x③「六兵衛の渡し跡」。
別名「上新宿の渡し」と言うが、六兵衛なる人が運営し「六兵衛の渡し」が一般的。作業場(対岸の耕作地や流作場)への渡しとして昭和二十年頃まで存続。
※「流作場(ながれさくば/りゅうさくば)」=江戸時代の田の種類の一つ。河川または湖沼の氾濫により、水害をうけやすい場所にある田地。石盛(こくもり)は下田より低いのを通例とした。
左手奥から用水路が続く。
「海から32.0㎞」。
「海から31.5㎞」。
④「半割(南)の渡し跡」。
三、四人が共同で運営、昭和二〇年代後半まで存続した。埼玉側では農閑期に牛や馬を千葉側に預けることが多く、「馬船」と呼ばれる大型の舟を使用した。
この付近の今昔。
1880年代のようす。二ヶ所渡し場がある。 2010年代のようす。西側に「半割」という地名あり。
前方に「常磐自動車道」。
「海から30.0㎞」。
千葉県流山市方向。
「常磐道」。
左前方に見えるのは「流山市 クリーンセンター」。
埼玉県吉川市方向。
道の両側には菜の花が満開。
流山市 クリーンセンター。
⑤「羽口の渡し跡」。
流山に屯集した新選組を制圧するため、新政府軍が来流(※流山に来ること)し、砲列を敷いた。田中藩が統治した加村の公営の渡し場だが、近くに賭博場があったとも言われる。
ここで、近藤勇率いる「新選組」の名が登場。
対岸を望む。
1880年代のようす。上部に渡し場。 2010年代のようす。かつての土手が中洲に?
「海から25.5㎞」。
左手は「流山市PCR検査センター」(旧東葛病院敷地内)。
前方に架橋工事が。
「海から29.5㎞」。