考えられている。

なお、現在の埼玉県の古隅田川は元荒川の近く(さいたま市岩槻区南平野付近)を源として古利根川に向かって注いでいるが、中世以前は反対に古利根川から元荒川に向かって大河川が流れていた。

これは現在も一部に残る自然堤防跡や古文書において現在の古隅田川流域の東側地域(春日部市の旧北葛飾郡庄和町など)が「下総国」下河辺荘に属していることからも分かる。

その後、関東造盆地運動の影響により古隅田川一帯が隆起して、利根川の本流が現在の古利根川からそのまま中川に向かう経路を取る様になり、更に江戸時代利根川東遷事業やそれに付随した入間川の荒川・隅田川への付け替え工事によって利根川・中川・荒川(隅田川)が切り離され水位が低下、埼玉の古隅田川の流れも逆方向に向かうようになったと考えられている。

(この項、「Wikipedia」より)

※亀有駅付近では、葛飾区と足立区の区界となっている「古隅田川」が存在している(ほぼ暗渠で、一部「東京拘置所」北側に流れが見られる―探索済―)。

                 この付近の今昔。

                     1880年代のようす。

日光道中沿いの粕壁宿のようす。橋は、「新町橋」のみ。

                     2010年代のようす。

中央に東武線「春日部駅」。古隅田川の流れは変わっていない。

左岸から新町橋を振り返る。

※粕壁宿(春日部)内から遠ざかるので、春日部に縁ある二人の俳句を。

川縁の案内板を見逃したので。※案内板に掲載された句ではありません(たぶん)。

葛飾や桃の籬も水田べり(水原秋桜子)

鰯雲人に告ぐべきことならず(加藤楸邨)

春日部は「クレヨンしんちゃん」が特に有名ですが、それだけではないのです。そうそう「匠大塚」本店もあります。


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