京成本線江戸川鉄橋。
市川橋。
遠くに「スカイツリー」。
4月2日(土)。晴れ。のち薄曇り。
今回は、国府台から「江戸川放水路」の河口まで。※旧江戸川河口は、次回に。
「海から13.5㎞」。
「市川関所跡」。
※ここは、「佐倉街道(成田街道・佐原街道)」歩きで訪れました。
「・・・関所を通り、水戸・佐倉道を往来する人々のために、市川村では2~3艘の船を用意し、川端に番小屋を建て、20人前後の船頭や人夫を雇っていた。・・・明治2年(1869年)に『関所廃止令』が出されて、その使命を終えてもなお、明治38年(1905年)に「江戸川橋」(※「市川橋」の旧名)が架けられるまで、渡船の運行は続けられた。しかし、度重なる江戸川の護岸工事で、関所の建物や渡船場の正確な位置は、今日不明となっている。平成16年7月 市川市」
対岸は、「小岩関所跡」。
小岩市川の渡し跡・小岩市川関所跡
江戸時代の初め、両国から竪川の北岸を東にすすみ、逆井(さかさい)の渡しで中川(旧中川)をわたり、小岩で現在の江戸川をわたって房総へ向かう道がひらかれました。「元佐倉道」とよばれ、明治8年(1875)に千葉街道と改称されています。江戸時代に作られた『水戸佐倉道分間延絵図』には「元佐倉通り逆井道、江戸両国橋え道法三里」と記されています。
江戸から佐倉へ向かう道筋には、千住から新宿(葛飾区)に至って水戸街道から分かれ、小岩に至る佐倉道があり、江戸時代にはこちらが街道として利用されていました。
江戸を守るために江戸川には橋が架けられませんでした。小岩市川の渡しの小岩側に小岩市川関所がおかれていました。『新編武蔵風土記稿』の伊与田村の項に「対岸は下総国葛飾郡市川村なれば、小岩市川御番所という」とあります。これは幕府の設けた関所のひとつで、常時4人の番士が配属されていました。上流の金町松戸関所とともに、江戸の出入りを監視する東の関門でした。戊辰戦争では、ここも戦場になっています。明治2年に廃止されました。
1880年代のようす。↓が渡し場。
2010年代のようす。両岸に旧道の痕跡あり。
対岸に「小岩関所跡」碑。
市川橋。
旧名は江戸川橋(えどがわばし)。全長399m。幅上り17.5m/下り12.45mの連続鋼桁複合橋形式を採用している。
江戸時代には佐倉街道上にあり、関所と渡し船が設けられていた。明治維新後も渡し船による輸送が続けられてきたが、国府台に陸軍教導団、続いて陸軍野砲兵第二旅団が設置されると、東京防衛のための役割があるにも関わらず、江戸川に阻まれて東京との陸路が閉ざされているという問題点が生じた。
そのため、1905年1月16日に渡し船の船着場近くに江戸川最初の木造橋である江戸川橋が設置された。後に江戸川橋と並行する形で京成電鉄の鉄橋が架けられた。1927年12月2日には、従来の江戸川橋よりも南側の現在地に鉄橋を設置した。その際に市川橋と改称された。
その後、老朽化と交通量の増加に対応するために、全面的な架け替え工事が行われた。1963年9月に下り線が、1967年3月には上り線が完成して、現在の姿となったのである。(「Wikipedia」より)
こちらは「総武線」の鉄橋。
河川敷には「緊急船着き場」。
「さくら堤 公園」。
「江戸川スーパー堤防」。
振り返ると、総武線鉄橋。
河川敷に下りてみます。
「緊急船着き場」。
流れはきれいです。
対岸は、江戸川病院、スカイツリー。
案内板。この付近の土手には菜の花が咲いていません。
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