「176.0㎞」ポスト。
利根川の右岸、埼玉県側に入りこむように「群馬県伊勢崎市」があるのでしょうか?
かつて蛇行していた「利根川」の流れに沿って、県境があるためです。
2010年代のようす。境島村の飛び地のようにあります。かつては地続きの土地でした。
1880年代のようす。旧利根川のようす。流れが幾本かに分かれ蛇行している。北が「上野国」南が「武蔵国」。
(「歴史的農業環境システム」より)
対岸の伊勢崎市街地。
群馬県内を歩く。
河岸に何やら標識が。渡船場のようです。「島村渡船」。
島村渡船は、利根川により南北に分かれた境島村を結ぶ9人乗り(内1名は渡船夫)の渡し船であり、伊勢崎市道(境)6-603号線の一部です。江戸時代中期頃から始まったと伝えられており、昭和26年4月1日に群馬県に移管、平成24年4月1日から伊勢崎市に移管され、管理運行を行っています。水位の変動や天候により運休になることもありますのでご了承ください。
※令和元年10月の台風19号による大雨の影響で、船着き場や航路が被害を受け境島村渡船は現在運行を行えない状況にあることから、令和3年度は運休としますのでお知らせします。
(この項、「」HPより)
伊勢崎市境島村は、河川改修などによる流路変更によって地内の真ん中を利根川が貫流しており、付近に橋がないことから住民の交通の便のために運航されている。運賃は無料である。自転車も荷物として持ち込める。
使用されている船は川舟タイプの船で、エンジンも装備されており基本的にはエンジンを使って進むが、船着場付近では櫂を使用する。付近は河川敷が広く、堤防から船着場まで両岸とも250メートルから300メートルある。もとは群馬県道295号新地今泉線代替の渡船であり、群馬県営であったが境町(現在では伊勢崎市)に運航が委託されていた。2012年4月1日に当該区間が県道から伊勢崎市道に移管されたため、渡船も運営主体が伊勢崎市に替わった。・・・毎年5月の第3日曜日には「島村渡船フェスタ」が開催される。
(この項、「Wikipedia」参照)
2010年代のようす。○が「渡船場」。
案内板。
左手に下って行きます。「島村蚕のふるさと公園」へ。
「田島弥平旧宅周辺地図と島村渡船のご案内」。
田島弥平旧宅主屋全景(南東から)
田島弥平旧宅は、田島弥平(文政5年(1822年)生、明治31年(1898年)没)による、近代養蚕法「清涼育(せいりょういく)」の開発と、ヤグラ(越屋根、天窓ともいう)付き総二階建ての近代養蚕農家建築の原点となった建物です。伊勢崎市境島村地区は、江戸時代中期から蚕種(さんしゅ=カイコの卵)製造の盛んな地域で、田島弥平家も有力な蚕種製造農家でした。 蚕の飼育は難しく、年によって収量の差が大きかったため、弥平は各地の養蚕方法を研究し、蚕の飼育には自然の通風が重要であると考え「清涼育」を大成し、安定した繭の生産に成功しました。
また、「清涼育」に適した蚕室の工夫を行い、文久3年(1863年)には棟上に換気設備(ヤグラ)を備えた瓦屋根総二階建ての住居兼蚕室を建築しました。桁行き約25.38メートル、梁間約9.4メートルの大規模な建物で、1階を住居、2階を蚕室としました。 弥平は「清涼育」の普及のため明治5年(1872年)に『養蚕新論』を著し、ヤグラを付けた養蚕農家建築は、その後の近代養蚕農家建築の標準となりました。
幕末の横浜開港後、島村の蚕種製造農家は、当時微粒子病で養蚕に壊滅的な被害が出ていたヨーロッパ向けの蚕種輸出に積極的に取り組みました。
微粒子病が克服され、横浜からの蚕種輸出が振るわなくなると、島村では明治12年(1879年)から明治15年(1882年)の間、蚕種をイタリアへ輸送し現地で直接販売する直輸出を行いました。弥平はこの第1回の渡航メンバーの一人です。
最後の直輸出を担当した田島啓太郎がイタリアから顕微鏡を伝えると、弥平は顕微鏡を用いて蚕の病気の検査・研究を行いました。後に、住居兼蚕室の2階北隅には顕微鏡室が増築されています。
明治初期、生糸増産のために先進地の視察を行う際には、器械製糸は富岡製糸場に、養蚕技術は田島弥平に学ぶのがモデルコースでした。また、富岡製糸場の外国種などの試験飼育の要請に応え、繭品種の改良や統一運動に協力しました。
境島村の「田島弥平旧宅」は、平成24年9月19日の官報告示により、国史跡に指定されました。 旧宅には、文久3年(1863年)建築の主屋が現存するとともに、当時の蚕室建物跡、桑場、蚕種保管の種蔵などの遺構が残ります。田島弥平の業績は高く評価することができ、近代養蚕業の発展を知る上で重要な場として国史跡に指定されました。
富岡製糸場、田島弥平旧宅、高山社跡、荒船風穴の4つの資産で構成する「富岡製糸場と絹産業遺産群」は、平成26年6月25日、世界遺産に登録されました。
(この項、「」HPより)
時間が無くて寄れませんでした。公園内の駐車場には、けっこう車が駐車して見学客なども多いようです。
トイレやベンチなどがあり、休息に絶好です。
植えてある桜並木は「河津ザクラ」のようです。
(付)養蚕業の現状
日本の繭生産量は、今から約80年前1930年(昭和5年)の40万トンをピークに減少し、昭和40年代に持ち直しの傾向が見られたものの、2016年(平成28年)には約130トンまで落ち込んでしまいました。富岡市においても昭和43年に3010戸の養蚕農家で1441トンあった繭生産量が、平成26年には12戸の養蚕農家で約4.2トンと激減しています。
また、繭生産量の減少に伴う製糸業の衰退も著しく、平成元年に53あった国内製糸工場数は、平成20年にはわずか4工場を残すのみとなってしまいました。そのうちのひとつが富岡市の隣、安中市にある碓氷製糸株式会社です。
これら衰退の原因は、安い労働力に支えられた海外の低価格繭の流入、後継者不足など社会的構造の変化、また、日本人の生活様式が和装から洋装へ変化したことにより絹の消費量が減ったことなどがあり、その難しい対応に迫られています。
しかし、平成27年以降の富岡市内の養蚕は、養蚕農家以外にも地域団体や民間事業者が養蚕を開始したことに伴い、平成26年の繭生産量4176kgから昭和58年以来32年ぶりに増加に転じました。令和元年は、11養蚕農家、2地域団体、2民間事業者が養蚕を行い、繭生産量は6930kgとなりました。
(「」より)
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かつて、埼玉県・群馬県・栃木県など、関東平野の北西部では桑畑をずいぶん見かけましたが、今回はまったく見ることがありません。世界「遺産」でしかない、というのが現実でしょうか。