先に進みます。大きなお屋敷が目立つ。
堂々たる長屋門。
「五三の桐」の紋が。
広い敷地のおうち。
「作ノ谷」交差点。
ここにも大きな釜。
交差点先の右手に武者窓付きの大きな長屋門。
畑の向こうに筑波山。
遠く左には上州の山々。
結城の市街地に近づきます。
「吉田用水」が右手から近づいてきます。
吉田用水
享保元年(1716 年)徳川吉宗が将軍となり、政治立て直しのための改革が開始され享保 7 年には改革が本格化した。こうしたなかで、新田開発の奨励策と治水が打ち出され、3 千町歩に及ぶ飯沼新田(現茨城県坂東市)が開発された。その新田のために新たな用水を開削することになったのが、吉田用水である。
しかし、用水の取水口にあたる農村(絹板村、花田村、延島村、延島新田村)に大きな負担を残した。用水を維持管理するよう幕府から命ぜられ、増水のたびに堰が壊れるなど4ケ村の財政を圧迫したからだ。また、日光街道の助郷役は免除されるなど、重要な役を担っていた。
吉田用水は、全長 56kmに及び、流域の村々へ恵をもたらした。取水口付近の農村の払った犠牲は少なくなかったが、それでも、大きな事故や紛争もなく用水が維持されたのは幕府の統制もさることながら周辺 88 ケ村と地元の村々が協力し
てことにあたったことからだろう。なお、現在は、真岡市堀込地内の用水路に堰を設けそこから取水しており、鬼怒川の地下を経て吉田用水に取り入れている。
※林氏の説明資料から抜粋して掲載しています。(「下野市」HPより)
※現在の下野市付近で取水し、結城市内を通り、下流は坂東市に至る全長約60㎞。受益地:茨城県結城市、八千代町、古河市、下妻市、常総市、坂東市
城南小北交差点で国道50号線を横切り、吉田用水沿いに進んだあと、結城駅に向かいます。
来た道を振り返る。
吉田用水。
歩道橋から来た道を振り返る。
結城宿方向。
宿内は次回にし、ここから駅に向かいます。
水戸線の踏切が前方に。
結城駅南口。
次回からは鉄道を利用することで済みそうです。
そして、今日5月15日は、沖縄本土復帰50周年。
勤め始めた頃の出来事。沖縄出身の同僚に、皆で、よかった! よかったなあ! と話したとき、一瞬、苦々しい表情になったことを覚えています。手放しで喜ぶことではない、と。
その後の経過はどうだったでしょうか? 復帰以後、今も国土の0.6%に過ぎない沖縄に、米軍関係施設が70%も集中している現実。そこから生じるさまざまな矛盾・問題。
本土にいる我々は、沖縄が今も置かれて厳しい現実にどれほど関心があるでしょうか?
むしろ、ロシアのウクライナ侵攻を契機に、ますます防衛力増強、敵基地先制攻撃(うまく言い逃れていますが)・・・
米軍と一体となっての防衛体制強化の動きに、沖縄の未来はどうなっていくのか、いよいよ真剣に考えなければいけない、と。
来月中旬、かつての同僚たちが辺野古座り込み支援に行きます。せめて支援カンパだけでも、と。