カーブ(曲尺手跡)がかつての「武井宿」への入口?
この付近の今昔。
1880年代のようす。道筋は変わらない。 2010年代のようす。今も昔も畑作地帯が広がる。
遠くに筑波山。
戊辰戦争での官軍戦死者のお墓。
1868年(明治元年)4月16日、江川地内で新政府軍(結城藩・館林・須坂隊)と旧幕府軍の戦いがあり、戦死した官軍(明治新政府軍・館林藩)兵士の墓。
1年5カ月にわたる内乱、戊辰戦争
慶応4年=明治元(1868)年の干支である「戊辰」に因んで名づけられた一連の戦いは、瓦解した旧江戸幕府(徳川政権)を
依然支持する旧幕府軍と、それを鎮撫する明治新政府軍が激戦を繰り広げた内乱です。
戦争の発端となった鳥羽伏見の戦い、江戸上野寛永寺山内での彰義隊の戦い(上野戦争)、白虎隊の悲劇を生んだ会津藩の戦い(会津戦争)、会津藩救済を目指した奥羽越列藩同盟の戦い、蝦夷地に榎本武揚を中心に共和国を樹立した箱館政府の戦い(箱館戦争)などが有名ですが、戦線が東北・蝦夷地(北海道)へと拡大するなか、古河市域の近郊で両軍の激戦がおこなわれたことは、あまり知られていません。
ここで、以降の戊辰戦争で旧幕府陸軍の中心的役割をはたす人物が登場します。名は歩兵奉行・大鳥圭介。旧幕府陸軍の最高幹部6人の内のひとりで、伝習隊を率いていました。
江戸城の無血開城が行われる慶応4年4月11日の夜明け前、大鳥圭介は伝習隊第一大隊・第二大隊を率いて、江戸を脱走、向島から市川方面へ向かいました。伝習隊とは、幕府が招聘したフランス軍事顧問団の直接指導を受けた旧幕府陸軍の精鋭部隊で、装備も当時最新鋭、号令に一部フランス語が用いられるなど、後発の諸隊のモデル隊でした。雨が降りしきる翌12日、恭順を拒否し、江戸を脱走した諸隊も、続々と下総国府台に集結。その中には、以後、大鳥と行動をともにする新撰組副局長土方歳三の姿もありました。評議の結果、大鳥を総督に選んだ旧幕府軍は、大鳥本隊と土方支隊に分かれて進軍、当面の目標地を日光としました。大鳥本隊は山崎・船形(以上、野田市)・莚打・逆井(以上、坂東市)を経て、15日に諸川町に宿泊。また、同日には、大鳥とは合流せず、別行動中の草風隊・貫義隊・凌霜隊も止宿していた磯部村勝願寺を発ち、仁連町へ行軍、宿泊します。この時の、諸川町の様子を「今八ツ半時頃公辺御人数江戸脱走之方ニ凡六百四五拾人
船形御出立之由追々夜ニ入る迄に着宿方一同御宿ニ相成」と、また、仁連町も「草風隊弐百人、貫義隊弐百人、伝習隊、短撒兵隊共宿付相成候由、右宿割込み不相成内本陣并外宿内者不残割込相成、東禅寺・妙厳寺其外大人数ニ付村役人手廻
兼」と、町役人が自身の日記に記しており、宿場中に溢れる歩兵たちの宿割を巡る混乱ぶりがうかがえます。
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4月16日午前、南下中の(明治新政府軍の)平川支隊は小山宿を過ぎた付近で、結城救援のため急反転したところを、草風隊・貫義隊・凌霜隊に追撃され、平川支隊は敗走(第1次小山の戦い)。同日、昼過ぎ、結城城から南下の祖式支隊(結城・館林・須坂藩兵)は、大鳥本隊の先鋒と、武井宿(結城市武井)・北南茂呂村間の台仙坊(大戦防)付近で遭遇、砲撃・銃撃戦となり、挟撃をねらった祖式支隊は多くの戦死・負傷者を出し敗走(第2次小山の戦い)。
平川支隊敗走の報を受け、香川本隊(岩村田・彦根・足利藩兵)は宇都宮から南下、先に小山宿を抑えることに成功、同17日、午前9時頃、迎撃戦にでますが、侵入する大鳥本隊に散開・包囲され敗走(第3次小山の戦い)。同日の夕方には、結城城より進軍した祖式支隊が、小山宿で休息中の大鳥本隊の隙をついて攻撃しますが、反撃にあい敗走(第4次小山の戦い)。小山の戦いは、いずれも旧幕府軍の快勝に終わり、香川救援隊は事実上潰滅しましたが、以降の戦局は旧幕府軍側に不利な流れとなり、戦場も北へ移っていきます。
結城市武井には、小山の戦いで戦死した新政府軍館林藩兵の墓がひっそりと建っています。
(この項、「古河文化見聞録」HPより)
※「日光東往還」は、野田からお山まで宿場を戦場とした、戊辰戦争の激戦地となっていたわけです。前回、街道筋にあった石碑には、「四月一六日」と記されていますので、この関連がありそうです。
真向かいに本陣を勤めた武井家。
その先、左手に大きな長屋門の屋敷。問屋を勤めた斎藤家といわれる。
他にも立派なおうちが。
※日光東往還を歩いた先達の中にはこの付近から一本西の道・旧鎌倉街道を歩く方もありますが、小生はそのまま県道を進みます。
この路地の突き当たりに「旧鎌倉街道」がある?
スロープに藤棚を設けた工場。
畑の向こうに筑波山。
どういうわけか信号機が。
この先で宿は終わり?
振り返る。明治維新の戦乱に翻弄された宿場でした。